西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 16  2013年2月号
長沢 利明
鏡石・鏡岩の伝承
 web上で表現できない文字は?となっております
 奇岩・霊石というものが各地にいろいろあって、時には崇拝の対象となっている。たとえば男根石・女陰石というものがあって、男性器・女性器によく似た岩や石が崇拝され、性神としてあがめられる例がよくある。要石(かなめいし)といって、地下深くにまで根を張り、容易には掘り出せないような石もよくあって、掘り出そうとするとさわりがあるとされるが、鹿島信仰と結びついた例が多い[長沢,2010:pp.1-5]。夜泣き石・うなり石・子宝石・姥石・立石の類も各地にたくさんあり、それぞれにさまざまな伝説が語り伝えられてきた。そうした霊石のひとつとして、「鏡石(かがみいし)」もしくは「鏡岩」と呼ばれるものも時折は目にするので、これについて少し触れてみることにしよう。
 鏡石・鏡岩とは要するに、岩や石の表面が磨かれたようにツルツルになっていて、人の顔をそこに映すことができるほどであり、あたかも鏡のような石なので、そう呼ばれている。概して山中などにある巨岩であることが多い。そのような言い方をすると、川の流れや海岸の波に削られて表面が滑らかになったような石のことなのだろうと、誰でも思うに違いない。けれども、その程度のツルツル石は、川沿いや磯浜に行けばいくらでも見られるのであるし、ことさらに珍重される理由がない。真に鏡石・鏡岩と呼ばれるべき石は、そのレベルではないのであって、もっともっとツルツル・テカテカなのだ。人の顔を映すことができるほど、というのは決して誇張ではなく、本当に映せるのであって、人間がグラインダーを用いて研磨をしなければ、とてもここまでツルツルになるわけはないと、感じさせるほどツルツルでなければ、鏡石・鏡岩とは呼べない。まさに奇岩・霊石なのであって、滅多にあるものではない。しかし、自然界には本当にそういう石がある。
 この私の体験をひとつ話そう。私は若い頃から登山をやっていて、今でもよく山に行くが、大学1年の時に同学年の師匠に付いて本格的なロッククライミングを初めてやらされたことがある。場所は西多摩の天狗岩という岩壁で、初心者であったこの私に、わが師匠はAV級という最高難易度の人工登攀をいきなりやらせたのだから、今思えば大変無謀な話だ。垂直の岩壁に打ち込まれたハーケンやボルトにカラビナを引っ掛け、ザイルを通して腰の安全ベルトに固定し、カラビナに鐙(あぶみ)をぶら下げ、必死の思いでよじ登っていく。やがて垂直の岩壁はどんどんせり出してきて、ついにはオーバーハングとなり、宙吊り状態になって私はもがく。ようやくそこを脱して、岩壁のてっぺんにまで這い上がり、最後のスタンスを取るべく岩壁の出っ張りに右足を乗せて踏みしめたその時、その右足の足裏がつるんと滑った。その瞬間、自分の短い人生はそこで終ったのだと私は感じた。私はそのまま50m下の谷底に転落し、全身を強く打って即死するにちがいないと思ったのだが、極限にまで追い詰められた人間は、火事場の馬鹿力を発揮するものだ。両手十本の指を目一杯に広げ、今右足が滑った岩の出っ張り部分をつかんでぶら下がり、何とか確保を取って難を逃れた。その時、自分のしがみついている岩をよく見ると、斜めにスパッと切れ落ちた岩の表面がテカテカに磨かれて鏡のようになっており、何と自分の顔がはっきりとそこに映っているではないか。これでは足が滑るはずだ。それほどツルツルな岩なのだ。こんなものを今まで私は、一度も見たことがなかった。岩質は赤褐色をしたチャート(珪岩)で、緻密で硬い岩だった。
