西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 7  2010年5月号
長沢 利明
ソバ食い地蔵
 
 諸仏の中で民俗世界にもっとも深く根をおろし、もっとも多くの信心を獲得してきたのは地蔵菩薩であったろう。地蔵ほど深く民衆に愛され、親しまれてきた仏はほかにない。路傍に立つ石地蔵は全国どこに行っても、おびただしい数で見られるし、日々そこに香華がささげられ、多くの人々が手を合わせていく。赤いよだれ掛けと帽子をささげる人々がつねにいるということは、そこに寄せられる信仰が、今の世にあっても決して廃れることなく生き続けていることの証である。地蔵尊への人々の愛着の度合の深さは、やがて個々の地蔵の持つ個性的なキャラクターを、さまざまな形ではぐくんでいくこととなり、何々地蔵・○○地蔵といったニックネームが、さまざまに生み出されていくこととなった。人気者なればこそ愛称で呼ばれるのであって、それは信仰の担い手たちとの密着度の強さを物語っている。
 数えあげればきりのないほど多くある地蔵の愛称・固有名称の中には、食べ物関係の呼び名も数多く見られ、そのそれぞれに何らかの由来伝説や縁起が語られてきたに違いない。たとえば豆腐地蔵・ボタモチ地蔵・味噌なめ地蔵・塩なめ地蔵・唐辛子地蔵などというものが各地にあって、それらの食品を仏前に供えることにもなっていた。してみると、地蔵様は豆腐やボタモチや味噌が好物なのであって、人間と変わりがない。そうであったならば、ソバ好きの地蔵がいてもおかしくはないし、ましてやソバに目のない江戸っ子たちが祀るものであったなら、当然そういう地蔵がいなくてはならなかったろう。ソバ好きの地蔵は実際に存在し、「ソバ食い地蔵」と呼ばれて、東京は練馬区にある九品院(東京都練馬区練馬4-25)という寺の門前に今では立っている。しかし、この石地蔵はかつて台東区の浅草にあり、昭和初期に練馬へ移ってきたものなのである。大正時代にまとめられた東京の地蔵尊一覧を見ると、「蕎麥喰地藏、淺草」などと記されているが[松川,1915:p.59]、もちろん今は練馬にあるソバ食い地蔵のことを指している。九品院ではこの地蔵尊を「将軍延命厄難減除蕎麦喰地蔵尊」と称しており、何とも長ったらしいフルネームであるが、それが正式名称なのだそうである。


