西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 15  2013年1月号
長沢 利明
元三大師とダルマ市・おみくじ
 web上で表現できない文字は?となっております
 元三大師(がんざんだいし)すなわち慈恵大師良源という僧侶は(図4)、つくづく不可思議な人物だ。比叡山延暦寺の中興の祖で第18代天台座主という高い地位にあったにもかかわらず、没後は広く庶民大衆に敬慕されて崇められ、きわめて民衆に身近な存在としての民間信仰の対象となった。これは真言宗でいうところの、弘法大師空海の存在にも似ている。天台宗の法系では一般に「三聖二師」ということがよくいわれ、尊崇されるべき5人の高僧の名があげられてきたが、そこでいう三聖とは伝教大師最澄・慈覚大師円仁・智証大師円珍のこと、二師とは五大院安然・慈覚大師良源のことを指す。ところが不思議なことに、これらを祀って建立された特別な寺堂の中で一番多く、もっともあつく信心されてきたのは慈恵大師良源、すなわち元三大師なのだった[西村,1984:p.69]。比叡山(叡山学院)の調査によれば、天台宗系の寺院で何らかの形で元三大師を祀る寺は全国で298ヶ所を数え(木像が214ヶ所、御影画像が112ヶ所あり、双方を祀る重複例も含む)、それを本尊とする寺は26ヶ所もあり、それを祀るための堂を持つ寺は98ヶ所にものぼる[叡山学院(編),1984:p.302]。元三大師良源の人気は、宗祖をもしのぐものがあった。


図4 元三大師御影
  それほど大きな存在なのであったから、元三大師信仰は民俗面にも多大な影響を残しており、その端的なシンボルといえるのが、角大師・豆大師札を用いての魔除け信仰習俗ということになろう(図5)。
 

図5 戸口に貼られた角大師札(『古今青楼咄の絵有多』より
  これについてはすでに触れたので[長沢,2012]、それ以外のものについて、ここでは取り上げてみる。思いつくままにあげてみるならば、たとえば葬送墓制面などにも、元三大師信仰の大きな影響力を、私たちは見い出しておくことができる。それはすなわち、死者の埋葬地に石造卒塔婆を建てる習俗の発生に関わる問題で、わかりやすく言ってしまえば、この良源という人は拝礼対象としての石造墓標を葬地に建て、そのような形をとっての死者供養を初めて本格的におこなった(そう遺言して実行させた)、最初の人物だったといわれている。もちろん、それ以前の時代にも墓碑というものの建立された記録はあり、『日本書紀』の721年(養老5年)の記述に、陵墓には「常葉の樹を植えよ、即ち刻字の碑を立てよ」との元明天皇の命の下された旨のことがみられるけれども、そうしたものは実際には現存していない。平安初期の『栄華物語』には山城国木幡山にあった藤原氏累代の葬地について、「ただ標ばかりの石の卒塔婆一本ばかり立てれば、又参り寄る人なし」とあり、石造墓碑は建てても墓参という習慣そのものが当時なかったので、それは墓印ではあっても、厳密な意味で供養塔とはいえないし、もちろんそれも現存しない。
そのような中で良源は、自分の葬られる墓所に石造卒塔婆を立てて礼拝せよと言い残して没し、供養・礼拝対象としての墓碑そして墓所というものを初めて確立したのだった[田中,1975:pp.79-114]。彼の遺言である「慈惠大師遺告状」は京都府京都市の蘆山寺に今も残されていて、国宝に指定されているけれども、以下に一部を引用してみよう。
石?都婆は生前に運び作さんと欲す。若し未だ運ばざるの前に命終せば、且らく假?都婆を立て、其の下を掘り空除三四尺許にして、骨を穴の底の上に置いて土を滿つ可し。四十九日の内に石?都婆を作り、之を立て替ふ可し。是れ遺弟等時々來り禮するの標示なり。?都婆の中には、随求大佛頂尊勝光明五字阿彌陀等の眞言を安置せん。生前に書き儲けむと欲すれども、若し未だ書かずして入滅せば、良照、道朝、慶有等の同法之を書す可し[飛鳥井,1984:p.47]。