 岩壁を登り終えた後も、しばらくは激しい心臓の鼓動がおさまらなかったが、先ほどのツルツル岩のことがまた思い出された。あれが世にいう鏡石というものだったのか、何であんな所にそれがあるのだろう、一体どうしてあのような岩ができたのだろう、といろいろ考えてみたけれどもわからない。まるで人間が加工したかのような岩が、自然の力によっても生み出されることがあるのだ、ということについては、少なくとも納得することはできた。後日、地形学・地質学専攻の同僚にたずねてみたところ、地殻変動による岩盤のずれ、特に逆断層によって岩体が二つに割れた境界面のずれが、互いに互いを削って研磨し合い、正確な平坦面と鏡のようなツルツル面を作ることがあるとのことだった。そうした断層面には、断層粘土と呼ばれるきわめて粒子の細かい粘土が生み出され、それが砥粉(とのこ)のような役割を果たして、さらに断層面を滑らかに磨き上げる結果になるとも聞いた。私の登った西多摩の天狗岩も、気の遠くなるような大昔に大地震などで断層が生じ、岩体が割れて滑って磨かれ、その後の地殻変動で岩盤全体が隆起し、河川の浸食によって岩体が削られて断層面が地表に露出するようになり、そこへ私が足を置いて滑って九死に一生を得た、ということなのだろう。しかし、このツルツル石は何せ、大岩壁の真ん中にあって、ロッククライミングの技術のある者しか見ることができない。人の目に触れる所になかったので、誰もそれを鏡石とは呼ばなかったのだ。
 鏡石・鏡岩とはそのように、地殻変動の力によって生み出されたもので、それ以外の営力によって作り出されたものだとは、とても考えられない。人の顔を映すほどの滑らかな岩石の表面は、いくら水や風の力で磨かれても、できるわけがない。また、通常の花崗岩や安山岩、砂岩や粘板岩などの類では結晶の粒子が粗く、いくら研磨されても鏡のごとくにはなりにくい。私が見たのと同じように、チャートのような緻密で硬質の岩質でなければ、鏡石にはなれなかったのだろう。地震国日本の地下にはおそらく、たくさんの鏡石が眠っている。ごく稀にそれが地表面に露出して人の目にとまった時、人がそれを神の手業によって生じたものと考えたのはごく自然なことで、崇拝対象となるに充分過ぎるほどの条件がそこに満たされている。
 いくつか実例をあげてみよう。滋賀県坂田郡山東町朝日にある鏡岩は高さ三m以上もある巨岩で、岩の表面は白っぽく風化しているが、かつては鏡のように滑らかに磨かれていて、人の顔を映したという。昔、ここを通る女性たちは、この岩に自分の姿を映し、髪を結い直して化粧をし、容姿を整えてから目的地へ向かったそうだ。この岩のおかげでうまく化粧ができ、幸せな結婚のできた女性がたくさんいたとも伝えられる。夜でもロウソクの灯りで顔を照らせば、よく映ったというから、よほどテカテカ・ツルツルな岩だったのだろう。ところがある時、盗賊の女房がこの岩に顔を映して髪を結い直したところ、忽然と岩の表面がくもってしまい、それ以来、あまりよく映らなくなってしまって、今に至っているとも伝えられている[粕渕,2002:p.5372]。滋賀県内にはほかに、坂田郡近江町の岩脇山や顔戸山の山中にも鏡岩があるとのことだ。なお、自らの姿を鏡岩に映して化粧をしたとの伝承は他所でもよく聞かれ、三重県鈴鹿郡関町坂下の鈴鹿峠にある鏡岩は、鬼女立烏帽子が化粧に用いたと伝えられる[渡辺(編),1984:p.147]。先の滋賀県近江町の鏡岩も、琵琶湖竹生島の弁天が化粧に使ったというし、京都府京都市の勝持寺にある鏡石は西行法師が剃髪に用いたという。奈良県吉野郡天川村にも、弘法大師が自らを映したという鏡岩がある[林,2000]。また、盗賊の女房が岩に顔を映して以来、表面がくもってしまったとの伝承にも興味深いものがある。他所では、心の美しい者が姿を映すと明るく映り、心のみにくい者だと暗くしか映らない、などとされる例もある[林,2000]。
 長野県小諸市の小諸城内にも鏡石があって(写真20)、武田信玄の家臣であった山本勘助晴幸がこれを愛用したと伝えられる、と看板には書いてあるが、一体どのように愛用したのだろう。その由来については、あまりよくわからない。石の表面は確かによく磨かれていて、人の顔を映すけれども、人工的な研磨がなされたような印象も受ける。これは果して本物の鏡石だろうか。教えてもらいたいものだ。同県北佐久郡の蓼科山の鳴石平にある鳴石は、鏡餅のような形をしているので鏡石とも呼ばれており、シメ縄が張られている。つまり、この場合はその形から鏡石と名付けられたもので、人の顔を映すほど磨かれているので鏡石と呼ばれたわけではない。大昔、大神の宝鏡が飛んできて石になったといい、石工が槌を打ってそれを割ろうとしたところ、山鳴りがして石工はそこで死んだといい、今もこの石を打ってはならないといわれている[渡辺(編),1982:p.248]。鏡餅型の石なので鏡石と呼ばれた例は、大分県玖珠郡野上村奥双石にもある。朝日長者への年頭の挨拶のため、多久見から鏡餅が送られたが、長者が急死したため、使いの者が途中でそれをそのまま捨て置き、それが石と化したと伝えられる[荒木(編),1987:p.187]。


