西郊民俗談話会 

本文へジャンプ

連載 「民俗学の散歩道」 3  2010年1月号
長沢 利明
争いの樹
 
 かつて柳田国男氏の注目された、いわゆる「争いの樹」というものが東京都北区田端の地にあったことは、広く知られてきたことである[柳田,1963:pp.112-135]。それは花見の名所として知られる道灌山(飛鳥山)の続きの台地の縁に祀られていた白鬚神社の神木で、もともとは2本が並んで立っていた杉の老木であった。周辺にはほかに巨樹がなかったため、非常に目立つ二本杉で、そのようなランドマークに何らかの伝説が付与されてきたのは当然のことであり、何のいわれもなかったはずがない。この田端の老杉の場合、地元では「争い杉」という通称が与えられ、この樹をめぐって争った人々がいたとの伝承が語られてきた。では一体どうして、そのような呼び名が生まれたかというと、太田道灌にまつわる次のような伝説がそこに存在したからである。すなわち道灌が1人の侍とともに、はるか遠くからこの樹を眺めて、あの樹は松だ、いや杉だと言い争った。道灌は杉だといい、もう1人は松だと言った。近くに寄って、ともに確かめてみると道灌の言い当てた通り、それは杉だったといい、もう1人の侍は自身の誤った発言を恥じて自害をしたという。それで争い杉と呼ばれるようになったというのである。また一説によると、この樹が二本杉で、あい争うように見えたため、そう呼ばれるようになったともいわれている[民俗学研究所(編),1955:p.56]。
 この争い杉のことは、『新編武蔵風土記稿』の田端村白鬚神社の項に、「争いの杉」として記録されており、「當社の神木にて社邊陸田間にあり。高二丈五尺許可、周圍八九尺程。遠くより望めは其木ふり松に彷彿として、見る者松と云、杉と云て争ふ故此名あり」と解説されているし、大正時代の記録にも次のように述べられている。
 道灌山の臺つづきで、田端の鐡道線路に臨んだ地に在る。由來を石に刻して居る。昔太田道灌一人の士と共に遙かに此樹を望み、杉だ松だと言ひ争った處が、近づいて見れば杉であった故に、其士は恥ぢて自殺をした。それ故に争杉(あらそひすぎ)と云ふとある。又一説には、此樹幹が二本に別れ相争ふの状あるより、此名があるのだとも云ふ。此方が事實に近いかと思ふ。奥州線の鐡道開通の時、此樹線路に當った故に今の處に移栽したが、間も無く其一本は枯れた。由って今では道灌山の一本杉とも呼ばれて居る[平野,1916:pp.46-47]。
 ここにあるように明治時代、周辺が鉄道用地となったため、二本杉は道灌山に移植されることとなり、白鬚神社も移されて今では北田端八幡神社の境内社となっている。移植された二本杉は1本が後に枯死してしまい、1本だけが残っているとある。神社と杉とが立ち退いた後の用地に新設された鉄道線路は今日のJR京浜東北線であって、丘陵台地をかなり削って線路を敷設したものらしく、今そこを見ると切り落とされた崖面が石垣やコンクリートで固められている。あまりにも大規模な地形改変がなされたため、二本杉と白鬚社の旧地がどのあたりであったのか、今となってはすっかりわからなくなってしまったが、現在の田端中学校のあるあたりがそれだといわれている。このあたりの山の手台地はかつて、もっとずっと前面にまで張り出していて、田端駅前の高台はなだらかな山のようになっていたのである[北区史編纂調査会(編),1994:p.234]。児童小説家として知られる渋沢青花氏の少年期の回想録にも、この争い杉のことが出ており、次のように述べられている。
