西郊民俗談話会 

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連載 「環境民俗学ノート」 3  2011年1月号
長沢 利明
マユダマの樹とツツジの花見
(1)マユダマ飾りに用いられる樹

 埼玉・東京都県境西部に広がる狭山丘陵上には、かなり広大で豊かな里山林が今も残されているが、それは丘陵地域の農村生活とも深く結びついていた。農家の年中行事にも、里山林と関係のあるものがいろいろ見られる。たとえば東京都側の武蔵村山市岸・後ヶ谷戸などでは、1月17日の山の神行事で子供たちが里山林の中に小屋掛けをしてこもり、煮炊きなどしながら楽しく過ごすという祭りが、かつて行われていた[長沢,2000:pp.405-406]。同市原山で5月1日になされていた荒神祭りも、里山の山中に祀られた荒神祠の例祭で、山麓には農具市が立ったほど盛況な祭りであった[同:pp.429-430]。秋の十五夜行事ではどこでも、名月にささげる花々を里山に取りに行くのがならわしで、ススキ・オミナエシ・ワレモコウ(ボウズ・アカボウズ・ダンゴバナなどと称した)・カルカヤ・ナデシコ、さらには桔梗・萩・野菊などを山から迎え、縁先に飾った[同:p.457]。小正月のマユダマ(繭玉)行事では、繭に見立てた団子を木の枝にたくさん刺して座敷に飾り、豊蚕祈願としたのであるが、団子を刺す樹の枝はやはり、丘陵上の里山林から切り出してくることになっていた。神を宿した聖なる草花や樹を、山から迎えてくることに意味があり、年頭の若木迎えの習俗などに、それは通ずる。
  

写真6 マユダマ飾り(東京都武蔵村山市原山)

 

写真7 マユダマ飾り(東京都国立市下谷保)
 そのマユダマ飾りに用いられる樹は、何の樹木であったかというと、武蔵村山市・東大和市域および埼玉県所沢市方面の農家の場合、かつてはアカンボウと呼ばれる樹がよく用いられてきた。民俗調査報告書にも、「アカンボーと呼ばれる木が山にあり、その木の枝を切ってきて、枝先に団子を刺して飾る。アカンボーの木は枝が上に向かって伸び、葉が薄くて枝が赤く、団子を刺すときれいだった」と記されている[長沢,1998:pp.158-159]。しかしながら、「アカンボウ(赤ん坊)といって、冬芽が赤く肌の柔らかい潅木があって、枝ぶりが見事で赤い芽も美しく、もっとも適しているものの山にあまりないので、ほとんど用いられなくなった」ともあり[長沢,1999:p.203]、今ではほとんどそれを見ることができなくなってしまった。アカンボウとはその名の通り、赤身がかった細枝が叢生する潅木で、枝の張り方が美しく、団子をそこに刺した時に大変見栄えがよいので、マユダマ飾りに適していたという。アカンボウとはもちろん方言名で、「赤ん坊」もしくは「赤の棒」の意であろうと思われるが、いかなる植物なのか、正式な和名では何というのかを、長年私は知りたいと思っていた。
 そこで私はある時、地元農家の方々と一緒に狭山丘陵上の里山林に分け入って、どの樹をアカンボウと呼ぶのかを教えてもらうことにした。ところが先述の通り、いまやこの樹はほとんどなくなってしまい、いくら山中を歩き回っても見つからない。「昔はどこに行っても至る所に、いくらでも生えていたんだがなあ」と、人々は口を揃えて言う。山の薪を燃料として利用しなくなり、化学肥料も普及して落葉のクズハキもなされなくなったうえに、農業そのものが不振で離農が進んだ結果、里山林の価値が失われて、山は荒れ放題になっている。アカンボウは、そういう環境条件のもとではきっと生きていけない樹木なのであろう、里山の荒廃とともにそれは消え去ってしまったのだろう、ということだけは少なくともわかった。その後、再び農家の方々と山に入り、東京都の管理する水源林のブッシュの中に、かろうじて1本生き残っていたその樹を、やっと私たちは見つけることができて、それはツツジ科のネジキという植物であることが、ようやくわかった。ネジキLyonia ovalifolia (Wall.) Drude var. elliptica (Sieb. et Zucc.) Hand.-Mazz.は、岩手県以南の本州・四国・九州に広く分布する落葉低木で、特に雑木林の林中によく自生する。樹皮がねじれて縱に割れるのでその名があり、6月に咲く総状の白い花はなかなか美しい。冬になって落葉すると、若枝が真っ赤に色変わりして光沢をはなち、まるで赤い塗り箸のごとくになる。なるほど、この赤い枝にマユダマ団子を刺したなら、さぞかしはなやかな装飾になることだろう。この樹がマユダマの樹に選ばれてきたわけも、よくわかる。
 ネジキは私の知るかぎり、調布市にある神代植物公園の芝生広場南側に1本それが生えていたし、今もそこにあるに違いない。東村山市の八国山の尾根上に、その群落が良好な状態で残っているのを、以前見たこともある。今ではすっかり珍しい植物になってしまったものの、かつては北多摩地域の里山林にたくさんそれが自生しており、農家ではその樹の枝を切り出してきて、マユダマを飾ったり、サツマ床の支柱に利用したりし、それが狭山丘陵一帯の民俗の特色となっていた。しかし、今ではもうそれがほとんどなくなってしまったので、屋敷まわりのシラカシなどの枝を切りおろし、代替している家がほとんどである。マユダマ飾りに何の樹を用いるのかということについては、そのように地域ごとに多少の決まりごとがあるので、参考までに他地域の事例をここに掲げてみよう。表3は多摩地方の諸事例を一覧表にまとめてみたもので、実にさまざまな樹種の用いられていることがわかる。
 表3 多摩地方におけるマユダマの樹一覧  → ここをクリックすると、PDFで大きく表示できます。