写真20 小諸城の鏡石 (長野県小諸市)
  福島県福島市山口には、「みちのくのしのぶ文字摺り」の伝承地として有名な文字摺石(もじずりいし)があるが、文知摺石とも書き、鏡石と呼ばれることもある。おおよそ以下のような内容の伝説が語り伝えられてきた。
 貞観年間、この土地に一人の旅の男が訪れて、農家に泊まる。その家に虎女という娘がいて、二人は恋仲になる。都から使いが来て、男は出立する。男は奥羽按察使の三位、左大臣源融であった。虎女は悲嘆にくれる。そこで二人がはじめて出会った文知摺石にむかって、百日の間、麦の青葉でその面をみがくから、融公の姿を映し出してくれと祈る。満願の日に、石の面に男の姿が現われて、やがて消え去る。虎女は病になる。都からたよりが届き、歌が添えてある。「みちのくの信夫もじずりたれゆえにみだれそめにし我ならなくに」。虎女はそれを見て死ぬ[野村(編),1982.:p.218]。
 麦の青葉で石の表面を磨けば、思う人の姿がそこに浮かぶとの祈願習俗がそこに生み出され、そのようにすれば亡き人の姿も見ることができる、という拡大解釈もなされていくこととなった。次に掲げるような明治期の記録にも興味深いものがあるので、ここに引いてみよう。
是所所謂鏡石ノ原因ナリ。是ヨリシテ世人、麦草ヲ以テ摩擦スレバ、相思フ人ノ面影ヲ見ルヲ得ルト喧騰シ、亡父母ノ面影ヲ見ントスル孝子アリ。或ハ亡夫亡妻ノ面影ヲ見ントシ或ハ最愛ノ亡子女ノ面影ヲ見ントスル父母モアリテ、遠近ヨリ到ル者日々絶エズ。石ノ近傍ナル麦圃ハ之ガ為メニ悉ク採リ尽サレケレバ、農夫等麦ノ妨ゲナリトテ山上ヨリ水田中ニ擠セリトゾ云ヒ伝フル[同:p.221]。
 そこに行けば死に別れた人と、間接的な形とはいえ会うことができるとされたことは、東京都八王子市の「呼ばわり山(今熊山)」や、神奈川県秦野市の大山茶湯寺の伝承[長沢,2007:pp.1-5]、さらには青森県の恐山におけるイタコの口寄せなどとも通じるものがある。この福島の鏡石の場合、多くの人々が訪れて麦の葉で鏡石を磨いたため、付近の麦畑の麦が取り尽くされてしまったというのだから、すごい話だ。
 東京都西多摩郡日の出町大久野水口の西徳寺という寺の庭には、獅子岩と呼ばれる奇岩があるが、その隣には鏡石(葡萄石ともいう)もる。石の表面は非常に滑らかで鏡のごとくであり、空を飛ぶ鳥や獣の姿まで映したそうだが、その後の火災で焼けてしまい、表面の光沢が失われてしまって、今は当時の面影を伝えていないのが残念なところだ[宮田,n.d.:pp.37-38]。『日の出町史』には、これについて次のように記されている。
 大久野水口の西徳寺には「鏡石」と呼ばれる岩がある。そのむかし、表面が滑かで、この上を飛ぶ鳥や、獣の姿までがうつったという。春には花を、夏はぎらぎらとした太陽を、秋には美しい紅葉の姿を、そして、冬ともなれば白一色の雪影色をそれぞれうつし出した。しかし、万治三年の雷火によって、その石面が崩れてしまい、今は鏡石というには、ほどとおい状態になってしまった。この石は葡萄石といわれ、西徳寺のものは、長さ一メートル二〇センチ、幅六〇センチほどである[日の出町史編さん委(編),1989:p.826]。
 鏡石の表面がくもってしまったのは、1660年(万治3年)のことであったといい、落雷による火災ですっかりやけただれてしまったためということであったようだ。このように、かつては非常によく物を映していた鏡石・鏡岩だったのに、火災や風化によって今ではすっかりその輝きを失ってしまったという例は他所にもよくある。愛知県渥美郡渥美町村松のそれなどは、全国でもナンバーワン級の鏡岩で、最高の輝きを保っているとのことだが、地上に出現してからまだ20年しか経過していない新しい鏡石だからで、いつかはくもってしまうかも知れない[林,2000]。
