西郊民俗談話会 

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連載 「環境民俗学ノート」 2  2010年12月号
長沢 利明
武蔵野の雑木林と里山環境
(1)里山林としての雑木林

 里山の自然環境・景観を保護しようということが、言われるようになって久しい。里山とともにある農村集落や田園景観をも含め、総合的にそれらを保護していくべきだとし、「里地・里山環境の保全」という言い方などもなされるようになった。なぜ里山を守らねばならないかというと、それが日本人にとってのいわば、ふるさとの原風景の重要な構成要素であるからで、その価値が見直されてきているためでもあろう。産業開発・経済発展と引き換えに、私たちが失ってきたそうしたものへの郷愁と憧憬、来しかたへの反省、身近な自然の持つ意外なほどのその豊かさの再発見、ということなども、その背景にあるものと思われる。それでは、その里山とは一体何か。そこにある里山林とはどのような森林で、どういう役割を果たしてきたのかを、少し考えてみることにしよう。
 里山とは文字通り「里の山」であって、農村集落に近接・付随しつつ、その背後に展開する農村生活に非常に密着した、人間とともに生きてきた自然環境である。そしてそこにある里山林とは、桃太郎の昔話で「お爺さんは山へ柴刈りに行きました」と語られてきたようなイメージがぴたりとあてはまる、人里近い身近な森林なのであって、まちがっても深山幽谷にあるような天然林のことではない。人々はその里山林から燃料の薪を採取し、木炭を焼き、枯葉を掻き集めて堆肥を作ってきた。そのような形で、たえず人間が自然植生に影響を与え続けた結果、それが変質して一定の構造で維持されるようになった代償植生としての森林。薪炭林・肥料林・農用林としての森林。それが里山林である。より具体的にいうならば、早い話が照葉樹林帯の場合、関東地方であればクヌギ‐コナラ林、関西以西であればアカマツ林が、ほぼ里山林にあたるといってよい。東京周辺でいえば、私たちが郊外の散策や低山ハイキングなどで日頃よく見慣れている、いわゆる武蔵野の雑木林が、まさに典型的な里山林としてのクヌギ‐コナラ林なのであって、コナラ・クヌギ・クリなどを主体とし、アカマツ・エゴノキ・イヌシデなどが時折混じるタイプの森林が、それである。
 雑木林は人の手がたえずくわわることによって、照葉樹林から落葉広葉樹林へと変質し、その状態で維持されている森林なのであり、そのようにして人間の影響力の持続を通じ、植生遷移を中断させることを、生態学では「偏向遷移」と呼ぶ[犬井,2002:p.19]。したがって人間の関与がなくなれば、それはまたもとの照葉樹林へと戻っていくことになる。1960年代以降、化石燃料への依存が強まって薪や木炭の需要がなくなったこと、化学肥料の普及によって農家が落葉の堆肥作りをしなくなったことなどを通じ、雑木林は薪炭林・肥料林としての価値を失って役割を終え、手入れもなされなくなり、いまや日本中の里山林が荒れ放題の状態で放置されている。
 表2は武蔵野の里山林の現状に関する植生調査結果であるが、@は埼玉県朝霞市内のある寺院の境内に残された里山林、Aは同県南埼玉郡宮代町の「山崎山雑木林(緑のトラスト保全5号地)」で、「さいたま緑のトラスト基金」により取得された保護林である。BCは神奈川県川崎市内の丘陵上に残された雑木林で、特にBは生田緑地公園内に良好な状態で保全されている。Dは東京都世田谷区の羽根木公園内の雑木林、Eは国分寺市内の「泉町3丁目保存樹林地」で、面積2,175uの雑木林が1976年に保存指定されている(指定2号地)。Fもまた国分寺市内の「エックス山」と呼ばれる保護樹林で、武蔵野新田に付随する雑木林の一部の1.36haほどが保全・整備されており、1960年代までは実際に薪炭林・農用林として利用されていた。Gは立川市内の「矢川緑地公園」、Hは府中市内の「黒鐘緑地公園」、Iは国立市内の「城山公園」の、それぞれの保護地域内で保全されている、かつての薪炭林である。JとKはその国立市内に、エアポケット状に残存していた小面積の雑木林であったが、今では宅地化されてしまって消えうせ、現存しない。
 表2 里山林植生調査表  → ここをクリックすると、PDFで大きく表示できます。
 

