西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 1   2009年11月号
長沢 利明

歌よみの国

 
江戸川柳に「雪隠へまで虫除けの和歌の国」というのがある。便所の中でまで和歌をよんでいるのであるから、つくづく日本というのはおもしろい国だ、というわけであるが、便壷にウジ虫の湧くのを防ぐまじない歌のことをいっており、「千早振る卯月八日は吉日よ神下げ虫を成敗ぞする」というのがその歌であった。卯月八日はもちろん釈尊生誕日で、寺院では花祭りの降誕会がおこなわれるが、誕生仏に注ぎかける甘茶をもらってきて、それで墨をすり、このまじない歌を紙にしたためて雪隠の壁や柱に貼っておくと、ウジ虫除けになるとされた。その際に、歌を書いた紙片を上下さかさまに貼るというのが決まりで、虫が読むのだから天地を逆にしなければならないといわれていた。「下女歌をほんとに貼って叱られる」という川柳もあるが、さかさまに貼るならわしを知らなかった下女が、普通に貼ってしまって主人から叱られたという意味である。


迷子猫が戻ってくる まじない歌の貼紙(千葉県千葉市) 垣田千恵子氏提供 画像はクリックで拡大します

伊藤晴雨の『江戸と東京風俗野史』には、この習俗を描いた挿絵が載せられているけれども[伊藤,1967:p.248]、紙はさかさまに貼られておらず、これでは叱られた下女と同じである。江戸風俗考証家として名高い晴雨ともあろう人が、ミスをおかすとは考えられないので、このようなやり方もあったのかもしれない。なおこの歌はもともと、縁の下の土台柱などに貼る長虫(蛇)除けのまじない歌で、江戸市中に蛇がいなくなったため、便所に貼られるようになったともいわれている[岡田,1958:p.248]。群馬県では「千早ぶる卯月八日は吉日よ髪長虫のご成敗かな」という形だそうで、この歌を書いた紙を便所ではなく家や納屋の入口に貼ったとのことである[高崎市(編),1992:p.166・1995:p.161]。
重要なことは、ことあるたびに歌というものをよんで自らの意思を明らかにし、祈りや願いの趣旨を口ずさんで表現してきたというのが、日本人の古くからの伝統であったということであろう。しだいにその即興性が失われていき、ついには定型化したフレーズが形式的に用いられるようになっていったとはいえ、それはそれとして力を持ち続け、和歌の国の伝統は、歌よみの国の民俗をも作り出していった。そこでよまれる歌は本来の和歌の形式を守って、基本的に五七五七七調の31文字で構成されていなければならないし、厳密な意味で俳句・川柳の類は歌とはいえない。便所の壁に貼られた先のまじない歌でさえ、きちんとその形式の守られた立派な歌なのであった。
ところで、便所での歌よみなどというと、私は思い出すことがひとつある。学生時代の私は、毎晩のように仲間と酒場を飲み歩いていたのであるが、居酒屋の男子便所に用足しに行くと、目の前の便器の上の壁に歌を書いた紙が貼ってある。その歌は、「急ぐとも心静かに手を添えて外に漏らすな松茸の露」というもので、うまいことを言うものだなと感心しつつ、思わず便器に向かって一歩前に進み、こぼさぬよう気をつけた覚えがある。大衆的な居酒屋の便所には、たいていそれが見られたが、今でも貼ってある店があるかもしれない。こういったものまで含めて、現代の歌よみの一種と考えるならば、「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」などという教訓言葉や、「桃栗三年柿八年、柚子の馬鹿めが十六年」などといった言い回しさえも、少しはその伝統を継承したものであったといえるかもしれない。たとえば「春来たりなば冬遠からじ」などと一人がよみ、もう一人が「それにつけても金の欲しさよ」と続けるパロディもあるけれども、この場合の下の句は、いかなる上の句にも合わせることができる点、すぐれた現代の言葉遊びの例といえよう。「永き世の遠の眠りの皆目覚め波乗り舟の音の良きかな」で知られる宝船の回文歌も、「芹薺ごぎょうはこべら仏の座すずなすずしろこれぞ七草」という春の七草の歌も、そうした伝統と無縁ではないであろう。しかしながら、秋の七草の方はまるで韻を踏むことなく、ただ植物名を羅列するのみとなっているのはなぜなのか、理解に苦しむところである。
