西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 5  2010年3月号
長沢 利明
太神楽と曲芸師
 
 テレビでおなじみの寄席芸人、海老一染太郎・染之助兄弟の姿を、今ではもう見ることができないのは、何ともさびしいことである。兄の染太郎が胃がんで亡くなったのは、2002年2月2日のことで、享年70歳であった。相棒を失い、一人残された弟の染之助は、今でも一人で寄席に出ているのであろうか。少なくとも、テレビで彼の姿を見ることはなくなった。染太郎あっての染之助なのであって、2人揃っていてこそ彼らの芸は成り立っていた。汗だくになって傘の上で鞠や一升枡を回すのは、もっぱら弟の染之助で、兄の染太郎はその脇で「おめでとうございま〜す」と叫びまくり、「いつもより余計に回しております」とか、「弟は肉体労働、兄は頭脳労働。これでギャラは同じです」とかのギャグを連発して笑いを取るというのが、兄弟の役割分担であった[牧野田,2002]。兄は曲芸が苦手なので、しゃべるのが仕事であり、弟は曲芸はうまいが、寡黙で地味なタイプなので1人では場が持たず、兄が盛り上げねばならない。互いの長所・短所を補い合いながら、絶妙の兄弟コンビが成り立っていたのであるが、脇役であるはずの兄の役割にはむしろ大きなものがあって、それは彼の生み出す「迫力」に支えられていた。出番の合図とともに楽屋裏から猛ダッシュで駆け出し、舞台の中央に進んで片膝つきながらポーズを取り、扇を広げて目玉をまん丸にカッと見開いて声をふりしぼり、「おめでとうございま〜す」の一声をあげる。いきなりエンジン全開の迫力で観客の集中力を一気に高めるのであって、まさにプロの技なのであった。
 この海老一染太郎・染之助兄弟の芸を何と呼ぶかというと、実は「太神楽(だいかぐら)」と称するのだということを、知る人は少ないかもしれない。それは単なる見世物曲芸ではなく、太神楽という名の、もともとは神事芸能・祝福芸能なのであって、伊勢神宮や熱田神宮の太々神楽(だいだいかぐら)にも連なる神聖な芸能から発達したものなのである。海老一兄弟も、自分たちの肩書きを「太神楽曲芸師」と名乗っていたし、祝福芸であったればこそ「おめでとうございま〜す」の決め台詞が連発されたわけで、三河万歳などと同じことである。太神楽には現在、伊勢系・水戸系・江戸系の3系統が残っているが、本来は伊勢神宮の神札配りの人々が、家々の無病息災・家内安全を祈願しつつ披露していった祝福芸・神事芸であったため、もともとは家々の病魔や邪気を祓うための獅子舞を中心としており、それに付随するさまざまな曲芸が発達していった。基本的には屋外で演じられるもので、江戸系の場合は、熱田神宮系の太神楽(現存せず)が室内芸化して寄席芸に取り入れられ、いわゆる色物(いろもの)・雑芸のひとつとなって、江戸太神楽が生み出されていったとされている[大野,1995:pp.44-45]。
 海老一染太郎(本名村井正秀)・染之助(同村井正親)兄弟は、貧しい落語家の家に生まれた。第二次大戦下に過ごした少年時代は赤貧の生活で、豆カスやヒエの混ざった飯ですら、茶碗1杯を食べることができなかったそうで、兄が中学1年生の時に終戦となり、「進駐軍に珍しい芸を見せれば、うまい物を食べられるぞ」と父親にすすめられて、太神楽師の2代目海老一海老蔵師匠に兄弟で弟子入りしたとのことである。1946年に新宿末広亭で初舞台を踏み、子供2人組の可愛らしいコンビだったので、進駐軍の慰問で人気を博し、サンドイッチやアイスクリームを褒美にもらえたそうで、1960年には旧ソ連文化省の招聘で世界各地を巡業し、アメリカやブラジルにも渡って喝采を浴びた。その後は日本中を飛び回り、朝は北海道、昼からは九州で公演をこなし、夜に東京へ戻るという日もあったといい、ついにはテレビの売れっ子となった。舞台では曲芸のできる弟の方が格上で、演技がうまくいかなければ容赦なく弟は兄を叱責したという。しかし実をいえば、兄は曲芸ができなかったわけではなく、弟よりもむしろ頭がよく芸の覚えも早かった。けれども兄は気持ちが長続きせず、結局弟の方が上達することになるので、兄は脇役に回る結果になったという[牧野田,2002]。けれども、その脇役が後に名脇役となり、主役をしのぐまでの存在になっていったわけである。