写真3 武蔵野の雑木林(東京都府中市浅間山)
  これらの里山林・雑木林ではいずれも、クヌギやコナラなどを主体とする典型的な高木層の樹種構成が見られることの一方で、亜高木層や低木層に照葉樹林の構成メンバーがぞくぞくと侵入・復活し、潜在植生への回帰が急速に進みつつある現状も、よく現われていることがわかる。草本層を圧倒的に支配するアズマネザサの存在は、下草刈りがほとんどなされていないことをも示しているが、林床がササ類で独占されると、他の植物の生育が著しく抑制されてしまい、森林の持つ生物多様性が失われる結果となる。雑木林の管理で何よりも大切なのは下草刈りなのであるから、里山林を復活・再生させようと考えるならば、まずはササ原を刈り払わねばならない。ササは雑木林の大敵である。カタクリ・ニリンソウ・キツネノカミソリなどの群生地として知られる花の名所は、地元民が何年もかけてササ原を除去し、それらの野草を復活させて生まれたものである[河野,2010:p.2]。私たちが子供だった頃、里山林はどこでもきれいに下草刈りがなされていて、明るい見通しの利く林床を自由に走り回ることができた。今見るようなヤブ山・ササ原と化した雑木林では、小学生らが遠足に来たとしても、大人数で弁当を広げる場所すらない。
 下草刈りの次に重要なのは樹々の枝打ちである。株立ちになって伸び過ぎたコナラやクヌギの場合、真ん中の1本もしくは2〜3本を残して枝を切り落とし、すっきりさせる。切り落とした枝や下草刈りで除かれた低木などのソダ類、ススキなどの下草は、燃料として利用される。そのようにして低木層・草本層を除去しておかなければ、それが邪魔になって冬場のクズハキ(落葉掻き)ができない。掻き集められた落葉は、もちろん堆肥作りに用いられたほか、家畜小屋の床に敷いたり(それも後に肥料となる)、サツマイモや葉タバコ栽培のための苗床作りにも利用された。そして雑木林は15〜25年に一度、すべての樹が皆伐されて薪や炭となった。ヤマは一時、丸坊主の禿山になるが、伐られた樹の切株からは再びコナラやクヌギのひこばえが生えてきて(いわゆる「萌芽更新」)、株立ちの若木となり、15〜25年をかけてもとの雑木林へと戻っていく。このサイクルを繰り返して里山林・雑木林が維持されていくのである。東京都八王子市堀之内の平山城址公園には見事な里山林が保護されているが、私が以前そこをおとずれた時、公園管理業者らが育ち過ぎたコナラ・クヌギの樹を、伐採する作業をしていた。ところが、公園に来ていた見学者たちがそれを見てびっくりし、「自然保護地区内の樹を伐るとは何事か」と騒ぎ出して抗議をし、作業員らが説明に苦労をしていたことが思い出される。その見学者たちはわかっていない。雑木林としてのクヌギ・コナラ林は天然林ではないし、定期的に伐採すべき森林なのであって、伐らなければ維持できないのである。


