西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 12  2010年10月号
長沢 利明
葬送施設としての四十九院
 
 四十九院(しじゅうくいん)と呼ばれる葬送施設のあることは、民俗調査者であれば大抵の人は知っており、実際に墓地でそれを目にしたことのある人も多いであろう。基本的には土葬墓特有の葬送施設で、遺体を葬った埋葬地点の地上部に木製の家型を設けたものが多い。地下に埋まっている寝棺の長方形の輪郭線に位置を合わせ、地表に設置されるので、地中にある棺に家型をかぶせてその地上部を保護する形となる。家型の切妻屋根は、妻側から見ると屋根が曲線を描いて、大抵は唐破風状に装飾されている。家型の四壁は小塔婆型の板を49枚並べて柵状に作られており、四方の壁にそれぞれ鳥居型の門が設けられているのが普通であるが、正面の一ヶ所のみに門を開けているものもあり、写真に掲げた山梨県山梨市の例はその形である。


四十九院 山梨県山梨市
 私が初めてこれを見たのは1973年のことで、場所は東京都西多摩郡桧原村笛吹(うずしき)という所であった[長沢,1977:p.178]。両墓制の第1次墓地の方に、朽ちかけた家型が残っており、聞き取りではそれを四十九院と称すること、葬儀の前日までに地元の大工がこれを作ること、寺の僧侶の手で49本の壁板に1本ずつ経文が記されること、旧名主級の上層家でのみなされている葬制であること、などなどを教えられた。西多摩・北多摩地方の上層家の墓には広く四十九院が見られたものであったが、火葬の普及した今日では、ほとんどこれも消滅してしまった。武蔵村山市中藤の真言宗寺院、真福寺では、当地方の葬制・墓制習俗をわかりやすく解説した手引書を住職が作り、檀信徒に配布しているが、そこには四十九院についても次のように説明されている。
 四十九院(輿)。この地域で使用していたのは屋形をしたものであり、棺覆いとして作られたものであろうか。四人で担ぐ棺台に載せられるように作られており、死者を保護すること、または死霊の浮遊を鎮め押さえようとしたものか、ヤス型殯としたものか、いろいろに考えられる。全体の形状は、幅六〇センチ、長さ一八五センチほど、高さ約九〇センチで屋根がついている。各面に門が一つ、計四つの鳥居型の門がある。即ち発心、修行、菩提、涅槃である。その門を挟んで四九本の小さな板塔婆が打ち付けられている。それには一枚一枚四九院名を書き入れなければならないが、組み上げられたものを持って来られてもとても書き入れられる状態ではない。正式に四十九院塔婆を建てるとすれば、形式には何通りか有るようだが、一八〇センチ四方の柱間に六尺塔婆四九本を打ち付けたものである(引導略作法・二巻疏等に出づ)。右の物をお檀家の方々は輿と呼んでいたが、屋形の四九院は四人で担いだ棺台に乗せられ葬列の中心となり墓地に向かう。墓地に着くとあらかじめ掘っておいた墓穴に、棺をつりおろし土で埋めて埋葬が終わり、その上に四九院を棺の向きと同方向に置く。そのまま百ヶ日までくらい置きその後その場で焼却処分された。尚それは全ての葬儀で用意されたものではなく有力者に多かった[中藤,2001:pp.42-44]。
 ここには四十九院の具体的なサイズが述べられていて、縦185cm・横60cm・高さ約90cmとされているが、すっぽりと棺を覆う大きさであることがわかる。野辺送りの時には実際に、棺にこれをかぶせて棺台に乗せたため、地元では俗にこれを「輿(こし)」と称したわけであった。四十九院の四壁に設けられている四つの鳥居門を、発心門・修行門・菩提門・涅槃門と呼ぶということも、興味深い解説であったろう。栃木県今市市芹沼などで見られるものも、この多摩地方のものとほとんど変わらぬもので、当地ではこれをオサヤと称している[新谷,1980:p.109]。