 きわめて大雑把にまとめてみれば、北多摩北部ではコナラ・イヌシデ・ヤナギなどの落葉樹がよく用いられ、枯れ木のマユダマ飾りになるのに対し、北多摩南部から南多摩にかけてはシラカシ・カシ類を中心とした常緑樹が用いられていて、青い葉付きのマユダマ飾りとなる傾向が認められよう。西多摩ではコナラ・モミジ類などの落葉樹が多用されている。すなわち、屋敷林やヤマに照葉樹林の多く残る南部地域では常緑樹型のマユダマ、標高の高い西多摩山間部と武蔵野の雑木林の多い北部地域では落葉樹型のマユダマとなる、ということなのであるが、三多摩全域に普遍的に見られたのはイヌツゲであったろう。私の考えでは、この地方のもっとも基本的なマユダマの樹はイヌツゲだったものと思われ、大昔の多摩地方のマユダマは、みなイヌツゲを用いていたのではなかったろうか。古風を重んずる旧名主・豪農級の家々では、今でもかたくなにその風を守っているし、イヌツゲの方言名をダンゴノキ(昭島市・福生市・東大和市・多摩市)、ダンゴサシ(調布市)、ダンゴサシノキ(清瀬市)、ダンゴバラ・ダンゴバラノキ・ダンゴバナノキ(桧原村)などと古くから呼びならわしてきたことも、それを裏づけていよう。イヌツゲはまさに照葉樹林の代表的構成種であって、多摩地方の潜在植生のシンボル的樹木でもあった。けれども、このイヌツゲという樹は非常に成長が遅く、なかなか大きく育たない。毎年の小正月のたびに大きな枝を切り出したり、株ごと抜いてきたりすれば、いつかきっとそれは枯渇する。そこで他のさまざまな樹木で、代替されるようになったのであろう。事実、多摩川沿いの国立市・府中市あたりの旧家では、「明治〜大正時代まではツゲが普通だったが、良い枝ぶりの株が屋敷内にもヤマにもなくなってしまったので、カシで代用するようになった」とよく説明しており、それはおそらく事実であったろうと思われる。