(2)文学に登場する武蔵野の雑木林

 さて雑木林といえば、何といっても武蔵野のそれが著名なのであるが、中世の頃の武蔵野は月の名所で、見渡すかぎりのススキの原野が広がっていたといい、大納言源通方が「武蔵野は月の入るべき嶺もなし尾花が末にかかるしら雲」と詠んだくらいであった。秣場の維持のためになされる野焼き、焼畑農業、家畜の放牧などが長年続けられてきた結果、照葉樹林がススキの原野に転換して、半永久的にその状態が固定化されて安定していたらしいというのが、大昔の武蔵野の景観であった。近世期になると、今度はそのススキの原野が雑木林へと転換されていく。けれども和歌に詠まれ、絵画に描かれる武蔵野の姿は往古のイメージのままで、武蔵野図屏風といえば月にススキという構図に決まっており[山内,2010]、「月・尾花・露」は武蔵野の三大シンボルであり続けた[足田,1984:p.486]。太古の武蔵野の姿にあこがれる、そうした近世の文化人たちの郷愁と憧憬とは裏腹に、現実の武蔵野のススキ草原は、すでに雑木林へと変わりつつあったのであって、近代期の知識人たちもその植生遷移のプロセスを次のように説明している。
 武藏野の大部は暖帯の北部に屬し、天然にはかし、しひ等の常緑の樹木が生ひ茂る可き處なので、往古は常緑濶葉樹のみが鬱蒼としてゐたのであるが、人爲に依って悉く伐採されたり、或は野火其他で燃燒した時、幾らかはその種類の木が母株から萌芽して生存するが、同時にしで、そろ、こなら、くぬぎ、あかまつ、もみ等の陽生の樹木が混生する樣になり、其後何回となく皆伐された爲め、在來の樹即陰性の常緑濶葉樹はだんだんと絶へて上述落葉樹の林に變ってしまひ、遂に現在の樣な林相を現出する樣に至った(後略)[三木,1924:p.44]。
 武蔵野の本来の植生はシイ・カシ類によって構成される常緑樹林(照葉樹林)であったが、人間の関与を通じて、しだいにクヌギ・コナラ・アカマツ林型の落葉樹林(クヌギ‐コナラ林)に変質していったとの指摘はまことに鋭いが、正確にいえばその間にススキの原野というもう一段階があったのである。つまり、古代以前の照葉樹林、中世のススキ草原、近世以降の雑木林という順番で、植生が変化していったと考えられる。里山林としての武蔵野の雑木林が完成したのは当然、江戸時代に入っていってからのことで、武蔵野の開発が進み、そこに人が多く住み着くようになっていったことと軌を一にしている。特に決定的であったのは新田開発で、それを通じて残存照葉樹林とススキ草原(秣場としての採草地を含む)が、耕地とクヌギ‐コナラ林とに転換していった。
 新田集落特有の短冊型の土地区画内には一定の土地利用パターンが見られたが、享保年間(1716〜1736年)に開発された東京都小平市の小川新田を例に取ると、1軒あたりの土地区画は間口約20m・奥行約500mほどで、区画内の土地利用形態は道路側から宅地・用水路・屋敷林・畑・雑木林となっていた。薪炭林・肥料林としての雑木林は一番奥まった位置にあり、各戸の所有林が互いにつながって森林帯が形成され、それがまた隣の新田集落の森林帯ともつながっていた。農地と森林帯とが幾重にも複雑に入り組んでは連続して展開するという、武蔵野独特のモザイク景観はかくして生まれ、その風景美を高く評価する考え方が、近代期になると出てくる。先の大正期の知識人らも、「丘から林に移るかと思へば林から丘が起るといふ風に、何處迄も此の二つが互に愉快なリズムに依って連續されてゐる」と述べている[三木,1924:p.43]。特に、そこにある里山林としての雑木林は最重要の景観要素であって、明治時代の自然主義文学者たちのおおいに賛美するところともなった。武蔵野の雑木林について語られた文学作品はいろいろあるが、まずは徳富蘆花の『自然と人生』があげられよう。1900年(明治33年)に刊行された作品であるが、その一部分を以下に引用してみる。
 
余は斯雜木林を愛す。木は楢、櫟、榛、栗、櫨など、楢多かる可し。大木稀にして、多くは切株より簇生せる若木なり。下ばへは大抵奇麗に拂ひあり。稀に赤松K松の挺然林より秀で丶翠蓋を碧空に翳すあり。霜落ちて、大根ひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林を羨まず。其葉落ち盡して、寒林の千萬枝簇々として寒空を刺すも可。日落ちて煙地に滿ち、林梢の空薄紫になりたるに、大月盆の如く出でたる、尤も可。春來りて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩黄など和らかなる色の限りを盡せる新芽をつくる時は、何ぞ、獨り櫻花に狂せむや。葉の頃其林中に入りて見よ。葉々日を帯びて、緑玉、碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面もく、若し假睡せば夢亦緑ならむ。初茸の時候には、林を縁とる萩薄穂に出で、女郎花刈萱林中に亂れて、自然は此處に七草の園を作れり。月あるも可。月なきもまた可。風露の夜此等の林のほとりを過ぎよ。松虫、鈴虫、轡虫、きりぎりす。虫と云ふ虫の音雨の如く流る丶を聞かむ。おのづから虫籠となれるも妙なり[徳富,1933:pp.64-65]。