 私はその後、全国各地でこれを目にし、四十九院を用いる葬制は日本中に広く普遍的に見られることも知った。何とそれは南西諸島の風葬地帯にまで見られるのであって、四十九院とは呼んでいないが、与論島などでタマヤと呼ばれるものがそれにあたる。それは洗骨前の棺を囲んで覆う家型で、鳥居門は妻側正面にしかないが、側壁は柵状になっていて切妻型もしくは入母屋型の屋根をかぶせており[金関,1978:pp.37-38]、本土の四十九院とほぼ同じ構造をしている。長崎県の対馬でスヤと呼ばれるものなども、大変それに似たもので、土葬墓の地上部に置かれる小さな家型なのであるが[長沢,1982:pp.1-9]、四壁に細板を柵状に打ち付けていて、その数は49本とは決まっていないが、四十九院の影響を受けたものと思われる。秋田県秋田市旧太平村の山間部では、自然石数個を置いた墓印を囲んで木の柵をめぐらせ、正面には鳥居の門を設けた墓が見られるといい、遺体の埋葬日に大工にこれを作ってもらったという[宮崎,1962:p.9]。これなども、明らかに四十九院の影響下にある葬送施設といえるであろう。
 群馬県教育委員会の手で1976年に実施された、同県山田郡大間々町(現みどり市大間々町)の大がかりな民俗調査には、この私も参加させていただいたが、その報告書には「四十九院(もしくは四十九印)」の小項目があり、次のように解説されていた。
 葬式の前に寺にいって書いてもらう小さな塔婆で、七本木と同じようなもの。四十九日まで毎日持っていく。四十九日には七本木を持参し、百日目は塔婆のたてはじめ、三十三年忌は塔婆のたてじまいといい、杉塔婆をたてる(高津戸)。今では四十九院といって、土饅頭に囲いをする。この場合はメハジキをしない。四十九院は丁寧な葬式のときにやる(小平)[群馬県教育委員会(編),197762:p.172]。
ここでの四十九院は、ばらばらになっている49本の小塔婆のことをいったようで、葬儀の前に僧侶に経文を書き入れてもらい、中陰の日まで毎日1本ずつ、それを墓に立てたらしいが、埋葬箇所をぐるりと囲むように立てたにちがいない。後段の小平の例では、最初にまとめて49本を、土饅頭を囲って立てたのであろう。それとは別に、四十九日には七本木を、百ヶ日には大塔婆を、三十三年忌には杉塔婆を立てたともある。
 さらに各地の関連事例を見てみよう。奈良県下の両墓制地帯では、やはり第1次墓地の方に四十九院を設けたようで、埋葬箇所の覆いの四方に塔婆を並べて打ちつけたといい、しかも60歳以上の高齢死者を葬る時にのみ、それを設置したという[岩井,1979:p.302]。奈良県内ではそのように、長老級の高齢者の遺体を一般死者と区別して、特別な埋葬区画に葬る例がよく見られるが、奈良市中畑などでも同様で、その埋葬箇所にはラントウと呼ばれる箱型の施設をかぶせている[関沢,1997:pp.20-22]。ラントウとは要するに、1本の太い角柱の木製墓標を囲んで設けられた箱型の墓覆いで、四周に49本の小塔婆を並べて柵状に打ち付けている。同市内興ヶ原のラントウもまったく同じ形であるが、若死にや神道家の死者の場合は、小塔婆ではなくマガリと呼ばれた割竹で墓標を囲むことになっていた[新谷,1980:p.110]。