 「おい、向うに一本木が見えるだろう」と小宮山さんは立ちどまって、前のほうを指さした。空は晴れて雲一つなく、畑は緑色の毛氈を拡げたようななかに、たった一本松か杉か木が見えた。「あの木をなんだと思う?松か、それとも杉か?」わたしたちは答えられなかった。すると小宮山さんが、こんなことをいった。「あの木について、おもしろい話があるんだよ。昔二人の侍がね、遠くからこの木を眺め、一人は松だといい、一人は杉に見えるといって争ったんだ。そしてそのあとで、それじゃあ負けたほうが腹を切ることにしようと約束したんだ。それでそばへ来てみると…」果して松だったのか、それとも杉だったのか、わたしは今記憶していないが、ともかく一人の方があたって、ほかの方が負けたのだ。その結果、負けた侍が腹を切って死んだのだそうだ。小宮山さんは、こんな遠くの所にある木のことを、どうして知っているのだろうと、わたしは不思議に思った。しかしそれは嘘でもでたらめでもなく、事実そんな伝説があるのだということを、その後なにかの本で読んだことがある[渋沢,1980:pp.218-219]。
 これは1898年(明治31年)から1902年(同35年)頃にかけての話であったというから、この頃には杉の樹はすでに移植先にあり、しかも1本が枯れて、一本杉になっていたことがわかる。しかし、2人の武士がこの樹の樹種をめぐって争ったとの伝説は、きちんとそこに語り伝えられていた。しかし、さらにその後、移植先に残された1本もまた枯死してしまったとのことで[中山,1941:p.88]、老樹の移植というのは大変にむずかしい。長期間の時間を要して充分に根回しを施さないことには、必ずそれは失敗する。おそらくそれは、かなりの急工事であったのだろうと推測されるのである。枯死した後の一本杉は、建築用材として利用され、田端の八幡神社の社務所がそれで建てられたといい、由緒ある巨木の巨材をふんだんに使用した玄関部分は、異彩を放っていたというが、これも戦災焼失してしまって現存しないのは、まったく残念なことでもあった[東京都北区役所(編),1951:p.811・1971:p.1647]。
 田端の争い杉にはこのように、主として太田道灌にまつわる伝説が語られてきたのであったが、道灌ではなく畠山重忠ゆかりの老樹として、この樹の由緒が語られることも時にはあった。『北多摩郡誌』の滝野川村の項を見ると、「争ひの杉は此辺にては有名なるものなりしが、十数年前移されて既に枯死せり。即ちその紀念にもと諸書見るところを掲ぐ」として、「廻り一丈七尺、高さ二丈半、凡四百年、田端三角屋敷、有名なる太田道灌争の杉としるせり」としつつも、次のような異説もまた取り上げている。
 滝野川の高地にある「畠山重忠争の杉」といふ大なる杉の木なり。口碑の伝ふる所に拠れば、頼朝奥州征伐の時、畠山重忠遠くより此杉を見て「彼は杉なり」といひ、他の者は「否、松なり」といひて争ひしが、近けば全く杉なりし故、此名残れりとしるせり。一書に「此杉の頭は何時の世の嵐にか吹折られて半はなく幹も半ば枯れて虚となれり。虚の中には人八十人を座せしむべし。一説に古へ源頼朝兵を発して高館を撃や、畠山重忠亦手勢を率ひ其中にあり私に義経を惜みて兵を進むるに忍びず、偶々数丁の外に一怪樹あるを望みて其名を問ふに、従者皆杉なりと答へたり。重忠首を振て曰く否松なり」と見ゆ。(中略)重忠は意味ありていひしものにて、「待つ」にかけて暗に其意を示せしなり。然れども是れ恐らくは後人の託説ならむ[北豊島郡農会(編),1918:pp.252-253]。
 ここでは源頼朝の奥州征伐の時代にまで話がさかのぼるのであるが、それに従軍した畠山重忠がこの樹を遠望して杉の木だといい、他の者は松だといったという。正しくは杉であったわけであるが、重忠は訳があってわざと松だと言ったともあり、義経を討つのがしのびなく、軍勢を進ませずに「待つ」のだと言って、その意を示したというのであるが、一歩ひねって話をおもしろくさせたのであろう。


