西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 6  2010年4月号
長沢 利明
七十五膳の神饌
 
 神社の祭礼時に神前にささげられる神饌・供物として、通常は神酒・米・塩のほかに海山の恵みである野菜類・魚貝類・乾物類などが用いられているが、それらがさらに多種類化して、実にさまざまなものが用意され、それらを盛った三方や折敷が神前にずらりと並べられる祭式の例が、各地の古社に残されている。たとえば、奈良県奈良市の春日大社で毎年12月におこなわれる若宮祭では、古式を伝えた10組の精進神饌がささげられることになっており、その内訳を見ると@桔梗立(造花装飾・盃)・A小御飯(3合の高盛飯)・B大御飯(5合の高盛飯)・C居御菜(蓮・里芋・大根・蕪・牛蒡・唐菓子・焼餅)・D染分(4色に染めた白米)・E追物(Cと同じ)・F盛物(榧の実・小豆・黒豆・大豆)・G菓子(唐菓子・栗・梨・柿・三梅枝・餅・菊菓子・蜜柑)・H四色(4色に染めた白米)・I瓶(酒)となっている[平凡社(編),1976:pp.38-41]。その調製法といい、盛り方といい、容器といい、悠久の古風を伝えており、見た目にも大変美しくて素晴らしい。これは神に対する、これ以上はないという最大級の御馳走であったろう。
 この多数・多種類の神饌を75種類、あるいはひとつのものを75個用意して神前にささげるというのが、「七十五膳の神饌」であって、そこでは75という数字が強く意識されている。いくつか例をあげてみよう。茨城県西茨城郡岩瀬町にある磯部稲村神社ではかつて、正月元旦の年初神事にこれをおこなうことになっていた。神社の本殿内陣への献饌にあたっては、松枝・トコロ・串柿・昆布・納豆・白米・すぼし・酒を、幣殿へは鰹1尾と神酒をささげることになっているのであるが、それらの神饌の中に納豆が含まれているというのは、いかにも茨城風である。そして、これらの神饌類とともに欠かせないのが、「紅白の餅七十五重」なのであって[篠塚(編),1973:p.899]、75組もの鏡餅をずらりと神前に並べたということなのであろう。そのような形での七十五膳の神饌の風が、そこに伝えられていた。栃木県芳賀郡芳賀町の祖母井神社でも6月の夏祭りの際に、「七十五膳献上」という神事が、かつておこなわれていた。75枚のカワラケ(素焼きの小皿)を用意し、切ったキュウリを摺り米で和えたものを盛りつけ、後ろ向きになって神前に供えるというもので、翌朝それを祖母井の75軒の家々に配った。キュウリは祇園祭りの神供で、それを氏子に下げる儀式であったといい、75皿の供物を用意する理由としては、75人の神に献上するためとか、氏子が75軒あったためとか、いろいろいわれてきている[芳賀町史編さん委員会(編),2002:p.344]。
 東京都江東区の亀戸天神社でも毎年正月16日に、神前に75種類の神饌を供える神事がかつてなされていて、正式には「大御食(おおみけ)御調進の儀」といったらしいが、俗に「七十五膳」と呼ばれていた。『東都歳事記』の著者として名高い斉藤月岑は、毎年これを見物しながら参拝するのをならわしにしていた人なのであって、『斉藤月岑日記』にもそのことが記されている。そこには、1月16日は亀戸天神の「七十五膳」の日なので例年通り見に行った、正午から神事があり、魚・鳥・蔬菜・菓子・果物など75種類の神饌が並べられていた、などと書かれているのであるが、1855年(安政2年)1月16日の項を見ると、「亀戸七十五膳に付昼後より行、秋葉様へ参る」とあり、天神社・秋葉社への参詣後は亀戸の梅屋敷で早春の梅見を楽しむというのが、月岑の毎年のならいとなっていた[西山,1983:p.310]。月岑はまた『東都歳事記』の1月16日の項に、「亀戸天満宮大御食調進。午の時社司祝詞を奏す。次に越天楽を奏し魚鳥菜蔬菜(あをもの)菓子くだ物等七十五膳の供物献備有り。別当祭文を読む。終りて神楽殿にて神楽あり。卯の日の前後に当たる時は余日に行ふ」と記している。卯の日の前後に当たる年には日を変えたとあるのは、境内の御嶽社の初卯祭と重なるのを避けたためであろう。現在の亀戸天神社の祭事暦の中にこの七十五膳の神事はなく、明治維新後に廃止されてしまったようである。