良源はこれをしたためた13年後の985年(寛和元年)1月3日に入滅し、門弟たちは遺言通り比叡山横川の華芳峰に廟墓を設け、多面石幢という特異な石造卒塔婆がそこに建立されたのだった。そして良源を師と仰いだ源信が後に『往生要集』を著し、空也上人・慶滋保胤らとともに浄土教をおこして、阿弥陀信仰と死者供養とをひろめていくことを通じ、石造卒塔婆の礼拝ということがさかんになされるようになって、墓参習俗というものが広く定着していくこととなった[田中,1975:pp.113-114]。今日、私たちが普通におこなっている墓参りというもの、そして拝むための墓石を建てることの起源は、元三大師から始まったということになるのだ。
 そして元三大師の御影そのものも、強力な霊験を発する神仏のような対象として、あつく崇拝されるようにもなっていき、独特な信仰がそこに生み出されていった。たとえば大師が儀礼の場で拝礼される場合、その崇拝対象は木像であることが多いが、御影画像が用いられる例も決して少なくはない。叡山学院による先の調査結果でも、木像214ヶ所に対して御影112ヶ所となっており、全体の3分の1は御影像なのだ。元三大師の御影画像は、それほど多く描かれてきた。御影とは要するに掛軸であるから、よりポータブルなもので、簡便な拝礼手段を提供し、いかにも庶民信仰的で、太子講における聖徳太子や、庚申講における青面金剛の画像軸に通じるものがあろう。そして、特に元三大師の御影軸の霊験には絶大なるものがあると、古くから信じられてきたのであって、その霊的パワーの絶大性をもっともよく知っていたのは、天台宗のフィクサー僧として著名な、江戸の東叡山寛永寺の天海僧上だ。時の政治権力にたくみに取り入りながら、教線の拡大に成功してきた天海の政治力は誰もが知るところで、天海こそは日本のラスプーチンと呼ぶにふさわしく、元三大師の御影軸は、彼の権謀術策にも利用された。この話は前にも少し書いたが[長沢,2012]、もう少しくわしく取り上げてみよう。
比叡山首楞厳院に祀られてきた元三大師の御影軸は、中でもとりわけ権威があり、おそらくもっとも古く由緒正しきもので、1571年(元亀2年)の織田信長による比叡山焼き討ちの際にも、かろうじて山外に持ち出されて難をまぬがれ、流転の末に伊勢の津の西来寺(後の天台真盛宗中本山)に落ちついて、同寺の元三大師堂の本尊に納まり、多くの庶民信仰を集めることとなった。天海はこれに目をつけ、それを江戸の寛永寺へ奉納せよと再三せまったのだが、西来寺はそれを断り続けた。三代将軍家光の若君の出産時、その安産祈?のためにということを口実として天海は、今度は伊勢の藩主藤堂高次を介して西来寺に圧力をかけ、無理やり御影を借り出すことに成功する。さすがに藩主の命とあらば西来寺も逆らえず、しぶしぶそれを差し出すこととなった。御影は江戸の寛永寺へと移され、将軍家の安産祈?がなされた結果、1641年(寛永18年)、若君は無事に生まれ(後の4代将軍家綱となる)、天海は仲介役の藩主藤堂高次に礼状を送っているが、今もそれが残されている。参考までに引用してみよう。
尚々元三大師之儀、別而忝候。西来寺之儀者、以拝面可申謝候以上。一筆令啓候、先以湯相当之様承、珍重存候。然者内々申入候。元三大師自西来寺御取寄送給候事、誠以忝存候。七十二年歟に而御帰候て、殊更昨日者若公様御機嫌能御湯めさせられ、為御祝儀御樽なと被下、悦申節、大師御座被成、一入満足之節(旨カ)、中根壹岐守へ申入候、可有立御耳候。来正月?之御祈?にかけ可申候。定而近日可有御帰候間、以拝面可申伸候。恐惶謹言。
極月廿二日                         大僧正(花押)
藤堂大学頭殿[西村,1984:p.72]
西来寺はその後、若君が無事に生まれたのだから御影を返すよう再三申し入れるが、天海はのらりくらりとそれをかわし、実に60年もの間、それをうやむやにし続けた。ようやくにして1697年(元禄10年)、藤堂家の調停によって事態は決着をみ、天海側は御影の精密な模写図を作って西来寺へ納めるということで双方が合意し、1815年(文化12年)には金200両が西来寺へと奉納されて、170年余にわたる係争が終結するに至った[西村,1984:pp.69-80]。件の御影図は今も東京上野の両大師堂にあって、天海は結局、西来寺へ御影を返さなかったというわけなのだ。