 さて、ここで各地に残る江戸系以外の太神楽が、どのように演じられてきたかについて、少々見てみよう。まずは伊勢系(伊勢太神楽)であるが、長年それを演じてこられた神楽師の山本源太夫氏から、1970年代に聞き取りをされた須藤功氏の報告をもとに[須藤,1975:pp.32-33]、その実態を見てみよう。当時、伊勢の神楽師(太夫と呼ばれる)は7〜8人ずつ10組ほどの神楽社を編成しており、高齢化が進みつつあったとはいえ、三重県桑名市の太夫町に居住しつつ各地を回って、芸の上演をおこなっていた。明治時代までは毎年12月23日に、伊勢神宮の内宮御師から神札と暦とが手渡され、それを持って各地に配り歩いて初穂を受けており、古くは丸薬なども持っていった。現在は12月24日に地元の増田神社で太神楽を演じ、大晦日には太夫町を旅発ってほぼ1年間、旅の生活を続けるのであるが、雨の日は休みとなり、ほかに年間75日間は休むようにしていたという。1年の旅を終えて太夫町に帰ってくるのは、12月20日のことであった。太夫町には尾張の津島牛頭天王社に属する師職と、伊勢の神楽職(師)とがまとまって住んでおり、師職は奥羽・関東甲信越方面を回っていたので「下行(しもゆき)」、神楽職は関西・北陸・中国方面を回ったので「上行」といっていた。神楽師は神楽社ごとに回る檀那場が決まっていて、山本氏らの組は琵琶湖東岸地域→北陸地方→大阪周辺の順で回っていた。大晦日の午後に太夫町を発った一行は、まず滋賀県愛知川町の味吉旅館に投宿し、翌日元旦の朝5時半から同町内300軒の家々を順次回る。それが当年の仕事初めで、全戸を回り終えて夜の7時となる。演目は獅子舞を基本とし、天照大神の使いである天木綿筒(あめのゆうづつ)の幻像をかたどった獅子頭を祝神として、獅子の力で悪霊を祓い、家々に福をもたらすというのが神楽師の仕事であった。1人が獅子頭をかぶり、笛・太鼓に合せて家々の門口で舞うが、工場などのボイラー室・配電室など、火の気のある所の修祓を頼まれることもある。大阪には「伊勢の獅子だな」という言い回しがあり、「手堅い」ということのたとえであるが、留守の家でもきちんと祓いをやっていったことに由来するという。
 伊勢の太神楽の演目には16種があり、大きく分ければ「舞」と「曲」で、前者は獅子舞のこと、後者は曲芸である。双方に8種ずつの演目があって、合せて16種となる。家々がもっとも喜ぶのは、もちろん曲芸の方で、長竿の先に茶碗を乗せて歩いたり、その先端から水を噴き出させたり、皿回しをやったりといった具合である。所々で全演目を通しで演じ、それをカイキリとかソウマワシといった。最後を締めくくるのは「魁曲(らんぎょく)」で、肩車された獅子が傘を広げて舞うという派手な芸であった。近江八幡市中之荘町では地元伊勢講中が一行を迎え、近江沖島からは青年団に加入したばかりの18歳の青年らが船で迎えに来る。後先三年の厄年の人のいる家では宴を張って神楽師の到着を待っており、祝儀もたくさん出た。北陸は真宗地帯なので、家の中にまで入って祓いをすることは少ない。神楽は神道のものなので、真宗とは相容れないというわけであるが、それでも修祓の間中、老婆などは「ナマダナマダ」と念仏を唱えて付き合ってくれた。夏の暑い日に獅子頭をかぶらねばならない辛さもあるし、寒い冬には笛の穴にツララがぶら下がることもあったという。
 以上が伊勢の太神楽の実態であったが、神宮の配札を担った神楽師たちの修祓が芸能化し、余興の曲芸などがそこに付与されていった様子を、知ることができるであろう。曲芸は「放下芸」とも呼ばれ、チャリ(道化役)がからんで演じられるのが普通である。家々を回る際には、獅子舞1〜2曲をもっての竈祓いを行い、その後、集落内の広場や神社の境内などで獅子舞・放下芸が何曲か上演されることになっている[神崎,2009]。江戸の太神楽の場合は、その儀礼的な側面が失われて、曲芸部分のみに特化しつつ、室内芸能に転じていったということになるのである。