民間習俗として見た場合の歌よみの諸事例には、実にさまざまなものがあって、なかなかおもしろい。たとえば正月の鏡餅にまつわる一種のまじない習俗として、歯固めの歌よみの例があった。歯固めというのは、元旦に鏡餅をかじって歯を鍛え、延命長寿を祈る儀式であったが、この正月の鏡餅を保存しておいて六月一日に食べることもあり、それもまた歯固めと称した。歯固めをおこなう際によまれる歌が、「近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は」であるが、これは『古今和歌集』中の一首で、六歌仙の一人である大伴黒主の作といわれている。正月の鏡餅を供える際、この歌を3遍唱えると縁起がよいとされていた。古今集にはもう一首、黒主の歌が収められていて、「鏡山いざ立ち寄りて見て行かむ年経ぬる身は老いやしぬると」というのがそれであるが、これも鏡山のことをよんでいる。江戸の地口にはこれを茶化して、「鏡餅いざたち割りて煮て喰はん」というものもあった。飼い猫が行方不明になった時、紙に書いて貼っておくまじない歌というものもあり、在原行平の「立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとしきかば今かへりこむ」がそれであった。根岸鎮衛の『耳袋』には川漁時の水難よけのまじない歌として、「ひょうすべに飼い置きせしをわするるな川立ちおとこうじはすがわら」というものがあげられているが、上総国夷隅郡岩和田村(現御宿町岩和田)の伝承例という。「ひょうすべ」とは河童のことであるから、要するにこれは河童よけの歌である。
私はかつて東京都西多摩郡桧原村人里という所で、ウカガイと呼ばれる民間巫術者の調査をしたことがあるが、シャーマンの老婆が私に教えてくれたいくつかの儀式の呪文は、いずれもまじない歌であって、そうした歌を唱えながら儀式をおこなうことを「歌よみ」と呼ぶのだと、その老婆は語っていた。まさしくそこには、歌よみということが今の世に生きていたのであるが、そこでよまれるいくつかの歌を紹介してみれば次の通りである。まずは出産前の妊婦の全身を撫でながらおこなう安産祈願の儀式の際によまれる歌で、「さよ姫や急いで旅に発つ時は後のものとてあとに残すなよ」というものがあった。ここにいう「後(のち)のもの」とは後産のことで、この歌を唱えれば、まちがいなくイナ(胞衣)が無事に降りたという。「さよ姫」とは春の女神である佐保姫のことで、秋の女神である龍田姫に掛けて「発つ」としているのかもしれないし、松浦佐用姫のことをいっているのかもしれない。もうひとつは小児の夜泣き封じの歌で、「野原の里の白狐(しろぎつね)、昼は鳴いても夜は鳴くなよ、アビラウンケンソワカ」というものであった。歌というよりは呪文であろうが、これを三回唱えて小児の耳にフッと息を吹き込むと、夜泣きがやむという。さらにもうひとつ、子供の虫歯治しの歌というのがあって、「朝日さす夕日輝くゆむぎ他所(よそ)へ散らさずここで枯らさむ」という歌を18回唱えながら、子供の頬をさすると痛みが消えるという[長沢,1989:pp.196-197]。これによく似た「朝日さし夕日かがやく何のもと小判千両有明の月」という歌が四国地方ではよく聞かれ、宝物を埋めたとされる地に伝えられてきたという[遠藤,1917:p.44]。桧原村のウカガイは、この歌よみという方法で多くの村人たちの軽い病気を治してきたほか、産婆として当地域のほとんどの出産にも立ち会ってきたのである。こうした呪法を「歌よみ」と称することは東京都八王子市でも聞かれ、たとえば針仕事をしていて縫い針をなくした時によむ歌として、「清水の音羽の滝はつきるともうたせる針の出ぬことなし」といった歌が伝えられてきた。安産を祈って妊婦の腹を撫でながらよむのは、「みつの日もとけやすからぬ産神(うぶがみ)にかけてぞ祈る親も子のため」という歌であったという[佐藤,1995:pp.95-96]。