何ともひどい話ではあるけれども、元三大師の御影軸というものがいかに価値あるものとされ、いかに重要視されていたかを知ることができよう。木像などよりもずっと強力なパワーが、そこに秘められていたと信じられていたためではなかったろうか。西来寺由来の御影軸と、それをめぐる天海の執着のエピソードは、ことさらにそれを強調する結果となったかも知れない。大師の御影はその後も、比叡山から全国各地へと分祀されていったようで、それをめぐるさまざまな伝承も多く語り伝えられている。たとえば、その聖なる御影は出羽三山へももたらされたといい、はるばる東北の地へも御影信仰が移植されていく。羽黒山正穏院の大先達宥然和尚が、比叡山横川の元三大師堂から、後水尾天皇の宸筆という幅6尺・長さ1丈もの巨大な大師の画像を譲り受け、羽黒山に元三大師堂を建立して安置したとの話も伝えられている。宥然が比叡山からそれを持ち帰る際、上州の碓氷峠で伴としたのが碓井姓一族で、そのまま羽黒山の手向村に住みついて土着し、無量坊の祖となって、元三大師堂の堂番をつとめることとなった。しかし明治維新後、堂は大敗して再建されることなく、御影も失われたという[戸川,1976:p.207]。
元三大師の御影をめぐる因縁話は、ほかにもいろいろある。栃木県足利市寺岡の薬師寺に祀られていた御影の場合は、比叡山ではなく江戸の両大師から勧請されたものだった。江戸時代の中頃、当地の亀田庄右衛門という人が江戸に出て困窮していた際、両大師輪王寺の5世崇法宮一品公寛親王(准三宮公寛親王)に拾われて同寺に仕え、3年後に親王から元三大師の御影軸を譲り受けて故郷へ帰り、1719年(享保4年)に薬師寺へそれを奉納したと伝えられている。正月3日の元三会は大変なにぎわいを見せるようになり、近代期には数万人の参詣客でにぎわって、臨時列車やトテ馬車で参詣客を運んだそうだ。昭和初期には参道に露店が立ち並び、見世物小屋やサーカスまで出たというが、寺が無住となった今は見るかげもない。薬師寺の御影軸は本寺である佐野市の春日岡山惣宗寺へも出開帳され、今ではそちらの正月3日の祭りの方が盛況になされている[台,1978:pp.129-134]。御影軸とともに各地へ伝えられた元三大師信仰は、元三会の盛況な祭りを生み出し、それがダルマ市へと発展して盛況な祭礼行事となっていったという展開過程が、ここには典型的に現れている。
 すなわち、元三大師信仰の生み出したもうひとつの重要な民俗は、まさにこの正月3日のダルマ市というものなのだった。言うまでもなく、ダルマ市の母体となった仏教行事は元三会(がんざんえ)なのであって、それは慈恵大師良源の命日であるこの日になされた正忌日法要で、元三大師忌とも呼ばれる。民間行事としても、たとえば東京都目黒区の目黒不動尊(瀧泉寺・元三大師も祀られている)の信徒家などでは1月3日を「元三様の日」などといい、小豆粥を作って食べる日とされていた。『叡岳要記』によると、元三会の起こりは良源の住房であった比叡山横川の定心房(後の元三大師堂、現在の四季講堂)での四季論講の法会にあり、良源像がそこに安置された後はその報恩のために法華八講がなされるようになって、これを元三八講と呼ぶようになった。さらに5年に一度、「大法元三会(元三大法会)」が勅会として行われるようになり、例年のそれは准勅会とされて勅使が参向するならわしであった[藤井(編),1977:p.61]。法会は正月3日の曉天に法華経第5巻の講座が厳修され、『諸国年中行事』にも「寅のこくに三夜のおこなひあり。諸人群集す」とある。比叡山横川で始まった元三会はやがて全国に広まり、関東地方の主要寺院ではそれがダルマ市になっていったのだが、一体なぜ元三会に福ダルマを売る市が立ったのか、元三大師と達磨大師とはどういう関係にあるのか、ということはまったくわからい。ダルマ市の発祥の地とされているのは群馬県高崎市の少林山達磨寺だが、同寺は黄檗宗の寺院なので、慈恵大師良源とは何の関係もない。元三会とは無関係なので、少林山のダルマ市は正月7日に行われることになっている。その市は豊蚕祈願の縁起物として繭型の張子ダルマが売られたことから始まったともいい[長沢,1998:pp.40-48]、そうした信仰習俗が関東各地の養蚕地帯に伝えられ、年頭の元三会と結びついていったということなのかも知れない。