 次には水戸系(水戸大神楽)について見てみよう。水戸の場合、「太神楽」ではなく「大神楽」と表記することになっている。もともとは水戸藩の武士の余興芸として発達していったもので、「水戸徳川家御用神楽」を名乗り、無形民俗文化財にも指定されている。その宗家のひとつ、柳貴家(やなぎや)本家の18世が柳貴家正楽氏で、同氏の芸は高く評価されており、2001年の国立演芸場の花形演芸会において大神楽としては初の金賞・年間特別賞を受賞し、2004年には文化庁の芸術祭賞にも輝いた。鳴物師をともない、旧水戸藩領内の家々を回って神徳を授けていくというのが日頃の仕事で、家々の庭先で獅子舞・鍾馗舞を演じた後、縁起のよい曲芸となる。水戸独特の長い撥や鞠を投げ合ったり、「出刃皿」といって出刃包丁の上で皿を回したり、包丁を縦に3本立てたり、傘や茶碗を顔の上に立ててバランスを取ったりするのであるが、その茶碗を五個重ねる「五階茶碗」の妙技は、最大の見せ場であった。ネタは同じでも、江戸系と水戸系とでは、かなり芸風が異なるといわれ、江戸の方は寄席で洗練されてきたせいか、きれいでスマートであるが、水戸の方は武家風で力強く、荒々しいまでのスピード感に満ちている。弓や剣を用いるのも、いかにも武家風である。屋外芸なので冬は寒風にさらされ、夏は強い日差しに耐えねばならない。もっとも肝心な訓練は、屋外で裸足でおこなう寒稽古であったという。なお、「柳屋」を「柳貴家」と書くようになったのは明治維新以降のことで、藩の御用を解かれた後、「芸人にして芸人にあらず。神に奉仕する"貴い"使命を忘れまじ」の意を込めて、「貴」の字を入れたとのことである[八月一日,2007・長井,2001]。
 水戸大神楽のもうひとつの宗家、水戸大神楽総本家の15代家元をつとめるのが柳貴家勝蔵氏であるが、同氏もまた先の海老一兄弟と同じように、終戦直後の修行時代には駐留軍の基地で芸を見せていたといい、米兵には大変好評であった。家元家には「出方」と呼ばれる講社員が多くおり、そうした人々からもさまざまな芸を学んだ。家々を回るのは、おもに正月から春にかけての時期で、神楽師の繁忙期である。農家にとっては農閑期にあたるわけで、農繁期に入ると神楽師の仕事も一段落する。暇な時季を利用して、同氏は各地の大神楽関係の資料を地道に調査され、大神楽研究の第一人者ともなられたが、その研究成果をまとめて『日本大神楽事典』を著してもおられる[柳貴家,2006a]。同氏の研究によれば、近年における東京の獅子舞の囃子や演技には、「奥側」と呼ばれる水戸以北の獅子舞のやり方が混じっており、江戸系の太神楽師が水戸系の符牒を用いるようになってきているといい、このままでは水戸も江戸もごちゃ混ぜになってしまうという危機感から、先の事典の編さんを思い立たれたという。家々を回る神楽師が物乞いと同一視されたり、素人が大神楽を真似て一人で獅子頭を持って家々を回り、金銭を強要するケースなどもあって、本物の神楽師が悲哀をなめてきた歴史もあるとのことであった[柳貴家,2006b]。
 最後に江戸系(江戸太神楽)について見てみるが、現在ではそれはほぼ完全に寄席芸・室内芸になってしまったとはいうものの、近世の江戸市中には家々を修祓して回る太神楽師がたくさん見られた。その多くは、伊勢の神楽師を真似た素人の門付芸や獅子舞の類であったろうと思われる。しかし遠い昔には、本場・本物の太神楽が伊勢から江戸までやってきていたようで、岡本昆石の『昔々江戸物語』を読むと、次のような記載が見られる。