九品院のソバ食い地蔵

 地蔵は像高一・五mほどもある丸彫りの大きな石地蔵で、立派な堂宇の中に東を向いて安置されている。戦時中に空襲被害を受けて首が折れた跡が残り、全体に風化・磨滅が著しい像容で、刻銘などは残されていないが、古い時代のものであろう。像の前に置かれた重箱の中には、つねに盛りソバが供えられており、なるほど確かにこの地蔵はソバ好きのようで、まさにソバ食い地蔵そのものである。当然そこには、地蔵とソバとを結びつける何らかの伝承・伝説が存在するわけであるが、それを紹介する前に、伝説の舞台となった誓願寺・西慶院・九品院という三つの浄土宗寺院の相互関係について、少し説明しておかねばならない。
 まずは誓願寺であるが、家康の江戸入りの直後に、相州小田原から江戸に進出した寺院である。1592年(文禄元年)、誓願寺の開山東誉齢祖上人を江戸へ迎えるため、幕府の命で小田原へ発った使者が大久保石見守であったというが、その旅の途次、彼は小田原の某所で、地中から現れた地蔵尊を拝し、東誉齢祖上人とともに誓願寺にそれを移し祀ったという。同寺は江戸へ進出した後、浅草や神田へと移転を繰り返しながら大きな寺へと発展し、門前に11ヶ寺もの塔頭を抱えるまでになった。明治維新後、塔頭11ヶ寺は独立したものの、大正期の関東大震災で親寺ともども全壊してしまい、昭和初期に郊外移転することとなった。親寺は府中市の多摩霊園前に、11ヶ寺はここ練馬の地へとやってきた。九品院を含む浄土宗11ヶ寺が練馬の豊島園前に、今もこうしてまとまって立ち並び、寺町を形作っているのは、そういういきさつがあったからである。すなわち九品院と西慶院は親寺誓願寺のもとの塔頭寺院で、西慶院は後に九品院と合併して消え去った寺院である。ソバ食い地蔵は最初、その西慶院の境内に祀られており、将軍家の帰依あつく、ゆえに将軍地蔵とも呼ばれたといい、江戸六地蔵のひとつに数えられたともいう。しかし、明治時代末期に西慶院が九品院に合併された後は、そちらに引き取られることとなり、今見るように地蔵は同院の門前に立っている。そして、そのソバ地蔵にまつわる由来伝説は、これら寺院がまだ江戸浅草田島町(今の台東区西浅草2丁目付近)にあった頃の、こんな話なのであった。
 誓願寺がまだ江戸浅草田島町(台東区)にあった時代のことである。浅草広小路に尾張屋という蕎麦屋があった。ある晩、夜更けた頃になって姿の端麗な一人の僧が来たので、仏心の深い主人は自ら一椀の蕎麦を供養した。僧はその蕎麦をうまそうに食べ、厚く礼をいって帰っていった。その次の晩も、また同じ時刻になると、きのうと同じ僧が来て蕎麦を乞うた。主人はまた快く蕎麦を与えた。その翌日も、またその翌日も同じ僧はやって来た。はじめのうちは誰も気にしなかったが、それが一か月も続くと、店のものは一体あの坊さんはどこの寺の人だろうと不思議に思うようになった。そこである晩主人は、その僧にお寺はどこですかと尋ねてみた。するとその僧はもじもじして答えようとしなかったが、重ねて聞くと、困ったような顔をしていたが、やっと田島町の寺といっただけで逃げるように帰っていった。「あのお坊さんはどうもあやしい、狐か狸の化けたのではあるまいか」店のものはこんなことをいって、こんど来たらつかまえて、化けの皮をひんむいてやろうといきまいた。主人は「まあ待て、間違えて本当の坊さんに失礼なことをしては大変だから」と、若い者を押えておいた。その次の晩もまた例の僧は来た。何くわぬ顔をして、いつものように一椀の蕎麦を供養した。僧は帰っていく。その後を主人はそっと見えがくれについていった。それを知るや知らずや、僧は山門をくぐり、塔頭西慶院の境内に行く。主人は、ああやはり本当の坊さんだったのかと思いながらなお見送っていると、不思議や、その坊さんは地蔵堂の前に立ったかと見ると、扉も開けずにそのままお堂の中へ消えてしまった。あっと主人は驚いたが、そのまま一散に家へかけ戻った。その夜主人が寝ていると、夢ともうつつとも知れぬ境に一人の気高い僧が現われて「われは西慶院地蔵である。日頃汝から受けた蕎麦の供養に報いて、一家の諸難を退散し、とくに悪疫を免れしめよう」といったかと思うとその姿は消えてしまった。それ以来蕎麦屋の主人は、舞日西慶院の地蔵の前に蕎麦を供えて祈願を怠らなかった。ある年、江戸に悪病が流行して倒れるものその数を知らぬ有様であったが、この蕎麦屋の一家はみな無事息災であった。そこでその由来を伝え聞いて、日毎に参詣者が増し門前市をなす有様であった。そして願望の成就した人は、御礼として蕎麦を奉納したので、いつか蕎麦喰地蔵と呼ばれるようになった。西慶院は明治維新後、同じ誓願寺の塔頭九品院に合併し、その九品院は十一ヶ寺の一つとしていま練馬四丁目に移転したので、蕎麦喰地蔵も同院の境内に安置されている[練馬区史編さん協議会(編),1982:pp.909-910]。
 夜な夜なソバを食べに来た僧は実は地蔵の化身であったわけで、以来その地蔵はソバ屋の守護仏となり、江戸に悪疫が大流行した時にも(天保年間のことであったともいう)、ソバ屋には病難の及ぶことがなく、大繁盛をみたという結末であった。尾張屋というソバ屋は浅草広小路にあったという。
 九品院には年に一度、旧地の浅草に住む信徒やソバ店の経営者らが集まって、今でも地蔵会を催すそうであるし、地蔵堂のかたわらには14代続くという老舗ソバ屋が2005年に建立・奉納した百度石が立っている。堂の裏手には、ソバをすする羅漢石像もあって珍しいが、この類の石像は深大寺ソバで有名な調布市の深大寺の門前にも見られる。一般の参詣者が地蔵に何らかの祈願をして成就した際には、ソバを供えて礼参りをすることにもなっている。奉納されたソバに余りがあれば、養育院や母子寮などに寄贈されるともいう[三吉,1972:p.46]。そのようにしてソバ食い地蔵への信仰は今も生きており、ソバを仏前にささげるという特殊な形態をとる祈願習俗が見られたわけで、それはいかにも江戸東京にふさわしいものであったといえる。