 静岡県周智郡春野町(旧気田村)勝坂の秋葉神社でも、奥院の秋祭りのことを俗に「七十五膳」と称していたそうで、村内各戸から各種の農産物を集めて、75膳の供物をととのえ、奉納することがなされていたという。暗夜にその75膳の供物を、3〜4人の社家の者が携えて、灯火もつけずに峻険な山道を分け登り、奥院へささげることになっていたが、明治時代に奥院が低地に移されてからは、それも廃れたとのことである[橋浦,1937:p.48]。そのように七十五膳の神事は、何しろ手間のかかる儀式なので、廃止されてしまった例も多い。先の亀戸天神社の場合も、神饌を調達する大御食講中の負担がなかなか大変であり、やがてその講中そのものも消滅してしまって、神事が消滅したということなのであったろう。しかし、かたくななまでに旧制を堅持しつつ、今なお七十五膳の神事を続けている古社も、まだあちこちに残っている。


七十五膳の赤飯の調製(谷保天満宮)

 私自身は、私の住んでいる東京都国立市の谷保天満宮における七十五膳の神饌のことをよく知っており、神職がそれを調製するところを見たこともあるので、それについて少し触れておこう。谷保天満宮は国立市の鎮守の神であるが、例大祭の旧祭日が9月25日となっており、その前日に社務所内において祭神にささげる七十五膳の神饌を用意することになっている。それは赤飯を小さな円盤状に型抜きした75個の供物なのであって、精進潔斎した1人の神職が社務所内の聖域で、手作りでそれを調製することになっている。大変に厳粛な秘儀であるため、俗人の目に触れることはないが、この私は頼み込んで見学させてもらったことがある。神職は、大幣で私の全身とカメラとを念入りに祓った後、神域への立ち入りを許されたのであるが、初めて撮影された七十五膳の神饌作りの様子を、次に掲げる1枚の写真でご覧いただくことにしよう。そして私は、この神事についての調査報告を、以下のようにまとめておいたので、これも引用してみることにする。
 例大祭の前日(曜日に関係なく毎年9月24日)、天満宮の社務所では、翌日に神前にささげられる七十五膳の赤飯の神饌が用意される。これは谷保天満宮の大祭の特色で、他の神社ではほとんど例を見ない。通常の神饌は米・塩・酒・水のほか、山の幸(野菜類・果物類)・山の幸(魚介類・海藻類)を用意することになっているが、そのほかに熟饌(生ものではなく調理済みでそのまま食べられる供物)として赤飯を75膳分、神前に供えるのが天満宮の古くからのならわしである。社務所で蒸かした赤飯は、筒に詰めて上から棒で押し、厚さ1pほどの円盤状につき固めたものを75個作る。もとは竹筒で押していたらしいが、今日では金属製の筒を用いている。つき固めた赤飯の円盤は、25個ずつ積み上げて3枚の皿に盛り、計75膳にして例大祭当日の神事の際に、鏡餅とともに神前に供えられる。天満宮の本殿は内部が3室に分かれているので(中殿に菅公、左殿に三男道武公、右殿に石神宮・久保稲荷・大鷲神などの諸神が祀られている)、それぞれに25膳ずつ計75膳が供えられることとなる。戦前は祭りの後、この赤飯の神饌をさらに細かく分けて、氏子全戸に配っていた。当時は旧谷保村全戸を合わせても200〜300戸程度であったので、すべての氏子にそれを分けることもできたが、今では到底無理なのでおこなわれていない[長沢,2002:p.16]。
 ここで注目されるのは75膳の赤飯を三つに分け、25膳ずつ3ヶ所に供えるということであり、なぜ75という数が用いられるのかを説明する、ひとつのヒントといえるかもしれない。すなわち75は25が三つ集まってできている数であるということで、25+25+25=75もしくは25×3=75という考え方を、そこに見い出すことができる。そしてその25は陽数5に、さらに5を掛けた数であるから5×5=25で、めでたい数を2乗しており、(5×5)+(5×5)+(5×5)=75あるいは3(5×5)=75という考え方を、そこから導き出すことができるかもしれない。けれども、この解釈では25の由来を理解できても、3という数の意味があまりよく説明できない。谷保天満宮の場合、神社の本殿が左殿・中殿・右殿の3室に分かれていて、祭神の居場所が3ヶ所となっているから、75÷3=25となって、1ヶ所あたりの神饌の数が25個となるわけであった。しかし、それはこの神社の固有な特性によるもので一般性を持つものではない。なぜ75という数字が尊重されたのかを、ここから類推することは困難であろう。