 古老物語(享保年間の書)に云く、七十年以前(慶安承応年間ならん)の昔ハ、太神宮御祓太神楽とて、毎日江戸中を徘徊しありく。その有様儀式正しくして、先へ鼻高の仮面をかぶりたる者、直垂ニ白袴を着て御幣を持て立ち、次に十四五歳ばかりなる男女美しく装束して、瓔珞をかぶり長衣(きぬ)を着、白袴をはき、手に中啓と鈴等を持ち、其次に麻上下着たる男箱を持ち、第四番に布衣の装束きたる男立ち、第五番に四ツ脚付たる大長持を、蓋をあほのけにして、其上ニ獅子頭を直し、中ニハ大太鼓小太鼓と一万度の御祓を真中ニ立て、御幣をたて四人か六人烏帽子白丁を着、白きくくり袴を着て舁き、其左右ニ囃子方笛太鼓小鼓を拍子よくうち合せ、那の瓔珞をかぶりたる舞子神楽を舞ひ、其拍子しんしんとして感にたゆる斗りなり。其うちの奥ニ烏帽子を左へまげ右へ傾け、或ハ筋違ニかぶりなどして道戯。見物の興ニ入るなり。今のハ至て賎しき風俗、装束などハなく大白衣に大広袖などの木綿布子をき、幅広の帯を尻こけにしめ、大脇差をさし太鼓小太鼓をたたき笛をふき、らちも無き小唄ニ合せて囃したて、若き男女の気をそそり立る様なることのミに仕て、兎角賎女賎男におもしろがらす仕組故、身分ある者の見るべきにあらず。義曰く、大神楽の風俗、享保年ニ既ニ斯の如し。今放下師・豆蔵ニ肖よることも有理(ことわり)なり。
 太神楽の行列行進はこのように美を尽した壮麗なもので、鼻高の猿田彦を先頭に鈴持ちの若衆、鋏箱持ち、布衣姿の男子、獅子頭を運ぶ白丁、囃子方、舞子らが練り歩いたという。慶安〜承応期(1648〜1654年)までのことで、享保の頃(1716〜1735年)にはすでに、見苦しい素人芸に堕していたと、ここには記されている。
 しかしながらその後、熱田神宮系の太神楽が江戸に定着し、伊勢系や水戸系の影響を受けつつ、江戸・東京独特の室内芸としてそれが発達し、寄席の落語を盛り立てるための、欠かせぬ存在となっていったのは、まさしく太神楽の都市的発展と適応の姿を示してもいるであろう。そうした江戸系の華麗な太神楽の芸風を継承しながら、今も第一線で活躍する芸人が東京には何人もいて、たとえば翁家(おきなや)和楽・翁家和助や鏡味(かがみ)仙之助・仙三郎コンビの名をあげることができるし、後者の師匠である鏡味小仙は、名門家元「小仙」の13代目であった[大野,1995:pp.44-45]。やなぎ南玉というコマ回し専門の芸人もいる。もちろん先の海老一兄弟も、ここに名を連ねる存在であるが、テレビへの進出の成功例であった。とはいえ、芸人の高齢化と後継者不足という問題は1980年代以降、伊勢でも水戸でも東京でも、深刻なものになりつつあった。
 全国各地の太(大)神楽師が集まり、「大日本太神楽曲芸協会」を結成したのは1937年8月のことであったが、その時の会員数は500人を超えていた。しかし、その70年後にあたる2007年現在の会員数は何と25人に激減しており、1990年代には十数人を数えるのみという時期もあった[塩崎,2007b]。こうした事態を前にして、画期的な打開策が実施に移されたのは1995年のことで、国立劇場の伝統芸能伝承者養成研修の一部門に、江戸太神楽の後継者育成事業が加えられることとなった。2007年現在、第4期生(1期3年)の男女3人が太神楽の曲芸のほか日舞・囃子・長唄などの総合的な古典芸能の研修を受けており、3年間の研修が修了すれば寄席デビューを果たすことになっていて、すでに7人(男3人・女4人)がそこから巣立ってプロとなった。太神楽曲芸の基本は、傘の上で物を回したり、口にくわえた棒の上に茶碗を重ねていく「五階茶碗」などの、いわゆる「立て物(バランス芸)」と、撥やナイフを交互に投げてあやつる「投げ物(ジャグリング)」との二つにあり[大野,1995:p.45]、要するに観客をはらはらさせて見せる芸なのであるが、研修ではこれらを特訓することになる。研修生は皆、やる気のある熱心な若者たちで、高座を見て感動し、大学を中退してこの道に入った女性もいる。彼ら・彼女らを指導する講師の一人が先の鏡味仙三郎で、「私がこの世界に入った頃には100人を超える太神楽の芸人がいたが、今はわずか23人。太神楽は寄席芸に欠かせないもので、まだまだ人手が足りない。それでも、この養成研修制度のおかげで、何とか自然消滅はまぬがれることができた」と語っている[塩崎,2007a]。


傘の上で一升枡を回す太神楽の曲芸(翁家和助)