(2)ヤマツツジの花見の宴
 さて狭山丘陵地域の年中行事でもうひとつ問題にしたいのは、「六道山の花見」である。丘陵の西部にあたる東京都西多摩郡瑞穂町石畑に、六道山と呼ばれる里山林があって、戦前は花見の名所としてよく知られ、丘陵を囲む都内武藏村山市・瑞穂町、埼玉県所沢市など、四方八方の農家が弁当持参で集まり、花見の野外宴をここで楽しんだ。里山林はそのように、時には娯楽・慰安・レクリェーションの場としての役割も果たしていた。ただし、花見とはいっても六道山のそれの場合、桜の花見ではなくツツジの花見なのであり、時季も4月ではなくして5月5日頃になされていた。養蚕の春蚕の繁忙期がこれから始まるという直前の季節に、英気を養いつつ最後の慰安がなされたわけで、新暦4月上旬の桜の花見よりも、同5月上旬のツツジの花見の方が、この地域の農家の生活リズムにかなっていたのである。この時期、六道山の里山林には全山満開のヤマツツジの花が咲き乱れたそうで、それはそれは見事な光景であったというが、そのツツジは人が植えたものではなく、天然のヤマツツジなのであった。全山照らすヤマツツジの花々を前にして、初夏のさわやかな風を浴びつつ、新緑の樹下で酌みかわす一杯には、ことさら格別なものがあったに違いない。そして、この六道山の花見行事の面白いところは、周辺集落の若者たちが思い思いの仮装をしてくるならわしとなっていたことである。戦前におけるその花見の様子を、以下に引用してみよう。
 六道山は花見の名所として近在にもよく知られていた。五月なので、もう桜は散っていて葉桜見物となるが、かわりに全山にヤマツツジがたくさん咲いていて多くの花見客がおとずれた。花見客相手の露店などもたくさん出ていた。岸からも多くの人々が行楽におとずれ、酒や弁当を持って出掛けていった。重箱にタクアン・芋の煮付けなどを詰めて持っていく家が多かった。青年たちは仮装行列をしながら六道山までいくのがならわしで、須賀神社の社務所前に集まって、女物の着物を着たり、ダルマの恰好をしたり、浦島太郎の恰好をしたり、思い思いの扮装でぞろぞろと歩いていった。六道山に着くと、その恰好のまま踊りをしたり、酒を飲んで騒いだりしたものである。六道山には埼玉県側の宮寺方面、瑞穂町の箱根ヶ崎・石畑・殿ヶ谷あたりからも若者たちがぞくぞくとやってきて、花見をやっていた[長沢,1996:pp.127-128]。
 六道山という地名は地獄の「六道の辻」から来ているものと思われ、そこは東西南北の各方向から6本の道がここに集まるという交差点で、いわば狭山丘陵の交通拠点のような場所なのであった。だからこそ丘陵を取り囲む全周辺地域から花見客が集まったわけで、埼玉県側からも東京都側からも、人はやってきた[長沢,2004:p.5]。
 私たちは花見の野外宴というと、もっぱら桜の花見のそればかりを思い浮かべるが、桜以外の花見宴もいろいろあったのであり、北関東などでは藤やツツジの花見の行われる名所があちこちに見られた。ここでの六道山の場合は、野生のヤマツツジを愛でるという点が特色で、高原性のレンゲツツジやシャクナゲ、園芸種のサツキ類・ムラサキツツジ類に比べれば花の大きさや色の派手さには劣るけれども、花見客というものは概して「花より団子」の精神なのであるからして、咲きっぷりの優劣比較などはそもそもどうでもよかったのかもしれない。けれどもヤマツツジの花には野生種ならではの素朴な美があり、それが山中一面に咲き乱れるさまは実際、溜息が出るほど見事であって素晴らしい。ヤマツツジRhododendron metternichii Sieb. et Zucc.は、いうまでもなく日本の山野にもっとも一般的な野生ツツジで、もちろんツツジ科に属する半落葉低木である。北海道南部から本州・四国・九州にかけての山地域に自生し、4〜5月に咲く赤い花は初夏の山々をいろどる風物詩でもある。狭山丘陵でも、かつては至る所にヤマツツジが自生し、全山見渡すかぎり咲き乱れるさまが見られたといい、「5月になるとツツジの花で山が真っ赤に染まったものだ」と古老は語る。しかし今はそれも見られないし、そもそもヤマツツジそのものが、ほとんど消滅してしまった。山の植生がここ40〜50年間で、根本からすっかり変わってしまったのである。ツツジが咲かなければ、花見もまた成り立たない。こうして六道山の花見もまた、廃れていってしまったのである。
 山が変わるとは、どういうことなのであろう。ネジキやヤマツツジの生きていけないような山になってしまったというのは、どうした変化を指しているのであろうか。丘陵周辺の農家の方々は、こういうことも指摘しておられる。たとえば秋のキノコ狩りが近年、全然できなくなったとのことである。狭山丘陵地域ではもともと、山菜やキノコ類の採取ということが、あまりさかんになされてはこなかったのであるが、ネズミタケというキノコは割合によく山で採られ、食用とされてきた。ネズミタケとは要するにホウキタケのことで、少々苦味はあるけれども、北関東では煮込みウドン(ニボトと呼ばれる)の具として親しまれており、それは狭山丘陵地域でもまったく同様であった。小麦の粉食文化、麺とパスタの食文化のさかんな地域では、煮込みウドンがよく食べられ、ホウキタケがよく汁の実として利用されてきたのである。キノコの採れなくなってしまった山とは、要するに刈り抜きや下草刈りがなされず、ヤブ山・笹山と化してしまった山ということである。よく管理された山にはヤブというものがなく、林床は明るく歩きやすい。そこにはいろいろな種類の植物が生え、下草や笹が定期的に除去されることを通じ、かえって生物多様性がそこに生み出される。秋の七草なども、かつては見事にそこに咲き乱れたのであって、冒頭にも触れたように、家々では十五夜の日になると、ススキ・オミナエシ・ワレモコウ・カルカヤ・ナデシコなどの花を里山林から切ってきて、月に供えた。しかし、今の里山林にはそんな花々はちっとも見かけなくなったし、ススキすら生えないので、十五夜をやらなくなってしまった家も多い。山が変わったとは、そういうことである。
  