病気治しの目的をもってなされるところの歌よみの民俗事例は、多くみられる。近世江戸の随筆集、『譚海』には眼病治しのまじないとして、夜中に銭一文を持って外に出て、四辻でその銭で目をよくぬぐい、「おく山のひのきさはらぬさしをひきあたひにはかまはぬうるべしかふべし」と3回唱えて銭を後ろに落とし、後を見ずに帰るという例が載せられている。鼻血を止めるには、その人に向かって右手人差し指で「難波津に咲や此花冬ごもり」という上の句を書く。その際に「り」の字を「理」と書くべしともあるが、なぜか下の句が示されていない。東京の下町に伝えられた六三除けの祈願法には、「五王ある中なる王にはびこられ病はとくと逃げ去りにけり」との歌を用いるやり方があった。豆腐一丁を賽の目に切って祈願者の歳の数だけ用意し、酒一合と醤油少々を添えて神仏に念じ、この歌を十遍唱えてその酒を三口呑み、豆腐五切れを食べ、残りは白紙九枚に包んで海や川に流すという、大変複雑な儀式であった[谷根千工房(編),1987:p.26]。
山中共古の『甲斐の落葉』を見ると、風邪よけのまじない歌として「いかでかは身もすそ川の流れくむ人をたよらずえきれいの神」というものが載っており、これを書いて戸口に貼っておいたという。近畿大学の井上直人氏は、和歌山県の紀伊大島で民間医療に関する多くの歌よみ事例を採集しておられるが、そのいくつかを紹介してみれば次の通りである。まず火傷治しの呪文歌として、「火傷を為せど、はれるな、うずくな、あとつくな、薬になれ猿沢の水」というものがあり、流行目(はやりめ)治しについては「影清き今日目を照らす水鏡、今より後は曇らざりけり、オンコロコロセンダラマトウギソワカ」というものがあった。「オンコロコロ…」は薬師如来の陀羅尼である。腫れ物治しのそれは「ヤマシロ、ヤマト、イガカワチ、コノウチウミ、ナシノサト、ナムアビラウンケンソワカ」で、腹痛を治す時の場合は「秋すぎて冬の初めの十月は霜枯れなれば虫の子もなし」と唱えて腹をさするという。蛇にかまれぬための呪文もあり、「逢坂や、しげみが峠かぎわらび、昔の女、薬なりけり」というものであったが[井上,2002:pp.281-283]、これはいわゆる「蕨の御恩」型の蛇よけ歌にも、少しは通ずるものであろう。
全国各地にはこの形の蛇よけ歌がいろいろ見られ、「朝日さすかやマムシどの、チガヤの上に昼寝してワラビの恩を忘れたか」とか「信濃の国の戸隠山のかきワラビのご恩を忘れるな」とかといったものが、それにあたる[中島,1967:p.4]。「天竺の茅萱(ちがや)畑に昼寝して蕨の恩顧を忘れたか」とか「奥山の姫まむし蕨の恩を忘れたか」とかも、もちろんそうである[南方,1971:pp.430-431]。これらを「蕨の御恩」型だとすれば、それとは別系統のいわば「山立姫」型の蛇よけ歌もあって、蛇除け祈?で有名な東京都世田谷区の北見伊右衛門家に伝わる「この道に錦まだらの虫あらば山立ち姫に告げて取らせん」という歌が、その典型例となろう。新潟県からは、これの変形と思われる「まだら虫やわが行く先へいたならば山たち姫に知らせ申さん」・「あくまだちわがたつ道に横たへばやまなし姫にありと伝へん」という例が得られている[同]。
ついでなので、私が山梨県南巨摩郡南部町で採集したものも、いくつかあげてみよう[長沢,2001:pp.15-17]。まず火傷治しの呪文であるが、「猿沢の池の大蛇が火傷して痛まずうまず跡つかず」もしくは「猿沢の池の赤大蛇その水取ってひりつけひりつけ」と三回唱えるといい、先の紀伊大島の例と同じく、猿沢の池の水がここにも出てくる。同じような歌は『続呪詛重宝記』にも載っている[中島,1979a:p.30]。小児の夜泣き封じの歌は「猿沢の池のほとりで鳴く狐おのれ鳴くともこの児泣かすな」というもので、ここにも猿沢の池が出てくるのであるが、これを紙に書いて貼っておくと夜泣きがおさまるという。目に入ったゴミを取り除くための呪文は「隣のおじいさん、おばあさん、ごまんざらい持ってきてかじり出せ」というもので、とても歌にはなっていないが、静岡県下からは「爺婆熊手持ってきて掻き出せ掻き出せ」という類例が得られている[中島,1979b:p.302]。虫歯の痛む時には「東の方の桑の木の葉を食う虫仇(かたき)なり」と唱えながら、桑の葉を痛む歯で噛む。「葉」は「歯」の語呂合わせだという。「田の虫を鳥が食う」はタムシ治しの、「しびれしびれ京にのぼれ」は手足のしびれ治しの、「こうでヶ原のこうで男こうで招けばこうで治る」はコウデ治しの、「イボイボ一本橋を渡れ」はイボ治しの呪文であったが、和歌の形式にはなっていない。流行病にかかっている人と道で出会った時、「我は薩?の御子なり、そこのけたまえ厄人の神、あぶらおんかおおせんか」と三回唱えると、感染をまぬがれるという。