 神奈川県では県北部地域に墓地の家型が多く見られ、ウワヤ・アマヤ・ヒヤなどと呼ばれているが、津久井町青根上の田ではテンガイ、秦野市三廻部ではカサ、海老名市杉久保ではノブタと称している。大工が作るものであるが、近年では葬儀屋が持ってくるという。家型の四壁には49本の塔婆が打ち付けられているが、こうすると六道の辻で仏が迷わぬという。各壁には鳥居を配した入口が設けられている。特に四十九院とは称していないものの、それはまさに四十九院そのものであった。津久井町青山では、土葬墓の上に何本もの割竹を折り曲げて刺し、籠状にして墓を覆っているが、縦横の割竹の交点49ヶ所を縄で縛って結び目を作る。毎日の墓参時に一つずつそれを解いていき、49日目に全部解き終えて忌明けとなる[神奈川県企画調査部県史編集室(編),1977:pp.530-531]。これをシャバグネと称しているが、これまた一種の四十九院であったろう。
 四十九院の実態は以上のように、実際にはかなり多様性に富むものなのであって、必ずしも全国一律的なものではない。しかし、49本の小塔婆を並べ立てて埋葬地点を囲むという点では、どれもおおよそ共通していて、屋根付きの場合は墓覆いの形を取り、関東地方の例では寝棺をすっぽり覆う形状・サイズを特色とし、正面もしくは四面に鳥居門が付いていて、野辺送りの際には棺台上の輿のように扱われることが多かった。近畿地方の例では屋根がなく、墓標を囲む柵列のようにして小塔婆が並べ立てられていた。そこで問題となるのは、この四十九院のもっとも原型的な形とは、どのようなものであったかということであり、そもそも四十九院とは一体何であったかという基本的な問題をも含めて、それを次に検討してみることにしよう。
 四十九院とは一体何か。それは何をあらわしたものなのか。要するに、それは仏教の宇宙観でいうところの兜率天(とそつてん)という世界にある49の内院のことである。兜率天というのは、天部に属する仏の名ではない。わかりやすく言えば、それは『長阿含経』などに説かれている弥勒菩薩の浄土のことであって、人間界の上には欲界という世界があるのであるが、その六欲天のひとつが兜率天ということになる。そこは天女のはべる快楽の世界で、来世に仏となる菩薩たちがここに住み、釈尊もかつてここの住人であったとされている。極楽浄土の主が阿弥陀如来であるのに対し、兜率天の主は弥勒菩薩である。また、兜率天には49の内院があるともいう。『観弥勒菩薩上生兜率天経』・『弥勒下生成仏経』・『弥勒大成仏経』などに説かれた兜率天宮の姿を、そのまま図像化した兜率天曼荼羅図を見ると、まずその中央に弥勒菩薩の説法のなされる場所としての、三重層の大摩尼宝殿弥勒説法院が描かれており、その手前には宝池、それらを囲む多くの回廊と楼閣があって、さらにそれらの外周に四十九の内院の宝楼閣が配置されている。個々の内院の番号・種子・院名をすべて列記してみれば、次のようになるが、葬送施設としての四十九院の、49本の小塔婆に記されるのは、実はこれらの内院名とその種字なのであって、経典の文句の一節ということではなかった。

一  バン 恒説華厳院   二 ウン 守護國土院   三 カン 覆護衆生院
四  サタ 般若不断院   五 サク 念佛三昧院   六 ウン 彼但三昧院
七 タン 修習慈悲院   八 ア  常念七佛院   九 ウン 鎮護方等院
十  バク 常念常楽院 十一 ア 少欲知足院 十二 ベイ 多聞天王院
十三 カ 地蔵十輪院 十四 アン 常念普賢院 十五 ウン 精進修行院
十九 ア 展明十悪院  廿 アーンク 如来密藏院 廿一 ウン 灌頂道場院
廿二  バク 説法利他院 廿三 マン 常行説因院 廿四 バン 金剛修法院
廿五  ア  法華三昧院 廿六 フ   常念觀音院 廿七 ア  求聞持藏院
廿八  ア   梵釋四王院 廿九 ユ   弥勒法相院 卅 バイ 施薬悲田院
卅一  ウン 金剛吉祥院 卅二 マン 観念文殊院 卅三 カハ 平等忍辱院
卅四  ア  造像図書院 卅五 キリーク 安養浄土院 卅六 ユ  理正天王院
卅七  タ  檀度利益院 卅八 ナ  因明修学院 卅九 タラーク 観虚空蔵院
四十  ア  招提救護院 四十一 ア 唯学傳法院 四十二 カン 常念惣持院