ダルマ市といえばまさに、新春のおとずれを告げる風物詩といった観があり、天台宗系の寺院を中心に各地で盛大に行われているけれども、たとえば埼玉県川越市の喜多院の初大師ダルマ市などは、元祖少林山のそれに匹敵するほどの大規模な祭りとなっている。何しろ寺の周辺地区が全面的に自動車の通行止めとなり、中心市街地全域にきびしい交通規制が敷かれるほどの人混みで、境内には関東各地から集まったダルマ商が立ち並び、縁起物の福ダルマを売る。参詣客で終日ごった返す寺の本堂を慈恵堂と呼び、その本尊はもちろん慈恵大師すなわち元三大師だ。喜多院の慈恵堂はおそらく、元三大師を祀る全国最大の寺堂だろう。当然この日にはそこで元三会が行われ、新年最初の大師の縁日なので、「初大師」とも呼ばれている。初大師の大師を、川崎大師とか西新井大師とかからの連想で、弘法大師のことだと思っている参詣客も多いそうだが、近世初期に天台宗関東総本山を名乗った川越喜多院に、空海が祀られる縁もゆかりもありえない。


写真18 深大寺のダルマ市(東京都調布市) 
  東京都内のダルマ市もまたなかなか盛況で、まずあげられるのは調布市の深大寺のそれだろう(写真18)。どういうわけか深大寺のダルマ市は、3月3〜4日に行われるのが古くからのならわしで、東京都内でもっとも遅い、最後のダルマ市といわれている。もともと正月3日と決められていた元三会の日取りを、地元農家の農閑期の都合に合わせつつ、陽気のよい3月にずらせたのではないかと言われているが、正確なことはわからない。しかし全国的に見てみると、月遅れの2月3日とか、春の4月3日とかに元三会を行う寺はほかにもいくつかあって、深大寺だけが特殊というわけでもない。ダルマ商にとっては各地のダルマ市と日が重なることなく、商いの場が増えて、しかも1月中に一通りの市が各地で済んだ後にもう一度、最後の商売の機会が与えられていたのだから、これほどありがたいことはなかったろう。もしかすると門前への集客を増大させるための、ダルマ商と寺側との利害が一致した結果、3月のダルマ市が生み出されてきたのかも知れない。寺の境内には約120軒のダルマ屋、山門の外には約200軒もの露天商が立ち並ぶ。もちろん元三大師堂では元三会が盛大に挙行されるが、護摩供・陀羅尼祈?・加持、声明や雅楽の奏上そして福ダルマの修祓などが行われ、今ではこれを「厄除元三大師祭」と呼んでいる。祭りのクライマックスは、百味講による御練行列で、裃・袴姿に身を固めた百人の信徒が、百種類の供物を持って盛大に行列し、本尊元三大師にそれを捧げる[長沢,2007:pp.1-11]。深大寺の元三会はこのように、単にダルマ市が立つだけではなく、元三大師への報恩感謝祭としてのテーマが貫かれていて、行事の本来の姿をよく伝えている。なお元三会のダルマ市として、東京都内でもうひとつよく知られているのが、昭島市の拝島大師(本覚院)のそれだ。こちらは正月2〜3日に行われ、大師の命日忌そのままの日取りであった。「初縁日」ともいい、全国一早いダルマ市とも言われている。出店するダルマ商は約60軒、それ以外の露天商は700軒にも達する。参詣客は福ダルマだけでなく、角大師の姿の刷られた縁起物の団扇を受けてくることにもなっていて、それを家々の玄関口などに飾って魔除けとする風があり、これは拝島大師独特の信仰習俗でもあった[長沢,2006a:pp.1-8]。


写真19 拝島大師のダルマ市(東京都昭島市)
 さて、元三大師信仰の生み出した産物として重要な民俗を、さらにもうひとつあげておくとしたならば、それはやはり御籤(みくじ)ということに尽きることだろう。寺社参拝の折、御籤を引いて自分の運勢を占うことは今でも非常にさかんで、占いの結果に一喜一憂するのは誰しもが日頃、経験していることだ。その御籤の紙片の上の方に、挿絵とともに印刷されている、あの五言絶句の漢詩言葉は、何と元三大師の詠んだものといわれていることを知る人は少ない。いわゆる「元三大師御籤(観音籤ともいう)」というものがそれで、慈恵大師良源は御籤の創始者、おみくじの神様ともされてきたのだった。