 武蔵野の雑木林を構成するのは、コナラ・クヌギ・ハンノキ・クリ・ハゼなどの樹種で、アカマツ・クロマツがそこに少し混じるとの描写はまことに正確で、クヌギ‐コナラ林の典型的な姿がきちんと把握されている。特に多いのはコナラで、大木は少なく多くは切株から叢生した株立ちの若木である、下生えはきれいに刈られているとの指摘も、まったく的確であった。コナラの筆頭的地位については先の表2に見る通りであるし、大木が乏しいのは定期的に皆伐されるためで、そもそも雑木林に樹齢25年以上の太い樹があってはならない。皆伐後の切株更新(萌芽更新)がなされるからこそ、次世代の若木は株立ちに叢生するのであって、こまめな下草刈りが不可欠であったことをも含め、すでに述べた通りである。蘆花の愛した雑木林は、エネルギー革命以前の時代の生きた雑木林である。しかもそれは、彼の住んでいた渋谷の自宅周辺における散歩コース内にあったというのであるから、今の渋谷の街の様子からは想像もできない。もっとも、渋谷の市街が今見るような繁華な地になったのは昭和時代になってからのことで、渋谷区内の大部分はもともと農村地域であり、今の渋谷駅周辺ですら草深い田園地帯の中にあった[長沢,1999:pp.298-299]。
 この雑木林の魅力を蘆花は、冬枯れの景、春の新緑、夏の青葉、そして秋の黄葉・名月・七草・虫聞きなどにも見い出しており、自然観察面については近代的な客観主義の立場を取りつつも、情緒面では中世・近世的な美意識を引きずっていたともいえようか。そこで次には、これまた武蔵野の雑木林の描写でよく知られた、国木田独歩の『武蔵野』の一節を引用してみよう。これは1898年(明治31年)に書かれたものである。

昔の武蔵野は萱原のはてなき光景を以て絶類の美を鳴らしていたように言い伝えてあるが、今の武蔵野は林である。林は実に今の武蔵野の特色といってもよい。則ち木は重に楢の類で冬は悉く落葉し、春は滴るばかりの新緑萌え出づるその変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行われて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑陰に紅葉に、様々の光景を呈するその妙はちょっと西国地方また東北の者には解し兼ねるのである。元来日本人はこれまで楢の類の落葉林の美をあまり知らなかったようである。林といえば重に松林のみが日本の文学美術の上に認められていて、歌にも楢林の奥で時雨を聞くというようなことは見当らない[国木田,1939:p.10]。(中略)自分はしばしば思うた。もし武蔵野の林が楢の類でなく、松か何かであったら極めて平凡な変化に乏しい色彩一様なものとなってさまで珍重するに足らないだろうと。楢の類だから黄葉する。黄葉するから落葉する。時雨が私語く。凩が叫ぶ。一陣の風小高い丘を襲えば、幾千万の木の葉高く大空に舞うて、小鳥の群かの如く遠く飛び去る。木の葉落ち尽せば、数十里の方域に亘る林が一時に裸体になって、蒼ずんだ冬の空が高くこの上に垂れ、武蔵野一面が一種の沈静に入る。空気が一段澄みわたる。遠い物音が鮮かに聞える[同:p.12]。(中略)武蔵野には決して禿山はない。しかし大洋のうねりのように高低起伏している。それも外見には一面の平原のようで、むしろ高台の処々が低く窪んで小さな浅い谷をなしているといった方が適当であろう。この谷の底は大概水田である。畑は重に高台にある。高台は林と畑とで様々の区画をなしている。畑は即ち野である。されば林とても数里にわたるものなく否、恐らく一里にわたるものもあるまい。畑とても一眸数里に続くものはなく一座の林の周囲は畑、一頃の畑の三方は林、というような具合で、農家がその間に散在して更らにこれを分割している。即ち野やら林やら、ただ乱雑に入組んでいて、忽ち林に入るかと思えば、忽ち野に出るというような風である。それがまた実に武蔵野に一種の特色を与えていて、ここに自然あり、ここに生活あり、北海道のような自然そのままの大原野大森林とは異ていて、その趣も特異である[同:pp.16-17]。