 東京都内には、ソバを媒介にして生み出された民間信仰対象が、ほかにもいろいろ見られるのであって、たとえば葛飾区柴又の医王寺の境内にも、ソバ地蔵と呼ばれる石地蔵が存在する。地蔵の前に、石で造った五段重ねの盛りソバが供えられているのもおもしろい。これは1938年(昭和13年)に東京蕎麦商組合連合会が、ソバ屋の商売繁盛を願って建立したものである[やまひこ社(編),1987:p.38]。先述した調布市の深大寺の境内にも、「ソバ観音」という石像が祀られていて、やはり新しい時代のものであるが、深大寺ソバの本拠地ならではのものであったろう。江東区深川には「ソバ切り稲荷」という小祠も、かつてあったらしい。大田南畝の『半日閑話』に「蕎麦切稲荷の事。同秋(宝暦6年)深川八幡の後、稲荷時花出し、何の利生あり共不知。押合押合参詣群集すと云々」とあって、深川八幡の裏手にあった稲荷が、1756年秋頃からはやり出したというのである。墨田区千住の金蔵寺に祀られている閻魔大王は、いわばソバ食い閻魔であって、そのような俗称があるわけではないが、この閻魔に祈願する時にソバを奉納しないと、必ず盗難・災害にあうといわれていた。「お閻魔様とソバ」として、「足立の七不思議」のひとつにも数えられている[宮田(編),1986:p.344]。
 そして、さらにもうひとつ重要なものをあげておくならば、いうまでもなくそれは文京区小石川にある沢蔵司(たくぞうす)稲荷である。ソバ好きの稲荷大明神がいて、慈眼院という寺の境内に祀られていたが、伝通院の学僧であった沢蔵司に化け、門前のソバ屋に夜な夜なソバを食べに来たという伝説が、やはり伝えられている。練馬のソバ食い地蔵の話とほとんど変わらず、地蔵が稲荷に入れ替わったに過ぎない。そのソバ屋では、以来毎朝、初ソバを沢蔵司稲荷に供えるようになり、「稲荷ソバ」が評判を呼んで大繁盛するようになったという[やまひこ社(編),1987:p.104]。こうした伝説の内容は、東京都内の3ヶ所に祀られている「豆腐地蔵」の伝承などにも、やはりよく似ている。都内3ヶ所の豆腐地蔵とは、杉並区高円寺南の長竜寺、新宿区若葉の東福院、文京区白山の喜運寺にそれぞれ祀られている地蔵尊を指すが、これまたよく似た伝説が、それぞれに伝えられている[長沢,1985:pp.327-329]。その伝説のあらましは、まず江戸の市中に1軒の豆腐屋があった、夜な夜な豆腐を買いに来る僧(もしくは小坊主)がいた、受け取った銭を見ると木の葉や石ころであった、化かされた豆腐屋は怒って僧に斬りかかるが、手負いの僧は地蔵堂の中へ逃げていった、よく見ると石地蔵に刀傷が残っており、豆腐屋は地蔵を斬ったことを懺悔して以後は深い信心を寄せるようになった、というストーリーなのである。
 これらの諸伝説は当然、一本の糸に収斂する同根の物語なのであって、豆腐がソバに変わればソバ食い地蔵の話が生まれ、地蔵が稲荷に変わればソバ食い稲荷すなわち沢蔵司稲荷の話となる。もっとも原型に近いのは、おそらく豆腐地蔵の伝説であって、ストーリーが比較的によく整っていて話に無理がない。ソバ食い地蔵の話の場合、僧は別段、ソバ屋を化かしたわけではないが、それでも後をつけられるというのは不自然であろう。化かしてつけられるのが自然ななりゆきなのであって、化かさないから不自然なのである。どこの寺の僧かと問われ、ただ「田島町の寺」とだけぽつりともらして、そそくさと逃げ帰っていくような小心者が、夢枕に立つと急に尊大な態度になって、「われは西慶院地蔵である。日頃汝から受けた恩に報いて悪疫を免れしめよう」などと告げるのは、さらに不自然であり、この部分だけ説話化しているのであるから、それは付け足しなのである。
 一連の伝説の構成要素が、豆腐であろうがソバであろうが、何であっても別にどうでもよいことである。要するにそこには、人を化かして食べ物を手に入れようとする小妖怪がいるということである。地蔵菩薩様をつかまえて妖怪とは何ごとかと、いわれるかもしれないが、ここに語られてきた地蔵は少なくとも、三途の河原で迷える子供らを導いたり、大いなる奇跡を起こして民衆を救済したり、といった具合の、霊験記に記されたがごとくの偉大なる菩薩のイメージではありえない。ここでの地蔵は、葉っぱを銭に変えて人をだましたり、ソバや豆腐を食いたいばかりに尻尾をあらわしたりするユーモラスで間抜けな化け物なのであって、人を化かすことがあったにせよ、食い意地にかられた出来心のなせるわざに過ぎず、まちがっても人をあやめるようなことはしない。微罪で許されるレベルなのであって、凶悪犯や確信犯ではない。だからこそ小妖怪といったのであって、被害者たるソバ屋や豆腐屋は、愛すべきいたずら者に対し、たいていは寛容な態度でこれを許してきた。この小妖怪としての地蔵のやることは、その動機と手管とにおいて、ほとんど狐や狸と変わりがなく、同類のものとしてくくってとらえ、かつ位置づけておくことができる。地蔵とはそのような存在でもあったということが、重要なのである。

文 献
松川碧泉,1915「江戸時代の地蔵尊」『風俗画報』No.465,東陽堂.
宮田 登(編),1986『日本伝説大系』Vol.5,みずうみ書房.
練馬区史編さん協議会(編),1982『練馬区史・歴史編』,練馬区.
長沢利明,1995「豆腐地蔵」『杉並郷土史会会報』No.134,杉並郷土史会.
三吉朋十,1972『武蔵野の地蔵尊』,有峰書店.
やまひこ社(編),1987『東京御利益案内』,リブロポート.


 
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