西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 11  2010年9月号
長沢 利明
土製の小祠
 
 神社の境内にはさまざまな末社・摂社が祀られているし、村の広場や路傍、家屋敷の一隅や山の頂上、岬の突端や巨樹の根元などにも、小さな神々の祠がよく鎮座している。それらは、雑多な神々の居場所であって、立派な社殿を持つものもあるけれども、ほとんどは犬小屋よりも小さい小祠の形を取っている。その数を数え上げれば、膨大な数字になることであろう。そして、それらが初めてその場所に鎮座した当時は、どこそこから何という神を勧請してきてここに祀ったという事実がはっきりしており、年々の祭りなどもきちんとなされていたことであったろうが、その祀り手たちを失い、しだいに忘れ去られていって、今では神主でさえ、そこに何の神が祀られているのか、わからなくなってしまったものも数多い。しかし、そこにはかつて、何らかの名を持つ神々が確かに鎮座していたのであって、切なる願いを込めて小祠をそこに設置した人々がいたという事実を、私たちは忘れてはならない。
 信仰の担い手たちを失った時、小祠は消え去る運命にあって、木造の祠などはいつかは朽ち果てて消滅する。稲藁で作られている東北地方のワラホーデンや、北関東の稲荷のオカリヤなども本来、非常設の神祠であったから、その永続性ということが当初から期待されてはいない。しかし、いかにそれが非永続的な材質でできていようと、そこに寄せられる信仰とその担い手たちが失われないかぎり、神祠は年々更新されて永久に存在し続けることであろう。事実、伊勢神宮の本殿は、20年ごとの式年遷宮を何十回も繰り返しながら、まったく同じ形の木造社殿が千年以上にもわたって更新され続け、今に至っている。一方、石造りの祠の場合、信仰と祀り手が失われてしまっても、それは永久に残存し続け、ぬけがらのみが残って一種のむなしさを私たちに感じさせもする。とはいえそれは、そこに何らかの神がかつて鎮座していたのだということを後世の人々に知らしめて、その場所を粗略に扱ってはならないという意識を生じせしめるための役割を、少なくとも果たし続けることではあろう。そのようにして、聖地の存在が歴史的・社会的に記憶されていくことにもなる。
 ところで、石祠のほかにも永続性を持つ神祠というものがあり、それが瓦質祠・陶製祠などの土製祠なのであるが、関東地方ではほとんど見かけないので、私たちにとってはあまり身近なものではない。実際、土を焼いて作られた神祠というものを、見たことのある東京人はまずいないことであろう。しかし、西日本では結構あちこちで目にし、各地の焼き物の産地では一時期、かなりさかんにそれを製造してきたのであるが、その製品が東京にまで出荷されることはなかったようである。にもかかわらず、ここ東京都内にも古い瓦質祠がひとつだけ確認されており、それは北区西ヶ原の昌林寺にあるもので、1495年(明応4年)に奉納された旨の銘文が残る大変貴重なものであった。とはいえ、この瓦質祠は後世に都内に移されたもので、もともとは茨城県西茨城郡北山内村字箱田の鳳台寺にあったといい、その周辺の日立市や十王町では多くの瓦質祠が現存するというから、それらは笠間市の笠間焼の産地から供給されたものと思われる。笠間焼の瓦質祠の中には、1670年(寛文10年)・1719年(享保4年)の刻銘を持つものもあるという[角南,2007:p.47]。
 さて、この私は愛知県の三河地方で瓦質祠をよく見たことがあり、幡豆郡幡豆町洲崎という地では、ことに多くそれを見かけた。この地方では荒神信仰が非常にさかんなのであるが、そこでの荒神は関東地方のように台所に祀られるような火の神ではなく、俗に地荒神と呼ばれるように、家や土地の守り神として信心されており、旧家の本家筋の家々であれば必ず、一家に一ヶ所ずつ荒神祠を祀って、家の守護神としている。けれどもその荒神祠は、家々の屋敷内にはあまり鎮座しておらず、屋敷の裏山やその家の持ち山の山中に祀られるのが基本で、山上から家屋敷を見下ろしつつ守護する祠となっていた。家々の守り神がどのような場所に鎮座しているのかを見るために、家々の背後の裏山に登ってみると、山中の見晴らしのよい地点や岩頭、巨樹の根元などに小さな祠が、あちこちに確かに祀られているのであるが、そのいくつかが瓦質祠であったことが、私には大変に印象的であった[長沢,1982:pp.31-49]。