(3)里山林の荒廃と遷移・変化
 小正月のマユダマ飾りに欠かせなかったネジキの樹、そして六道山の花見の主人公たるヤマツツジの樹は、今の狭山丘陵の里山林にほとんど見ることはできないし、それらが消え去ってしまったことにより、こうした年中行事もまた消滅していった。ネジキとヤマツツジは、なぜ消えてしまったのか。それは前述のごとく、里山林がかつての役割を失い、管理がなされなくなって荒廃し、植生が変質してしまって、それらが生育しうる環境条件が失われてしまったということに尽きる。ネジキとヤマツツジはそもそも、どのような生態環境に生きてきたのであろうか。いずれもツツジ科に属するこれら2種の植物は、シラカシを主とする内陸型照葉樹林に人力がくわえられて変質し、生み出された東日本型の里山林(すなわちクヌギ-コナラ林)を構成する、亜群集・変群集の実は代表選手なのであった。ネジキを代表種とするその群集を「ネジキ変群集」といい、ネジキ・ヤマトトンボソウ・レンゲツツジ・アカシデ・キッコウハグマ・モエギスゲ・イロハモミジ・モミなどで、それは構成される。ヤマツツジを代表種とするそれは「ヤマツツジ亜群集」と呼ばれ、ヤマツツジ・リョウブ・オトコヨウゾメ・コウヤボウキ・マサキなどで構成される。特に後者は、関東地方では狭山丘陵のような低い丘陵地帯で、比較的人手の入る回数の少ない山地などに成立する二次林植生なのであり[宮脇,1967:p.96]、前者もまた基本的には同じであった。
 つまり、武蔵野新田に付随する雑木林のように徹底的に下草刈りがなされて、つねに低木層・草本層が除去され、毎年冬にはこれまた徹底的な枯葉の除去(クズハキ)がなされてきたような平地林型の里山林ではなく、適度な管理は行われるが、より自然状態に近い形で維持されてきたような山地丘陵部の里山林というものがあり、それこそがネジキとヤマツツジの生き延びうる世界なのであった。エネルギー革命以前の狭山丘陵には、そうした森林がいくらでもあり、人々は好きなだけ山中からネジキを切り出してきて、マユダマを飾ることができたし、初夏の六道山にはヤマツツジが満開となって、花見の場を提供してくれた。私たちが狭山丘陵の里山林の中でアカンボウの樹を探し回っていた時、地元農家の方々は近年の里山林の変化を、次のようにも語っておられた。「昔の山には、こんなに太い樹はなかった。今の山は巨大化したナラやクヌギの大木だらけで、何十年も伐採しないから樹が育ち過ぎている。樹の枝葉が鬱蒼と山を覆っているので、林の中が暗くて地面に日があまりささない。だからアカンボウもヤマツツジも消えてしまった。刈り抜きもしないからボサッカ(ヤブ山)になってしまって、笹ばかりが生え、山道以外はとても歩けるような状態じゃない」。かつての狭山丘陵の里山林は、大体15〜20年に1回のペースで皆伐がなされていたというが、伐採後の跡地は日当たりがよくなるので、ススキやヤマツツジが一面に生えてきて、一気に急成長を始める。4〜5年もすると、完全に成熟したヤマツツジが初夏にいっせいに開花するようになり、山を真っ赤に染め上げて桃源郷のような光景になったという。樹々が伐られてなくなり、開放空間ができて太陽光線が充分に地表に届くようになると、今までそこに隠れていた陽性植物が一気に、そしていっせいに姿を現わすのである。そして、たとえばそこにヤマツツジ亜群集というものが成立し、ツツジ山には年々美しい花が咲いて人の目を楽しませてくれた。ネジキ変群集もまた、同様な環境条件下に成立した植物群落なのであった。
 