ナンジャモンジャの樹(東京都新宿区神宮外苑)  画像はクリックで拡大します

 田端の争い杉には以上のように、太田道灌と畠山重忠に関する二通りの伝説が語られてきたのであったが、この木をめぐって杉だ、松だと言い争ったことは共通している。それは樹木を前にして人間どうしが論争・問答するという話になっているけれども、そのもともとの形は、人間と樹木(樹霊)との問答・対話であったのではなかろうか。遠い昔、人と樹とは、さかんに語り合っていたものと思われ、そのことの遠い記憶が、たとえばナンジャモンジャの樹にまつわる諸伝承を生み出してきたのであろう[長沢,1989:pp.247-264]。「何と、物と」の問答が、あの木は「何じゃ」の問いに対する返答としての「物じゃ」となり、かくして樹種不明の聖樹がナンジャモンジャと呼ばれるようになったのだとするのならば、山中共古氏が『甲斐の落葉』に記した次の「ヲドレの木」のいわれも、まさしく同根の伝承といえる。
 鰍沢ヨリ富士川ヲ川船ニテ下ルト川ノ辺ノ上ニ何ヤラノ木三四本アリ、コレヲヲドレノ木トイフテ川船ニテ下ルモノ、ヲドレノ木ハドレカト聞ケバ、船頭ハコノ木ノアルトコロヘ到ルト指示シ呉レル木ナリ。此ノ木ニ就ノ話ハ、或ル重キ役人此船ニ乗リ川ヲ下ラレケル時、此木ヲ見ラレ船頭ニアノ木ハナントイフ木ナルカト問ハレシニ、船頭ハドレデ御座リマスカトイフノヲ丁寧ニ御ノ字ヲツケテ、ヲドレデ御座リマスト問カヘセシヲ此貴人ハ木ノ名ト心得ラレテ、ヲドレカト云ハレシヨリ、ヲドレト名ノツキシナリトイフ。
 この樹のことは『土俗談話』にも記されているが[山中,1985:p.51]、ナンジャモンジャの樹の伝承とも通じるものがあるであろう。本来の人と樹との語り合いが、樹を前にしての人どうしの問答にすりかわっていったのは、人間の側における樹の声を聞く能力の顕著な衰退の結果であったろう。大昔の人々は樹木にかぎらず、諸動物の言葉も、山や海に宿る神々の意思さえも、聞き分けて感知する力を持っており、自らはその力を持たなくとも、代理人としての民間宗教者がその役割を果してくれたのである。柳田氏が想定されたように、聖樹の下においてなされた古い時代の卜占の行為そのものが、神意を占問うという形での人と樹との対話の姿そのものなのでもあった。
 考えてみれば小正月の成木責めの習俗なども、人と樹との対話と問答の風を、実によく伝えるものであった。庭の栗・桃・梅などの実のなる樹の根元に小豆粥、あるいは繭玉団子のゆで汁をまき、庖丁や鉈で樹の幹をたたきながら1人が「なるかならぬか、ならねば切るぞ」と唱え、もう1人が「なり申す」と答えて、その儀式は終る。つまり、もう1人は樹の代弁者であって、人と樹との問答を人間どうしが代行して演じている。「甲州にては、除夜に栗・梨等の樹の木もとに行て、實のよく成ために樹を責て、ならずば切らんと云。その時傍に詫人又有て、いかにも能なるべきまま、必切るをゆるしたべとわぶる。よくよくわびさせて、怠状乞てされば、其樹年なりせず毎年能みのるなり」と『譚海』に述べられているのも、それにほかならない。埼玉県秩父郡東秩父村御堂では、果樹の前に木刀を持った1人が立って「なるか、ならなければぶっ切るぞ」と述べ、もう1人が「なり申す」と答えることになっている[埼玉県(編),1986:p.310]。岩手県遠野市の例では2人が果樹のかたわらにゆき、1人が手斧を根にあてて「よい実がならなからば伐るぞ」といい、もう1人が「よい実をならせるから許してたもれ」と答えたという[和歌森,1957:p.53]。人間どうしの演技的な問答の姿になってしまったとはいえ、そこには人と樹との対話が本当になされていた時代における、人と樹との、あるいは人と自然との、対等な立場での語らいというものの存在に関する悠久の昔の文化の片鱗が、かろうじてそこに残されているのである。

文 献
平野美迺留,1916「東都近郊の名木(一)」『郷土研究』Vol.4-1,郷土研究社.
北区史編纂調査会(編),1994『北区史・民俗編(2)』,東京都北区.
北豊島郡農会(編),1918『北豊島郡誌』,北豊島郡農会.
民俗学研究所(編),1955『改訂綜合日本民俗語彙』,平凡社.
長沢利明,1989「ナンジャモンジャの樹その後」『東京の民間信仰』,三弥井書店.
中山太郎,1941『日本民俗学辞典』,名著普及会.
埼玉県(編),1986『新編埼玉県史・別編2・民俗2』,埼玉県.
渋沢青花,1980『浅草っ子』,造形社.
東京都北区役所(編),1951『北区史』,東京都北区.
東京都北区役所(編),1971『新修北区史』,東京都北区.
和歌森太郎,1957『年中行事』,至文堂.
山中共古,1985「土俗談話」『山中共古全集』Vol.2,青裳堂書店.
柳田国男,1963「神樹編」『定本柳田国男集』Vol.11,筑摩書房
 
HOMEヘもどる