それが史実であったか否かは別にして、元三大師と御籤との関わりには深いものがあり、大師ゆかりの比叡山横川は御籤発祥の地ともされ、横川の本家御籤はもっとも格式の高いもので、よく当るといわれてきた。横川の元三大師神籤は、中国の天竺寺から伝わった百枚の神籤に解説をつけ、一般に授与されるようになったものともいい、日本の神籤の始まりとなったとも言われている。中国渡来のその神籤は「天竺霊籤(てんじくれいせん)」といい、近世にはそれが元三大師神籤と呼ばれるようになった。百枚の籤に記された百編の漢詩も、実は良源の詠んだものではなかったことになる。横川の四季講堂では今でも、参詣者が僧侶に経をあげてもらい、しかるのちに御籤を引いて運勢を占うことが毎日なされている。
その一方で江戸時代の始め頃、天海僧正の夢枕に元三大師が現れ、信州戸隠山明神に「觀音百籤」というものがあるので、それで吉凶禍福を占うべしとお告げがあったといい、天海がさっそく使者を戸隠へと送って調べさせたところ、神殿の裏の土中から百枚の籤が発見された、などという話も伝えられ[粕渕,2008:p.6155]、天海と良源とはつくづく深い因縁で結ばれている。なお戸隠神社の神籤は大変有名で、各地の講中から派遣されてきた代参は、神札とともに神籤を受け取って帰り、それを家々に配るならわしとなっていた。神札の奉紙包みには「戸隠神社御神札並御籤文」と刷られており、神社側から神籤を用意して1軒ずつに配ったという例はおもしろいが、戸隠の神籤はよく当るともいわれてきた[長沢,2006b:pp.1873-1875]。また、戸隠の山中で掘り出されたという元三大師の神籤は百枚あったとの伝承からもわかるように、「元三大師版」神籤は100枚で1セットの、百番構成となっており、もっとも番数が多い。神籤にはそのほかにもいろいろな版があって、天神系の神社では二十五番構成というのが見られるし[吉田,2008:p.13]、二十番、三十番、三十二番、五十番構成というのもある[長沢,2011:p.133]。寺社への参詣人が籤棒を引き、そこに記された番号と吉凶から運勢を判断する方式は近世期に始まるものとされるが、「元三大師版」の場合、籤棒100本中の70本が吉(うち大吉16本・吉35本・半吉12本・小吉1本・末吉6本)、30本が凶となっていた。知識人によく利用され、新井白石などは娘の縁談の可否をそれで決めたという。
そもそも神籤というものは中国で始まり、12〜13世紀の南宋で生まれたものが室町時代の日本に伝来したといわれている。当時は僧侶や神職が100本の籤棒の入った箱を振り、出て来た棒に書かれた漢詩を読み解いて運勢を占い、主として東国の武士が迷いごとや願いごとの相談に用いたという。今の中国にも、引いた番号の紙を渡す形式の神籤があるそうだが、内容の解釈が難しいので、金銭を払って僧侶などに解説してもらうことになっているそうだ[大野,2004・龍野,2013]。元三大師版の神籤を見ても、漢詩の部分はきわめて難解で、一般人にはとてもその内容が理解できない。そこで明治期以降は、日本風に和歌がそこに添えられるようにもなった。たとえば元三大師版の第五十八番(吉)を例に取ると、まず漢詩部分はこうなっている。
有經江海隔(みちにかうかいのへだてあり)
車行峻嶺危(しゃかうしゅんれいあやうし)
亦防多進退(またおほくしんたいをふさぐ)
猶恐小人虧(なほせうじんのかくることをおそる)
何となく言いたいことがわかるような気はするけれども、はっきりとは伝わってこない。そこで次のような和歌が添えられることとなる。
海やまのへだてわが身に多くして こころのままに往かれぬぞ憂き
なるほどこれは見事なまでに、大和言葉と大和心とに置き換えられた翻訳歌だ。これでもまだわかないという人のために、次のような大意解説文も用意されるようになっていった。
義理と人情にからまれて往く事も引くことも出ぬ災難あり、正直にしてよし
しかしながら多くの人々の知りたいところは、自分の金銭運や勝負運などの具体的な分野別運勢だ。そこで先の漢詩から引き出された、実にこまごまとした運勢を最後に列挙して示すというサービスが最後になされてこそ、籤を引いた者が自分で自身の運勢を知ることができ、神籤というものが完成される。その最終的で具体的な解説文の一例を示してみよう。