四十三  バイ 理観薬師院 四十四 ウン 律行衆生院 四十五 ア  供養三寶院
四十六  ア  労他修福院 四十七 ア  不二浄名院 四十八 ア  常行如意院
四十九  バク 常行律儀院


 兜率天信仰は日本独自のもので、東大寺の実忠、大安寺の道慈、小島寺の真興らがこれを感得して広めたといわれているが、平安時代にこの信仰がさかんになり、「寺院の境内に四十九の小宇を建て、または墓標の周囲に四十九の卒塔婆を建てめぐらし、四十九院の名称と種子を書くもので、七七忌に建てる」ようになったと、『仏教民俗辞典』にも説明されている[仏教民俗学会(編),1986:p.175]。つまり、死者の兜率天での往生を願って、葬送施設としての四十九院が生み出されてきたわけであった。近畿地方の四十九院の場合、家型の破風に「都卒天」と書き入れた小さな額を付ける例も報告されている[吉田,1993:p.401]。宮城県伊具郡丸森町大内には「四十九院(つるしいん)」という屋号の家があり、次のような伝説を伝えているので、参考までに紹介しておこう。
 昔、伊達郡保原(福島県)でのこと、飴を買いに来る女がいたが様子が怪しいので、後をつけて行くと墓の中に姿を消した。墓のなかから赤子の泣き声が聞え、女は埋葬されてから墓のなかで子を産み、幽霊となって飴を買い子どもを育てていた。そこで掘り出して子どもを育てた。この子どもが当家の先祖で、掘り出されたのが四十九日の日であったので四十九院と名乗ったというもので、四十九院とは弥勒浄土のことであり類型的な伝説である[三崎,1978:p.125]。


 さて葬送施設としての四十九院の、もっとも原型的な姿とは、一体どのようなものであったろうか。今まで取り上げてきたような土葬墓の墓覆いや、そこに設置される木造の家型などの埋葬施設に限って見た場合、その手がかりとなるのは、修験道の方で定めている祭祀修法であろう。1745年(延享2年)に編さんされた『修験道無常用集』には、墓地での四十九院の祭祀法が、図入りで詳細に解説されているので、これについて少し見てみよう。
 

図1 四十九院 『修験道無常用集』
まず図1右は墓地における葬場の見取り図であって、中央に安置された龕台を中心に導師・従者・諸衆の各席、燭台・香炉などを置く卓、錫杖・棒物などの置き場所などが用意されている。葬場全体は竹矢来のような垣で囲まれており、その四面にそれぞれ鳥居門が設けられている。先に触れた発心門(東)・修行門(南)・菩提門(西)・涅槃門(北)がこれで、現行民俗として見られる墓地の家型の四壁の鳥居門は、これの名残であることがわかるであろう。図1左は葬儀の終了後、中陰までの間に死者の埋葬地点に設置される施設の見取図で、まさにこれこそが四十九院であった。中央の墓標を囲んで4本の角柱がまず立てられ、柱間の各辺に49本の小塔婆がずらりと柵状に並ぶ形となり、正方形の区画ができる。各頂点にある4本の角柱は仏塔をあらわし、それぞれの2面にその塔名が記されて計8本の塔をあらわし、各辺には先の四つの門がそのまま残っているものと仮定して(実際には略されている)、これらを「四門八塔」と呼ぶ。各塔の名は東の発心門の左側がが「ウン淨飯王宮生處塔」で、右側が「ウン菩提樹下成佛塔」となる。南の修行門の左側が「タラーク鹿野園中法輪塔」、右側が「タラーク給孤獨園名稱塔」で、西の菩提門は左側が「キリーク曲女城邊寶階塔」、右側が「キリーク耆闍崛山般若塔」となり、北の涅槃門は左側が「アク菴羅衛林維摩塔」で、右側が「アク婆羅林中圓寂塔」となる。 
 
図2 四十九院の構成  『仏教民俗辞典』