南部町ではさらに、病気治し以外のまじない歌として、「七日の月」の歌というものも聞いた。六日の月は不吉とされ、はからずも空にそれを見てしまった時、それを唱える。「月々に月なき月はなけれども今宵の月こそ月の月かな」というのがそれで、「月々に月みる月は多かれど今宵の月こそ月の月かな」という十五夜の歌が元歌であろう。歌の中には月という言葉が七回出てくるので、六日の月に勝るのだという。早起きのまじない歌は各地に多く伝承されているが、当地のものは「寝るぞ寝狸頼むぞ垂木床柱、時来たりなば起こせ屋根棟」というもので、床に入る時にこの歌をよむと早起きができて、遅刻をしないという。類例は全国的に見られ、たとえば東京都内からは「寝るぞ根太頼むぞ垂木梁も聞け、明けの六つには起こせ大びき」あるいは「寝るぞ梁たのむぞ垂木屋なか竹、何事あらば起こせ屋の棟」という例、熊本県内からは「寝るぞ猫頼むぞ垂木獅子兎、何事あらば起こせかわうそ」という例が得られている[中島,1981:pp.14-15・佐藤,1995:p.96]。
さらに、寝床に入ってからよむ歌というのもいろいろあって、『夢合延寿袋大成』などの近世の夢占本などには、次のようなものが載せられている[江口,1991:p.84]。まず、なかなか寝つかれない時によむ歌として、「わすれてはうちなげかるる夕べかな、われのみしりてすぐる月日を」というものがある。先述のとは違った早起きのまじない歌もあり、眠る前に「ほのぼのとあかしの浦のあさぎりに」と上の句のみよんで、目覚めた時に「島がくれ行く舟をしぞ思う」と下の句をよむことになっている。見たい夢をみるためには、「わがおもふ心のうちの恋しさをまさしくつげよ神のまにまに」と三遍唱える。悪しき夢を消すためには、「見しゆめをばくのゑじきになすからに心もはれしあけぼのの空」と三遍唱えるとよいといい、悪夢を獏に食わせるためのまじない歌であった。
和歌の国の住人たる古代の人々の歌よみの文化は、かなり形を変えつつも、こうして民俗文化の中にも取り入れられてきたことがわかる。人々は日常生活上のさまざまな場面で、ことあるたびに歌をよんでは唱え、神への祈願や忌まわしきものをしりぞけるための呪術を行ってきた。それこそが歌よみの民俗なのであって、私たちは今でもなお、少しは歌よみの国の住人としての伝統を帯びながら、その資質を継承しつつあるといえるかもしれない。歌とは呪詞でも願文でもあり、祝詞でもあって、そこに込められていた言霊の力は長らく失われることがなかったように思われる。

文 献
江口孝夫,1991「夢占い」『別冊太陽』73,平凡社.
遠藤冬花,1917「朝日夕日の古歌」『郷土研究』Vol.4-11,郷土研究社.
井上直人,2002「紀伊大島に伝わる民間療法」『民俗文化』14,近畿大学民俗学研究所.
伊藤晴雨,1967『江戸と東京風俗野史』Vol.6,有光書房.
南方熊楠,1971「蛇に食いつかれぬ歌」『南方熊楠全集』Vol.3,平凡社.
長沢利明,1989『東京の民間信仰』,三弥井書店.
長沢利明,2001「南部町の諺とまじない歌」『峡南の郷土』41,峡南郷土研究会.
中島恵子,1967「山菜と蛇除けのことなど―西上州松井田町入山聞書―」『西郊民俗』43,西郊民俗談話会.
中島恵子,1979a「まじないの本『呪詛重宝記』」『女性と経験』bS,女性民俗研究会.
中島恵子,1979b「童詞・童謡の宗教性」『講座日本の民俗宗教』Vol.7,弘文堂.
中島恵子,1981「まじないの歌」『月刊百科』220,平凡社.
岡田 甫,1958「川柳江戸風俗」『講座日本風俗史』Vol.3,雄山閣.
佐藤 広,1995『八王子の民俗』,揺籃社.
高崎市(編),1992『寺尾町館の民俗』,高崎市.
高崎市(編),1995『上小塙町の民俗』,高崎市.
谷根千工房(編),1987「健康にご利益のある谷中寺めぐり」『谷中・根津・千駄木』14,谷根千工房.
 
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