写真8 アカマツ林とヤマツツジ(山梨県山梨市石森山)
  西日本に多く見られる「ヤマツツジ-アカマツ群集」も、これに類する植物群落であって[同:p.101]、樹冠の枝葉がまばらなアカマツ林は、林内に充分な太陽光線が差し込むので、林床には陽性植物がよく成育し、ヤマツツジも生き続けていける。アカマツとヤマツツジはよく共存できるのであって、東日本でもアカマツ林をよく管理して天然のヤマツツジの花の名所となった例が、あちこちに見られる。参考までに山梨県山梨市の石森山の例を、写真で示しておこう。アカマツは尾根筋や露岩地などの痩せ地によく生育するので、そういう所にはアカマツ林が形成されるが、この山梨市の石森山もまさに花崗岩の露岩地であり、アカマツ以外の樹があまり生えず、ゆえにアカマツとヤマツツジとの理想的な組み合わせが確保されてきたのである。狭山丘陵の六道山にもまた、かつてはアカマツが多く見られ、ヤマツツジの生育条件を豊かに満たしていた。里山林内に生えるアカマツは、建築用材として利用価値が高かったので、伐採をのがれて残存することがよく見られた。日当たりの良い尾根筋の里山林を好むネジキ変群集もまた、そうした条件下で生き続けていくことができたであろう。とはいえ狭山丘陵の里山林・雑木林の、その後の時代の放置状況は、かつてのそうした植生上の基礎条件を完全に一掃してしまった。1950年代以降、里山林の管理がなされなくなった結果、大木となってしまったクヌギやコナラの樹冠は森林の天井を厚く覆い、太陽光線は林床にあまり差し込まなくなる。繁り過ぎた低木類はさらに日照を奪い、旺盛に復活する常緑樹・照葉樹はネジキやヤマツツジのようなナイーブな落葉低木を、どんどん駆逐していく。びっしりと地表を覆う笹ヤブは、それらの復活・再生の機会を半永久的に奪い続ける。荒れ果てた放ったらかし状態の里山林の中に、豊かな生物多様性などを期待することは到底できない。里山林の健康的な再生をめざすということはすなわち、ネジキやヤマツツジの生きていけるような森林を作り育てるということであり、それとともにあった豊かな民俗を見直していくことにも、それはつながる。美しいアカンボウの樹のマユダマ飾り、ヤマツツジの咲き乱れる花見山の再来の日の来ることを、私は心から願ってやまない。
文 献
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