 四周の各辺に並び立てる小塔婆の本数については、図2に掲げる『仏教民俗辞典』の解説図がわかりやすい。ここには各頂点に立てられる4本の角柱にくわえ、南側の正面入口両側の2本の角柱も描かれており、角柱は計6本となるが、それらを「角塔婆」とし、各辺の小塔婆を「板塔婆」としている。板塔婆の本数は、南の正面両側に3本ずつ計6本、東西両側面に14本ずつ計28本、北側奥に15本で、計49本となる。こうした葬送施設の形態は、『餓鬼草子』や『法然上人絵伝』などに描かれたものとも、大変よく似ている。また、先に述べた関西地方の現行民俗としての四十九院は、まさにこの図1左の通りであって、修験道の定める四十九院の祭祀方法がほとんどそのまま、忠実に踏襲されてきたものであったことがわかる。それに対して関東地方などによく見られる家型形式のそれは、葬場での葬送儀礼における四門の形式が、そのまま家型の造りの中に継承されていることがわかる。修験道の儀礼祭式のもたらす影響力が、いかに大きなものであったかも、そこから知ることができるのである。
 しかしながら、『修験道無常用集』に記された四十九院の祭祀法は、あくまでも18世紀中頃の時代におけるひとつの「原型」であったに過ぎない。それ以前の時代における四十九院の祭祀方法には、もっと違うやり方もいろいろあったのであり、それについても検討しておかねばならない。たとえば北関東地域では、石造物としての四十九院というものがよくあり、時代的に見ると近世初期にまでそれはさかのぼる。埼玉県北部地方の例をあげてみると、石造四十九院としての石祠・石殿・石堂状もしくは供養塔状の石造物というものが見られ、小塔婆が柵状に並んだ姿が側壁に彫られている。寺院の墓地などに行くと、時折それを見かけ、児玉町連雀町の天藏寺のものなどは、比較的よく形が整っている。同町新町の実相寺の墓地には4基の四十九院塔があって、その建立年を見ると、それぞれ1662年(寛文2年)・1673年(延宝元年)・1680年(同8年)となっている。児玉地方には多くの四十九院塔墓が見られるが、たいていは刻銘を欠いており、このように造立年の判明するものが4基も集中して見られる例は珍しい。同町金屋の円通寺の墓地にも7基、それが見られるが、うち2基には刻銘があり、1628年(安永5年)・1699年(元禄12年)に造立されたことがわかる[田中,1994:p.96]。なお川里村三反地のC法寺にも四十九院塔が何基か見られるが、刻銘はない[金井塚,1994:p.34]。岩槻市真福寺の正藏院の境内にあるものは1723年(享保8年)に造立されたもので、「奉供養四十九院塔春意信士逆修根法界万霊成三菩提」と刻まれていることが珍しい[中上,2008:p.47]。以上の例から埼玉県内の石造四十九院は、17世紀前半から18世紀前半頃にかけて造立されたものであることがわかる。
 石造四十九院の諸事例はそのほか、東日本の各地にもいろいろ見られるようで、石仏研究家の中上敬一氏によると、福島県石川郡玉川村の東福寺(1205・元久2年)や同平田村耕林寺(1699・元禄12年)、栃木県宇都宮市新里町の個人墓地(1656・明暦2年)、群馬県安中市の久保観音堂(1727・享保11年)や同県高崎市大八木の妙音寺(1623・元和9年)などでも確認されている[中上,2008:pp.47-48]。福島県の東福寺の例の場合、元久2年という建立年銘があまりに古過ぎるので疑義が残るけれども、明治大学の水谷 類氏によれば鎌倉期にはすでに四十九院を墓所に建てた例があるそうで、戦国末期から近世初期にかけて支配層にそれが普及していくとのことである[水谷,2005:p.23・2009:p.214]。なお群馬県内の高崎市・前橋市・伊勢崎市・安中市周辺には、さらに多くの事例が見られるのであって、数十基はあるものと思われる。