●此の人はよろづ苦ろう多くして心ぱい絶え間なし、何事も堪忍つよくつゝしむでよし、観音を念じてよし●悦びごとなし●病人本ぷくす、待人来ることおそし●失せ物出がたし●売買悪し●生死は十に八九生きる●あらそひごとつゝしめ●職は何事も新にあらたむるによろしからず●ゑんだん、家うつり、ふしん、其の外いそいでよろしからず●望事大きく持つべからず、少さき事よりしだいしだいに、大きなことにむかうてよろし●たび立急いでよし●子に縁うすし、但し子は出世す
このように現在の神籤は、基本的に@漢詩→A和歌→B大意解説文→C具体的・分野別解説文の4段構成になっているのであって、それ自体が神籤の発達史を物語っている。つまり神籤とは要するに@の中国の漢詩の解釈から始まり、それが時代のニーズにもとづきながらどんどん具体化していって、ついにそのカバー領域が日常生活上の諸分野・諸事項にまで拡大され、Cが重要視されるようになっていった。私の印象としては、寺院では@BC型もしくは@ABC型が多く、神社ではABC型が多いという気もするのだが、多くの人々は結局、Cしか読まないし、それ以外はあまり重要でなく関心もないことだろう。いまや@とAはほとんど添え物扱いで、一応は載っているがほとんど誰にも読まれず、ついには省略されてしまっているものも多い。若者向けの現代的な神籤では@〜Bが完全にカットされ、Cだけが書かれていて、それで充分なのだ。
ところで、「元三大師版」神籤にはさまざまな解説本があって、近世以来さかんにそれが出版されてきた。隠れたベストセラーといってもよいことだろう[吉元,2005:p.528]。天和年間刊行と伝えられる『元三大師百籤解』はもっとも古いものだが、正徳年間刊行の『元三大師百籤抄』もよく知られていて、百番の御鬮の内容が図入りでくわしく解説されている。これらは江戸時代に何度も再版されているが、明治・大正・昭和期に至っても、それらを継承した解説本が繰り返し出版されてきた。もっとも新しいものといえば、1983年(昭和58年)版『元三大師百籤和解』をあげることができるだろう。こころみに小泉晶園という人が編集し、大阪の四天王寺から1967年(昭和42年)に出版された『みくじ判断』という解説本から、第一番の内容を以下に引用してみることにしよう。
七宝浮図塔(金銀宝石で作られた立派な宝塔が)
高峯頂上安(高い山の山頂に建っていて、それはあなたの絶好な運勢そのものだ)
衆人皆仰望(その素晴らしい威容を人々は尊崇するけれども)
莫作等閑看(あなたは決して、それに慢心していてはならない)
希望:叶う。叶うて後逃す、おそれあれば注意して、逃げないよう心がけることが大切である。
金運:強し。ジャンジャン入る。然し図にのると元も子もなくした上に逆に借金が出来る。おそれあれば、よくよく注意すること。
職業運:順調なり。うぬぼれてはならない。この時こそ慎重と自重を望む。
待人:来る。
勝負:逆転のおそれあれば手控えるがよい。
家庭運:まことによし。
性格:尊敬と信頼の出来る人である。人によっては底抜けのお人好しの場合がある。
夫婦愛情:きわめてよし。場合によっては飽和状態であって何か物足りなさを感じることあり。注意せよ。
相手の思惑:初めよく、後には立ち消えするおそれあれば注意すること。人によっては、いたって頼りない人あり。
愛情:最高なり。申し分なし。然し注意しないと逃がすおそれあればよくよく注意して手堅くまとめてしまうべきである[小泉,1967:pp.10-11]。
「金運強し、ジャンジャン入る」などというのは最高の運勢だろうし、私たちもこういう御籤をぜひ、引き当ててみたいものだ。なお『元三大師百籤抄』には、御籤を引くための籤竹やそれを納める籤箱の大きさまで記されており、前者は長さ六寸六分・幅三分・厚さ五厘、後者は縦横四寸・高さ一尺と定められている。籤箱は今でも寺社のみくじ売場に置かれていて、参拝者は箱をよく振り、穴の中から籤竹を出して一本引くことになっている。参拝者がどの籤竹を引くかは、まったくの偶然性にまかせねばならず、いっさいの恣意的な選択が排除されていなければならない。そのランダム性こそが神の意思なのだ。籤箱を用いずに籤をシャッフルするやり方もあって、たとえば石川県羽咋市寺家町の気多大社でおこなわれる年末行事、「みくじ合わせ」の場合、20人もの巫女たちの手で、50番・20万枚ものおみくじが拝殿内に景気よく放り上げてまき散らされ、偏りのないようによく混ぜ合わせることになっており、その御籤が初詣客らに授与される[読売新聞社(編),2009]。