瓦質瓦 愛知県幡豆郡幡豆町

 この三河の瓦質祠は、まさに瓦と同じ材質でできており、黒光りする表面の光沢は屋根瓦とまったく変わらない。材料の粘土を型にはめて整形し、いくつかのそのパーツをつなげて祠の形に作っており、明らかに量産品であるが、大きいのやら小さいのやら、いろいろな形式があって変化に富んでいる。写真に掲げたのはもっとも一般的なもので、高さ1尺ほどの小型のタイプである。切妻屋根の棟側が正面で、そこには取り外しのできる扉、というよりも蓋が付いていて、格子窓状の文様がある。この蓋を取り外すと、内部は空洞になっていて、そこに幣束や神札を納めるようになっている。胴体部分と屋根・台座はくっついていて、一体的に造られていることが多いが、時にはこれの2倍以上の大きさのタイプもあって、その場合は屋根や台座が取り外せるようになっており、胴体部分が左右の二つのパーツに分かれていて、切り離すことができるものもあった。そうした大型の瓦質祠では、たいてい屋根は寄棟型で、扉には縦長の二つの窓が穿たれていることが多かった。聞き取りによると、これらの瓦質祠の多くは明治・大正期に祀られたもので、中には近世期にまでさかのぼるものもあるとのことであったが、確証はない。新しいものでは昭和戦前期のものがいくつか見られたが、先代当主が蒲郡市内の瀬戸物屋からこれを求めてきたと語る家もあって、愛知県瀬戸市・常滑市の瀬戸焼・常滑焼、岐阜県多治見市の多治見焼などの産地から、あるいは供給されたものかもしれない。しかしながら、瀬戸や常滑などの先進的陶器産地では瓦物などは焼かなかったともいうし、陶芸屋と瓦屋とは技術的に別の職人であるからそうではないともいわれている。三河の瓦質祠が一体どこで作られたものであるのかは、結局よくわからないのである。
 この瓦質祠については、元興寺文化財研究所の須南聡一郎氏が実にくわしく調べておられるが、それによると宮城県仙台市の堤焼や岡山県の大原焼などで瓦質祠が作られていたことがあったそうで、愛媛県松山市や香川県高松市にもその生産地があったという。実際に祀られている瓦質祠は、京都・大阪・兵庫・高知などの各府県下によく見られるともいう[角南,2007:pp.47-57]。さらに瓦質祠ではなく陶製祠というものもあって、陶質の粘土で焼かれ、釉薬もほどこされているタイプのものが、福岡県福岡市の高取焼や同県朝倉郡東峰村の小石原焼や鹿児島県種子島の能野焼などで作られていて、九州地方では広くそれが用いられてきたとのことであった[角南,2009:pp.65-75]。してみると、瓦質祠・陶製祠の主たる生産・流通地域は近畿・中国・四国・九州地方に広がっていて、東日本では宮城県の堤焼と茨城県の笠間焼以外に産地はなく、製品の流通範囲も思いのほかせまかったらしい。そういうことになると、私の見た愛知県三河地方の瓦質祠は一体どこで作られ、どこから供給されてきたものかということが、さらにわからなくなってしまうのである。ぜひ角南氏から教えてもらいたいものだと、この私は願っているのである。
 ところで大正時代の記録を見ると、大阪の千早城の付近で土製の神祠が廃寺跡から見つかった旨の報告が、『郷土研究』誌上に載っており、これも興味深いものがあるので、参考までに以下に引用してみることにしよう。
 河内南河内郡千早村大字小吹で、家型埴輪樣の遺物二個を發見したと云ふ報告のあったことを博物館の高橋氏より聞き、(中略)埴輪では無くて一種土製のホコラであった。(中略)小吹部落の内菖蒲寺の地内の、俗に鎮守樣と稱する周二間ほどの小封土の上に、一尺五六寸位の石の?があって、其上に二つ竝べて置いてあったもので、其地は本堂の東東北に當って居る。以前は竹藪であったのを、菖蒲寺廢止に付て其跡を開墾して居た折柄、偶然發見したものであると云。二つのホコラは形状相同じく、赤燒で一見埴輪に似て居る。高さは一尺五寸内外のくづ屋葺で、妻に入口の如きものあり、其兩側には花を挿す筒が作り附けてある。中古何か神を祀る爲に作った者と思はれる。(中略)此邊では今も家々の隅には瓦製のホコラがあって、其中に二個の圓石を入れ道祖神を祀って居る。道祖神を祀ったと云ふ森はこの小吹部落の周圍に點々散在し、土地の人は又之を八勝神とも呼んで居る。此等を考へ合せると、菖蒲寺の土のホコラも道祖神であったかも知れぬ[梅原,1916:p.49]。