独歩の言う武蔵野の雑木林の美は、蘆花の言うそれとほとんど共通しているけれども、唯一の違いといえば、その美が自然美のみならず、人間生活がそこに介在することによって生じる人工美の要素も重要であるとしていることであろう。自然美と人工美との共存的バランス、すなわち武蔵野独特の田園景観の素晴らしさということに、彼は注目をしているのである。それはいわば、ヤマ(雑木林)・サト(農村)・ノラ(耕地)の3要素の、バランスのよい並存・共存の姿なのであって、それらのモザイク的連続性の面白さということを言っているのであろう。そこからは、「月と尾花と露」に象徴化された虚像イメージから完全に脱した、近代的リアリズムの精神をも感じ取ることもできるであろう。


(3)雑木林の管理と利用

 さて、その農用林としての武蔵野の雑木林の利用形態を、東京都羽村市あたりの農家の生活実態をもとに、少し見てみよう[保坂,1997:pp.7-12]。羽村市を含む西多摩地域では、里山林・雑木林のことを、俗に「雑山(ぞうやま)」・「雑木山」・「マキ山」などと称してきた。1959年頃までは、そこで木を切って薪作りが行われていたが、伐採の周期は12〜13年、時には15年ほどであったという。樹が樹高4〜5m・幹径12〜13pほどに育った時点が伐採の適期で、それ以上に樹が育ち過ぎると薪になりにくく、切るのにも手間がかかるようになる。伐採作業は4〜5人が組になって行い、切り倒した樹の枝を払ってソダ(粗朶)にし、幹部分は1尺2寸5分(約40p)の長さに切り揃え、太いものは四つ割にして、縄で直径8寸(約26p)・円周2尺5寸(約82.5p)の束に縛った。薪は堅材であるクヌギ・コナラがもっとも上等であったが、ケヤキも燃やすと大変火力が強い。ヘッピリザクラ(ウワミズザクラ)・クリは燃やすと悪臭がしたり、火花がはねたりするので、最低の薪であったともいう。伐採後の切株からは3〜4年もすると7〜8本の芽が出てくるので、70〜80pに伸びた時点で良い枝4〜5本だけを残して刈り取り、ソダにする。この作業を「刈り抜き」といい、それの済んだヤマを「刈り抜き山」と呼ぶ。その後、さらに樹が成長して枝が混んでくると林床の日当たりが悪くなるので、堅木の薪となるクヌギ・コナラのみを残し、ハンノキ・ネブタ(ネムノキ)・エゴ(エゴノキ)などの役に立たない樹を間伐することになっていた。

 

写真4 クズハキのなされた雑木林(国分寺市エックス山)
  雑木林は燃料薪の採取のためにだけあるのではもちろんなく、もうひとつの大切な役割・利用目的として、堆肥原料としての枯葉の採取があったことを忘れてはならない。落葉のことをクズ、それを集めて採取することをクズハキと称することは、どこでも同じである。ヤマからクズを運び出すための巨大な運搬籠が、どこの農家の物置にも二つ三つくらいは見られ、クズハキカゴなどと呼ばれるが、羽村では俗に「八本ばさみ」などと呼ばれていた。他地域でも「八本びね(へね・骨の意)」・「六本びね(へね)」などの呼び名があり、竹籠の底骨の数を言ったものであったろう[駒木,1997:p.176]。羽村でのクズハキ作業は、畑の大根引きの済んだ11月末〜12月から始まる。熊手でヤマの枯葉を掃き集め、先のクズハキカゴに詰め込み、牛車や大八車で家まで運ぶ。山主から落葉だけを買ってクズを掃くこともあったが、山道の両側3尺(約1m)は誰が掃いてもまったく自由であった。ヤマに雪が降って積もると、クズハキができなくなるので、2月までには作業を終えなければならない。家に運んだ枯葉は庭に積み上げ、下肥・風呂の残り水などを掛けて腐らせ、堆肥を作った。堆肥のことをツクテと呼ぶ。家畜小屋や庭にも枯葉を敷いた。注目すべきは多摩川に架けられた「クズハキ橋」であろう。それは川の右岸にある草花丘陵の雑木林から、左岸の羽村の集落までクズを運ぶための仮橋であって、多摩川の水量の減る12月初旬に架けられ、3月下旬〜4月初旬頃にははずされることになっていた。この仮設橋のことを、クズハキ橋と称していたのである。
 