これについては高崎市の金子智一氏がくわしく調査をしておられるが、それによると、これらは近世初頭から享保頃までにかけて造立されたもので、埼玉県下のものと年代的にはほぼ重なるであろう。形態的には中世の石堂・石殿の形式を踏襲しており、寄棟・入母屋型もしくは方形造の屋根を基本とし、側面壁に長足卒塔婆を暘刻・陰刻するものであった[金子,2004:pp.87-102]。なお、ごく稀な例ではあるが、49体の石仏を造立して兜率天の世界を表現するという信仰施設もあって、兜率天の49の内院にそれぞれあてられた諸仏を一ヶ所にまとめた石仏群を、寺院の境内に建立するという形がとられている。埼玉県児玉郡美里町の普門寺と、栃木県足利市の行道山の2ヶ所にそれが確認されているが、前者は元文年間頃、後者は享保年間に作られたものであった[中上,1991:pp.67-72・1995:p.109]。
 さて、今まで紹介してきたのは、葬送施設や石造物としての四十九院であったが、これらにくわえてさらに、木造建造物としての四十九院というものもあるということにも、注目しておく必要がある。新潟県には堂宇・小祠の形を取る四十九院が各地に見られる。たとえば佐渡市両津岩首にある地蔵堂は風変わりな建物で、堂の正面以外の三方の壁が塔婆を並べて造られており、このような造りの建物を四十九院・四十九院垣堂と称している。堂内にはいくつかの地蔵が祀られているといい、これを調査された佐藤和彦氏によると、佐渡島内の赤泊・松ヶ崎・岩首・畑野の各旧村に、こうした祠堂があるそうで、新潟県以外では兵庫・大阪・香川の各府県にも見られるという[佐藤,2005:pp.27-35]。新潟県柏崎市の真珠院という寺には、1780年(安永9年)に即身成仏の誓願を立てて入定した秀快上人という僧侶の入定堂があるが、堂内の壁には49枚の板塔婆が打ち付けられていて、これも四十九院の形式を守っている[大竹,2005:pp.36-49]。これらの祠堂型四十九院を見て思い出されるのは、いうまでもなく和歌山県の高野山奥の院に見られる大名霊屋であろう。高野山には多くの大名家の霊廟が建立されているが、廟堂の周囲を49本の石製長足卒塔婆・木製角柱卒塔婆で囲み、正面に鳥居を建てた形式のものがよく見られる。『高野山絵図』にも、「これより奥の院、左右に四十九院石塔数多」くあると記されている。福井藩主松平秀康の石廟は1607年(慶長12年)に、秀康が母のために建てたそれは1604年(慶長9年)に建立されている。常陸佐竹藩主佐竹義重の霊屋は1599年(慶長4年)の建立で、もっとも古いが、霊屋内には宝篋印塔が祀られていて、周囲は49本の木造五輪板塔婆で囲まれている[金子,2004:p.88・中上,2008:pp.45-46]。
 発生期の四十九院はそのように、廟堂・祠堂を取り囲む49本の卒塔婆と鳥居門に象徴されるものであったのかもしれない。平安期の弥勒菩薩・兜率天信仰というものが、中世末期から近世初頭にかけて、葬送施設の中でその思想的世界の具現化がはかられるようになり、大名クラスの支配者の立派な廟堂装飾が、まずは生み出された。近世初期には卒塔婆列が形式化・ミニチュア化する形で、それが石堂・石殿に刻まれるようになり、近世中期には木製の小塔婆列で墓所を囲む葬法が修験道の手で整えられ、庶民階層にまで普及することとなって、関西地方の現行民俗に今もそれが伝えられている。一方、東日本ではそれが、龕台を飾る輿や墓覆いの家型として発展していった。また、四壁の柵状の造りという形で塔婆列の名残りをとどめつつ、埋葬地に家型を安置する習俗も全国的に見られ、四十九院の遺風をかろうじてそこにとどめている。四十九院の発生と展開過程は、おおよそ以上のように整理されるものと思われる。

文 献
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