 ところで、ノートルダム清心女子大学の奥村貴子氏は、この七十五膳の神饌の諸事例を、特にその全国的な分布を視野に置きながら、丹念に調べておられるが[奥村,1995;1996]、それによると全国で42例の該当事例が確認できるという。たとえば東北地方から見ていくと、福島県では県内各地の八幡社で、七十五膳の神饌の事例が見られ、双葉郡富岡町の太田八幡神社・八幡神社、同郡楢葉町の北田神社・木戸八幡神社、いわき市の飯野八幡宮などにそれが伝えられている。関東地方では、茨城県真壁郡大和村の大国玉神社、栃木県日光市の日光東照宮、群馬県富岡市の一宮貫前神社、神奈川県大礒町の六所神社でそれを見ることができ、いずれも格式の高い著名な大社となっている。中部地方では新潟県糸魚川市の天津神社、長野県南佐久郡小海町の諏訪神社および茅野市の諏訪大社上社前宮のそれが知られている。静岡県の場合は特に多くの事例があって、志田郡岡部町の若宮八幡宮、小笠郡菊川町の大頭龍神社、周智郡春野町の秋葉寺、袋井市の富士浅間宮および可睡斎、天竜市の光明寺などに、これが伝えられている。神社・寺院の別を問わず、神事・法会の場で七十五膳の供物がささげられてきたことは注目されよう。寺社ではないが、愛知県北設楽郡東栄町内各地の花祭り行事の際にも、七十五膳の供物を神にささげる習俗が見られる。近畿地方では兵庫県揖保郡新宮町の河内神社、中国地方では岡山県上房郡賀陽町の吉川八幡宮および勝田郡勝田町の梶並神社、さらには総社市の国司神社のそれがあげられる。鳥取県日野郡溝口町の福岡神社、島根県八束郡東出雲町の揖保夜神社、山口県下関市の蓋井島の山の神神事でも、七十五膳の儀式が見られる。四国地方でいえば、香川県丸亀市の垂水神社、徳島県麻植郡川島町の川島神社などでも、それが見られた。これらの中には、ここで取り上げた先の茨城・栃木・東京などの諸事例は含まれていないから、実際にはもっと数多くの事例が存在するにちがいない。
 さて全国各地の諸事例を見渡してみると、七十五膳とはいうものの、実際には75種類・75個の神饌を供えるわけではなく、形式的にそう称しているだけのものもあるし、神饌の内容も実にさまざまで、決して一定したものではない。また、神饌の数ということではなく、境内摂社・末社を75社持っていたとか、年間75回の祭礼をおこなったとかの伝承を伝える神社もいくつかあって、要するに重要なのは75という数字そのものへのこだわりなのであり、そのことのみが全事例に貫かれている唯一の共通項であったといってもよい。そこで最後に問題になるのはやはり、なぜ「七十五膳」でなければならなかったのかということなのである。一体どうして75なのか、なぜに75という数にそれほどこだわったのか、ということであろう。しかし、それは難しい問いであって、明確にその理由を説明することなどできない。けれども、多少の推定は可能であるかもしれない。
 まずいえることは、それだけの多くの数を用意したということなのであって、そのことがそこに強調されており、75という数字は物の数が多数・多量であることの象徴なのであろう。その意味では、「88(稲作と米の作業工程数)」、「99(九十九里浜などの地名に見る里程距離)」、「100(百手(ももて)の神事などにいう数のたとえ)」、「108(除夜の鐘の伝承にいう人間の煩悩の数)」などとも、それは共通する。これらはそれぞれ、ひとつの名数・聖数なのであって、実際にこれらの名数分を揃えて神饌を用意するという例もいろいろ見られる。たとえば山梨県富士吉田市にある富士浅間神社の鎮火祭(いわゆる吉田の火祭り)では、108膳の献饌物を神にささげるのが古くからのならわしであった[長沢,1989:p.271]。方々からの献饌物の調達をまかせられていた富士御師たちの苦労は、大変なものであったとも聞く。100という数を重んじる例もさまざまにあって、東京都調布市の深大寺でおこなわれる元三大師祭の場合、100種類の供物を大師像にささげることになっており、いわゆる「百味供養」そのものであるが、それがための「百味講」という講中まで組織されている[長沢,2007:pp.7-10]。