写真5 クズハキカゴ(東京都国立市中平) 
 雑木林から供給される枯葉は、サツマイモを栽培するための苗床(サツマ床)作りにも欠かせない[犬井,2002:pp.36-39]。サツマ床作りは東京都板橋区成増あたりの場合、11月中に雑木林のクズハキを行って、ただちに始められる。床は、麦藁を四角に組んで長さ3〜7m・幅5〜6尺・高さ3〜4尺ほどの大きさに作った。その中に雑木林の枯葉を厚く敷き詰めて米糠などを混ぜ、油紙を貼った障子で覆っておくと、10〜15日ほどで枯葉が発酵し、熱が出るので、床上に種芋を並べ、堆肥をかぶせて発芽させる。枯葉の発酵熱をたくみに利用した、いわゆる「醸熱温床」方式での育苗技術であったわけで、20日後に苗を切り取り、八十八夜の頃に畑に植え付けた[坂本,2005:pp.5-6]。成増でもまた、冬場の12〜1月が雑木林の伐採・薪作りの季節で、薪は1年間使う分を1尺〜1尺5寸の長さに切り揃え、軒下に積み上げた。春になると雑木林には、いろいろな山菜・薬草類が生えてくるので、それらの採取・利用も行われた。ヨモギ・ツワブキ・ゲンノショウコ・ユキノシタ・ドクダミ・カラスウリ・ヒガンバナ・カタクリ・ハコベなどが採れた。夏から秋にかけては、シメジ・ナラタケなどの食用キノコが雑木林で採れる。麦藁屋根の補強材としてのチヤガ(チガヤ)も、そこで採取した。雑木林はまた、子供達の大切な遊び場でもあって、兵隊ごっこ・隠れん坊・度胸だめし・宝探し・ソリ滑りなどが、そこでさかんになされてきたし[同:pp.6-7]、誰もがそれを経験しながら大人になった。
 里山林としての武蔵野の雑木林は以上のように、さまざまな形で地域住民に利用され、育てられ、維持されてきたのであって、住民の日常生活と生業とに深く密着し、それを支えてきた。それの果たしてきた多様で重要な役割を、もう一度見直してみなければならないのはもちろんのことであるが、そこに残されてきた豊かな自然を今後とも維持していこうとするならば、旧来と同じ形での管理を続けていかねばならないし、そのような形で人間は、自然に対して影響力を行使していかねばならない場合もある。そして、そうした形を通じてしか保護することのできない自然(半自然)というものもあるのだということを、多くの人々が知っておかねばならないのである。
 


文 献
足田輝一,1984「草木綺譚H―ススキは武蔵野のシンボル―」『朝日園芸百科』bX,朝日新聞社.
保坂和子,1997「武蔵野の雑木林―聞き書きにみる木のいのち―」『女性と経験』No.22,女性民俗研究会.
犬井 正,2002『里山と人の履歴』,新思索社.
駒木敦子,1997「背負籠」『多摩民具事典』,たましん地域文化財団.
河野博子,2010「有機がつなぐ(10)―ゴルフ場から夢の里山―」『読売新聞』8月24日号夕刊全国版,読売新聞社.
国木田独歩,1939『武蔵野』,岩波書店.
三木謙吾,1924「武蔵野に生ふる木(四)」『武蔵野』Vol.7-3,武蔵野会.
長沢利明,1999「渋谷区の年中行事」『江戸東京の年中行事』,三弥井書店.
長沢利明,2000 「くにたちだより(29)」『アゼリア通信』No.95,有限会社長沢事務所.
西野芳明,2006「雑木林」『読売新聞』1月21日号朝刊全国版,読売新聞社.
坂本郁子,2005 「田中孝治さんから『昔の雑木林の話を聞く』」『板橋史談』No.230,板橋史談会.
徳富蘆花,1933「自然に対する五分時」『自然と人生』,岩波書店.
山内菜央子,2010「言の花―はてなきススキの武藏野―」『読売新聞』9月17日号夕刊全国版,読売新聞社.
 
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