 さて、関東地方でもっとも有名な鏡石といえば、何といっても埼玉県児玉郡児玉町の金讃(かなさな)神社の鏡石だろう。金讃神社といえば、武蔵国を代表する6古社のひとつで、神殿(本殿)を持たない神社として知られており、古い神社祭祀の姿を残すものといわれている。なるほど確かに、金讃神社をおとずれてみると、境内には拝殿と神楽殿ぐらいしかなく、古社・大社にしてはあまりにシンプルな境内だ。けれども、拝殿の背後にある神門の向う側には神の鎮座する聖なる山があって、神域としての広大な森林がそこに広がっている。山と森こそが神社の本体そして崇拝の対象なのであって、それがいわば「神殿」なのであり、それを拝するための施設として拝殿があるに過ぎない。神社の原型とはこういうものなのだろうと、思わせしむるものがここにはある。若狭のニソの森、対馬の茂地、薩南のガロー山、沖縄のウタキなどがまさにそうしたもので、神域たる森そのものを崇拝しつつ、拝殿はあっても本殿というものがない。
 金讃神社の拝殿の奥にしずまる聖なる山そして森は、御嶽山(みたけやま)と呼ばれ、遊歩道などもあって誰でも登ることができ、先のニソの森・茂地・ガロー山・ウタキのように、きびしく人の立ち入りを禁じ、禁をおかせば祟りにあうなどとされることもない。何とも意外な感じがするが、遠い昔にはきびしい禁忌が敷かれていたのかも知れない。その遊歩道を登っていくと、神域内の真ん中の森の中に、忽然として鏡石が現れる(写真21)。
 

写真21 金讃神社の鏡石(埼玉県児玉郡児玉町)
  何とスケールの大きい鏡石だろうか。積もった枯葉で覆われているので正確な規模はわからないが、赤褐色を帯びた巨大なチャート質の岩盤が斜めになって地表に露出しており、その表面は正確な平面を保ち、しかも鏡のようにツルツルに磨かれている。岩の大きさは、高さ9m・幅5mに達するともいう[全国神社名鑑刊行会(編),1977:p.239]。私のおとずれたのは冬の夕方時分で、日が暮れかかっていたが、鏡石は夕日を浴びてまばゆいばかりに光り輝いていた。私はてっきり前日の雨に濡れて岩の表面が光っているのだろうと思ったのだが、近づいてみるとまるでそうではなく、乾いた岩の表面そのものが夕日を反射して輝いているのだ。そして何と、そこには向かいの山々が、かなりくっきりと映っており、これには私も驚いたものだ。この石を鏡石と呼ばずして、何と称すればよいのかとさえ思える。金讃神社の鏡石は、かの大浄敬順もここをおとずれてこれを見ており、『十方庵遊歴雑記』に次のように述べられている。
 此金讃の神社の後の山岸に平かに差出たる大石あり。根張の大きさは土中に埋ミてその程をしらず。表へあらハれし処、壱丈五尺に九尺ばかり。?(かき)色にして石面艶よく磨たるが如く光あり。たとへば葡萄石を研抜たるがごとし。此石に向へば人影顔面の皺まで明細にうつりて恰も姿見の明鏡にむかふがごとし。此処山の奥といひ、人語渓澗に谷響し朔風?々として樹林を鳴し寂莫とものすごく、頓て立戻りぬ。奇異の怪石といふべし。
 ここには鏡石の大きさを1丈5尺×9尺と記しており、約4.5m×2.7mということで、今見るよりもずっと小さく、当時はかなり土に埋もれていたようだ。この大浄敬順の残した見聞記は、江戸の今戸に住んでいた幕末の随筆家、加藤雀庵にも読まれていたようで、ほとんど同じ内容で彼も以下のように記している。
鏡石。武蔵国児玉郡金讃(カナサナ)村社の山ノ岸に大石有。大サ土に埋て知らず。あらハれし所一丈五尺に九尺斗の?色の石也。これに向へハ人影姿見に写すが如くおそろしき程也[荒川区立荒川ふるさと文化館(編),2003:pp.65-66]。
 金讃神社の御神体は、拝殿の奥に広がる山そのもの、森そのものだったのだから、その広大な神域の真ん中に鎮まる鏡石は、聖域内の中心核とでもいうべきもので、神のおわす岩座のような存在であったに違いない。これほどのスケールの、見事な鏡石はほかにはないし、そのあまりに神秘的な姿に、大昔の人々が深い畏敬の念を抱き、崇拝をしたのは当然のことだったろう。もしかすると、この鏡石を礼拝するために、ここに神社が祀られたのかも知れず、鏡石そのものが聖なる御神体であったとするならば、それを遙拝するための拝殿が山下にあればよく、本殿などはいらなかったということの意味が、よく理解できるのではないだろうか。