福井県三方上中郡若狭町の河原神社で春におこなわれる河原祭りでは、「百味の飲食」といって祭主がたくさんの供物を自ら調製し、神社に納めるならわしとなっていた[坂本,2009:p.214]。奈良県桜井市の談山神社でも、秋の嘉吉祭におこなわれる同様の神事があって、こちらは「百味(ひゃくみ)の御食(おんじき)」と呼ばれている。五穀・野菜類・木の実・ホオズキ・ギンナン・唐辛子などの供物を、きわめて手の込んだやり方で装飾的に盛りつけ、神前にささげられるのであるが、古風な神饌の飾り方がよくそこに残されていて、先の奈良の春日大社の例などとも共通する[談山神社(編),n.d.:p.20]。五穀の中には荒(あら)稲(しね)といって、赤米・黒米などの古代米も含まれており、大変興味深いものがある[長沢,2001a:p.403]。先に触れた岡山県総社市の国司神社でも、霜月祭りに赤米を中心とした多数の神饌を神にささげる神事があって、こちらは七十五膳と称している[長沢,2001b:p.424]。
 七十五膳、百八膳の献饌、百味供養、百味の飲食・御食と、いろいろあるけれども、要するにそれだけ多くの神饌がささげられたということが表現されており、75とか100とか108とかの名数・聖数は、ものごとが多数・多量であることの象徴なのであった。それにしても、ここでの七十五膳の場合、一体どうして75という数字がなぜ、あえて選ばれねばならなかったのか。それを知るためのひとつの手掛かりとして、先にも少し触れたが、まずはそれが陽数としての5の倍数であったということに、注目してみなければならない。75=5×15と考えれば、その数式はすべて5の倍数で成り立っていることがわかる。先の谷保天満宮での場合のように、75=5×5×3という考え方もあるかもしれないが、陽数5にもうひとつの5を掛けて25とし、さらにそれを三つ足して75としたということであるが、かなり苦しい説明なのでもあった。そこで最後に、この私の解釈案をひとつ提示してみよう。それは「七五三」という、きわめて縁起のよい数の組み合わせを用いて説明をこころみようとするもので、要するに7・5・3のそれぞれに陽数5を掛けて合計し、75を得るという解釈である。数式にしてみれば、7×5+5×5+3×5=75となるが、5(7+5+3)=75としてもよい。この解釈については、私は少々の自信を持っているのであるが、どんなものであろうか。みなさんのご意見をうかがいたいものである。

文 献
談山神社(編),n.d.『多武峯談山』,談山神社.
芳賀町史編さん委員会(編),2002『芳賀町史通史編・民俗』,芳賀町.
橋浦泰雄,1937「七十五ゼン」『民間伝承』Vol.2−5,民間伝承の会.
平凡社(編),1976「神々の料理」『別冊太陽』14,平凡社.
長沢利明,1989「年中行事」『上吉田の民俗―富士吉田市上吉田―』,富士吉田市教育委員会.
長沢利明,2001a「赤米雑話(37)」『赤米ニュース』51,東京赤米研究会.
長沢利明,2001b「赤米雑話(39)」『赤米ニュース』54,東京赤米研究会.
長沢利明,2002「くにたちの神社年中行事―神事暦からみた国立市の一年―」『くにたち郷土文化館研究紀要』bS,くにたち郷土文化館.
長沢利明,2007「江戸東京歳時紀をあるく(54)―深大寺のダルマ市―」『柏書房ホームページ』2007年3月号,柏書房.
西山松之助,1983「江戸の生活文化」『西山松之助著作集』Vol.3,吉川弘文館.
奥村貴子,1995「七十五膳据神事の研究―七十五に関する全国の神事・信仰との関わりを中心に―(上)」『岡山民俗』203,岡山民俗学会.
奥村貴子,1996「七十五膳据神事の研究―七十五に関する全国の神事・信仰との関わりを中心に―(下)」『岡山民俗』204,岡山民俗学会.
坂本育男,2009「かわらまつり(河原祭)」『年中行事大辞典』,吉川弘文館.
篠塚庸之助(編),1973『茨城県神社誌』,茨城県神社庁東実.

 
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