さて慈恵大師良源という人物はそもそも、生まれてきたその時からスーパースターとして語られてきた超人であった。彼の母親の懐中に日輪が入ってきて懐妊し、生まれたのが良源で、その出生とともに日輪が懐中から飛び出して煌々と光り輝いたと『元三大師絵伝』などに説かれている。法力によって円融天皇の病気を治し、大僧正に任じられた話もよく知られている。『今昔物語』・『宇治拾遺物語』・『古今著聞集』・『古事談』などにも、良源のエピソードがさまざまに触れられているが、空中に投げられた豆を箸でつかみ取って見せたとか、襲いかかる震旦の天狗の腰骨を折って撃退したとか、死後は生まれ変わって平清盛になったとか、実は八大竜王の化身だったとか、いろいろに語られてきた。良源はまさに奇跡の人だったのであり、その強力な霊験のパワーにあやかろうとして、元三大師信仰が生み出されてきたのだということはいうまでもない。庶民信仰の世界では、角大師・豆大師にもなり、おみくじの神様にまでなっていった。最後に、元三大師の和讃の一節を取り上げて終りにしよう。大師を讃え、その一代記を詠み込んだ「慈恵大師和讃」にはいろいろなものがあるが[大島,1984:pp.257-272]、証真作とされる152節もの長文のそれから、角大師・豆大師の由来の部分と、正月3日の入滅の部分とをここに引いて、しめくくりとする。
(前略)明星水に臨みては、六觀音とぞ現はれり、夜叉の形ちを現じては、行疫鬼神を避くるとぞ、三十三身影を分け、五穀豊饒を護るなり。(中略)頃は永觀三年の、正月初めの三の日に、生年七十四歳にて、所作功徳を廻らして、安養淨土へ行くと宣べ、三摩地に住し化を示す、其の時紫雲の降りては、遠き高ねにたなびきて、異香薫りて室に滿ち、瑞相備さに陳がたし…[叡山学院(編),1984:pp.21-22]。

引用文献
飛鳥井舜達,1984「慈惠大師御遺告について」『一千年遠忌記念元三慈恵大師の研究』,同朋舎出版.
叡山学院(編),1984『一千年遠忌記念元三慈恵大師の研究』,同朋舎出版.
藤井正雄(編),1977『仏教儀礼辞典』,東京堂.
粕淵宏昭,2008「お神籤について」『民俗文化』535号,滋賀民俗学会.
小泉晶園,1967『みくじ判断』,四天王寺.
長沢利明,1998「少林山の年中行事」『群馬歴史民俗』No.18,群馬歴史民俗研究会.
長沢利明,2006a「江戸東京歳時記をあるく(40)―拝島大師のダルマ市―」『柏書房ホームページ』2006年1月号,柏書房.
長沢利明,2006b「山梨市八幡地区市川・堀之内の信仰民俗(\)」『アゼリア通信』157,長沢事務所.
長沢利明,2007「江戸東京歳時記をあるく(54)―深大寺のダルマ市―」『柏書房ホームページ』2007年3月号,柏書房.
長沢利明,2011「おみくじ」『歴史読本』Vol.56-2,新人物往来社.
長沢利明,2012「民俗学の散歩道(14)―角大師と豆大師―」『西郊民俗談話会ホームページ』2012年12月号,西郊民俗談話会.
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大島亮高,1984「慈惠大師和讃の成立に関する一考察」『一千年遠忌記念元三慈恵大師の研究』,同朋舎出版.
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台 一雄,1978『続々・足利の伝説』,岩下書店.
読売新聞社(編),2009「おあしす」『読売新聞』12月6日号朝刊全国版,読売新聞社.
吉田満穂,2008「お神籤は『人の世』映す」『読売新聞』2月19日号朝刊版,読売新聞社.
吉元昭治,2005『日本神話伝説伝承地紀行』,勉誠出版株式会社.
 
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