 さて、鏡石・鏡岩に関する記録は諸書に見られるが、その最古の資料といえるのは、『常陸国風土記』で、鏡岩に映ったおのれの姿を見て鬼が逃げ出したという話が載せられている。『豊前国風土記』にも鏡岩のことが触れられているし、『鹿苑日録』には京都の金閣寺の境内に突然、鏡岩が出現して評判を呼んだ旨の記述がある。豊臣秀吉が聚楽第を建設した際にも鏡石が掘り出されたといい、朝廷に献上されたと伝えられる。『古今集』にある紀貫之の和歌、「うば玉のわが黒髪やかはるらん鏡の影にふれる白雪」も、京都の紙屋川沿いにあった鏡石を詠んだものだとの説がある。近世の名所記にも、各地の鏡石・鏡岩がよく紹介されており、「鏡石」という四股名の力士さえいた。こうした記録資料をくわしく渉猟し、各地の鏡石・鏡岩をくまなくたずね歩いて、関連伝承なども詳細に調査した在野の研究者が一人おられる。愛知県の愛知淑徳高校の教諭、林宏氏がその人で、いわば専門の「鏡石・鏡岩研究家」だ。林氏の調査によるならば、全国の鏡石・鏡岩は計58ヶ所を数えることができるといい[林,2000]、それほどあるとは私も知らなかった。信仰対象となっているものもあるそうで、岡山県備前市には鏡石神社があるし、三重県の五十鈴川中流にある鏡石上にもかつて、同名の神社が鎮座していたという。鏡岩の輝きがあまりに強過ぎ、遠く離れた海や湖の魚が採れなくなったため、岩を煙でいぶしたとか、鏡岩を傷つけると必ず血を見るとかの伝承も、林氏は拾っておられる。
 林氏が初めて見た鏡石・鏡岩は、岐阜県山県郡高富町にあるものだそうで、巨大な岩盤の平滑面が露出しており、指を近づけるとうっすらそれが映るといい、付近にある公園は鏡岩公園と呼ばれている。それ以来、林氏は鏡石・鏡岩というものにすっかり魅せられ、地方誌や近世地誌などを調べては現地をたずね、全国58ヶ所をすべて踏破するに至った。山奥にあるものの場合、そこまで行くのに大変な苦労をともなうとのことで、奈良県吉野郡の山中では谷底に転落して村人らに救助されたこともあるそうだ。愛知県新城市の山中では、カマ首をもたげたマムシに遭遇して、ここでも彼は岩から転げ落ちたという[林,2000]。そこまで研究者をひきつけてやまない、鏡石・鏡岩の魅力とは一体何なのだろう。それはやはり、人為の力によらずに生み出された「天然の鏡」というものに対する心からの驚き、そしてその強烈な神秘性ということに対する素朴な感動だ。大昔の人だったならば、そこに造物主の存在を感じて当然で、金讃神社の起源はまさにそれだろうと私などは考える。そして地殻変動や断層現象の科学的メカニズムを知る今の時代の私たちでさえ、よくぞこんなものが自然の力でできたものだと感嘆せざるを得ないのだから、すっかりこれの魅力にとりつかれた人が一人いたということもよく理解ができるし、何度崖から転げ落ちようとも、その人はそれを追求し続けるだろう。そういう人がもっとたくさんいてもいいし、いて欲しいと私は思う。
引用文献
荒川区立荒川ふるさと文化館(編),2003『雀庵随筆抄』,荒川区立荒川ふるさと文化館.
荒木博之(編),1987『日本伝説大系』Vol.13,みずうみ書房.
林 宏,2000「古代の神秘映す『鏡岩』」『日本経済新聞』12月13日朝刊版,日本経済新聞社.
日の出町史編さん委員会(編),1989『日の出町史・文化財編』,日の出町.
粕渕 宏,2002「朝日の鏡岩について―坂田郡山東町―」『民俗文化』470,滋賀県民俗学会.
宮田正作,n.d.『日の出町の歴史』,日の出町教育委員会.
長沢利明,2005「東京の要石」『民俗』209,相模民俗学会.
長沢利明,2007「茶湯石から呼ばわり山へ」『民俗』201,相模民俗学会.
野村純一(編),1982『日本伝説大系』Vol.3,みずうみ書房.
渡辺昭五(編),1982『日本伝説大系』Vol.7,みずうみ書房.
渡辺昭五(編),1984『日本伝説大系』Vol.9,みずうみ書房.
全国神社名鑑刊行会(編),1977『全国神社名鑑』上巻,史学センター..
 
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