 廃寺となった寺の境内の土饅頭の上に、土製の小祠が二つ並んで祀られていたとのことであるが、その祠は素朴な「赤焼き」の土製品で、古墳時代の家型埴輪に似ていたというのであるから、焼締や釉薬のない、瓦質でもない、要するに素焼きの土製祠であったということなのであろう。まさに埴輪のようなもので、そのような素朴なタイプのものもあったらしいのである。
 瓦質祠にせよ、陶製祠にせよ、それは永続性を持った神祠であるため、性格的には石祠に準ずるものとしてとらえうるものである。けれどもそれは、石祠よりは安価に祀ることのできるものであったから、庶民階層にとっても比較的容易に、手の届くものでもあったろう。その意味では土製祠は、恒久的な信仰施設としての石祠と、木製・藁製の非恒久的な小祠との間の、中間的な存在であったかもしれない。私の見た三河の荒神祠も、家々が町の瀬戸物屋から量産品の瓦質祠を求めてきて、ごく気軽にそれを祀ってきたような印象を受け、明治・大正期以降、そうすることが非常にさかんになってきたのではないであろうか。そして、瓦質祠がそこに祀られるようになる以前は、山中の巨樹や奇岩などの自然物がそのまま荒神の宿るものとして、崇拝されていたものと思われる。けれども、その巨樹や奇岩の足元に、ひとたび小さな祠が祀られたならば、そこでの神々の具体的な居場所と、それに対する人々の崇拝の対象とがピンポイントで特定されていくこととなる。そうして小さな瓦質祠は、そこにいます土地神のすまいとなり、そのシンボルもしくは御神体そのものとして、とらえられるようにもなっていった。当地方では1970年代から1980年代にかけ、これら荒神祠を参拝に不便な山中から屋敷内へと移転させようという動きが活発化し、オガミヤ・ネギサン・コウボウサンなどと呼ばれる民間宗教者らがそのようにせよと、さかんな託宣を下してきたことが、その大きなきっかけともなっていた[長沢,1982:pp.43-46]。
 要するに荒神様が山の中から家々の屋敷内へと、ぞくぞくと降りていったのであるが、瓦質祠を山から降ろして屋敷内へと運び、そこに設けられた新しい木製祠の中に祀り込むということがなされていったのである。山中の荒神祠が屋敷神化していったことになるが、その際に瓦質祠そのものが、荒神の御神体のように扱われた。そこに瓦質祠というきわめてポータブルな神祠が存在したからこそ、御神体の遷座が目に見える形でなしえたわけで、もしそれがなかったら、そういうことはとても、そしてこれほど頻繁にはできなかったであろう。まさか巨樹や奇岩そのものを、そっくりそのまま山の下に移すわけにもいかないのであるし、神々の動座は抽象的な形での御霊移しというやり方をとらざるをえなかったであろう。祠というものは、そこでの神々の存在を具象化せしめる重要なシンボルである。それを物的に移転させることを通じ、人々は神の遷座を実践的に経験しつつ、その事実を心から納得・承認したにちがいない。そして祀り手が消滅しようと残存しようと、シンボルは永続的にそこにあり続け、そこにおける神威の存在を永遠に主張し続ける。


文 献
長沢利明,1982「地荒神信仰における民俗変容−愛知県幡豆郡幡豆町洲崎の事例−」『日本民俗学』No.139,日本民俗学会.
梅原末治,1916「土で造ったホコラ」『郷土研究』Vol.4-2,郷土研究社.
角南聡一郎,2007「瓦質祠はどのようにとらえられてきたか―戦前から1970年代までの研究・記載から―」『志学台考古』No.7,大阪大谷大学文化財学科.
角南聡一郎,2009「高取焼(西新焼)の陶製祠」『志学台考古』No.9,大阪大谷大学文化財学科.



 
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