 こうして江戸太神楽は復興の時代を迎えつつあり、今後は多くの若い後継者たちが育っていくことであろう。2007年8月14日に東京三宅坂の国立演芸場で行われた大日本太神楽曲芸協会の創立70周年記念公演にも、そうした昇り調子の勢いと活気とがあふれており、10年に一度しか見られないという現役最強メンバーらの競演も披露された。やなぎ南玉と翁家和助コンビによる恵比寿大黒舞(40年振りに高座に掛けたという)、飾り物を乗せた竿をつないで高さ2mにまで手離しで立てる「末広一万灯の建物」、若手による集団傘回し、鞠や土瓶・ナイフなどを用いた曲芸、おなじみの獅子舞などがそれであった[塩崎,2007b]。翌2008年5月2日にも協会主催の大きな公演が国立演芸場で行われ、この時には研修制度から巣立った多くの若手も出演し、顎で支えた板に茶碗を重ねる「五階茶碗」や日本刀の刃の上でコマを回す曲ゴマ、笛・太鼓・三味線の囃子に合わせて舞台せましと動き回る「寿獅子」などの芸が披露された。この時点での協会会員は23人に減ってはいたが、うち9人は研修出身の若手プロで、さらに2人が研修中であり[塩崎,2008]、前途は決して暗くはないと思われる。
 さて、この私はというと、先の翁家和助の芸を実際に見たことがあり、実に見事なものであったが、傘の上で鞠や一升枡を回す芸は海老一染之助よりも上手だなと思った。一升枡を回すのは「一生、ますます繁盛」の意味があり、めでたい芸なので商店街などのイベントに呼ばれた時などは必ずこれを演じる。皿回しもやるが、圧巻なのは2本の包丁を立てて、その上で皿を回す芸であろう。見ていてハラハラ、ドキドキするし、観客を引き込む巧みな話術も素晴らしい。この翁家和助こそ実は研修制度の第1期生なのであって、生まれは1977年である。1995〜1998年の3年間の研修を修了した後、落語協会での前座修業を始め、1999年にそれを終えて翁家和楽に師事し、プロとなった。2006年には文化庁の招きでラオス公演に参加、2008年には同年度の花形演芸大賞銀賞を受賞するに至った。和助はまさに、研修制度の申し子であって、そこから巣立った若手のホープである。今後は彼自身が師匠となって、後進を育てていかねばならないが、それは旧来の家元制度・徒弟制度のやり方ではないことであろう。そうであったならば、多分それは、いつかまた限界に直面する。何のために、そしてどうした事情から研修制度が生み出されてきたのかを、つねに思い出さねばならない。伝統芸能がいかにして生き残りつつ、さらなる発展をめざすのか、いかにして後継者を育てていくのか、といった困難な課題に関するひとつの試行がそこでなされているのであって、多くのヒントをそこから得ることができるに違いない。私たちは、このこころみを温かく見守っていきたい。

文 献
八月一日教宏,2007「ふるさと芸能帳・水戸大神楽(水戸市)」『朝日新聞』5月23日号朝刊全国版,朝日新聞社.
神崎宣武,2009「伊勢神楽、獅子舞の頂点」『読売新聞』6月19日号朝刊全国版,読売新聞社.
牧野田 亨,2002「芸のため、弟の脇役に徹す」『読売新聞』3月10日号朝刊全国版,読売新聞社.
長井好弘,2001「悔しい『幻の芸』見逃した」『読売新聞』12月9日号朝刊日曜版,読売新聞社.
大野 桂,1995「大道芸・寄席芸」『日本の伝統芸能』Vol.7,小峰書店.
塩崎淳一郎,2007a「伝承の現場」『読売新聞』1月24日号朝刊全国版,読売新聞社.
塩崎淳一郎,2007b「太神楽曲芸協会、あす創立70周年記念公演」『読売新聞』8月13日号夕刊全国版,読売新聞社.
塩崎淳一郎,2008「手に汗握る伝統芸能」『読売新聞』5月9日号夕刊全国版,読売新聞社.
須藤 功,1975「神楽師は日々これめでたく(話し手・山本源太夫)」『あるくみるきく』95,日本観光文化研究所.
柳貴家勝蔵,2006a『日本大神楽事典』,彩流社.
柳貴家勝蔵,2006b「繁栄を祈る大神楽の舞」『日本経済新聞』10月26日号朝刊版,日本経済新聞社.

 
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