西郊民俗談話会 

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連載 「環境民俗学ノート」 8  2013年6月号
長沢 利明
種子島の聖地と森の信仰
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(1)聖地としてのガロー山

 鹿児島県の種子島には、ガローとかガロー山とか呼ばれる立入禁止の聖地・祟り地があちこちにあって、それは樹木がうっそうと生い茂った山だ。全島内に計150ヶ所はあるという。特に島内南部の南種子町内には多く見られ、同町内平山地区には24ヶ所、島間地区には10ヶ所のガロー山がある[下野,1995:p.24・向井,1989:p.86]。同じ町内でも東海岸に特に多く、西海岸にはほとんどない。同町内寺川には、遠くから見ても一目でそれとわかる、大変よく目立ったガロー山があって、広大な水田地帯の真ん中にぽっこりと小山が突き出ており、そこだけ照葉樹林が残っていて、まるで古墳のごとくだ(写真16)。


写真16 ガロー山(南種子町寺川)
 そこの山には今でも人が立ち入っては駄目で、登り口も道もない。周囲が切り立っていて中に入れないし、入れたにせよ、深いヤブで覆われた森の中は、歩くことすらできない。もし禁を犯してガロー山に侵入したならば必ず神の怒りを買い、バチカブリ(罰被り)といって、必ず怪我をするとか、病気になるとかいい、死んでしまうとさえ言われている。そこで木の枝を折ったりすると腰が痛くなるとか、小便をすれば大事な所が腫れあがるとかいう。『南種子町郷土誌』にも、これについて以下のように述べられていた。
聖地(ガロウ山)として一般にい敬されていて、女子の立入りを禁じたり、子供たちが立入って放尿するなどのタブーをおかすと、たたりがあると信じられている林や森がある。これを俗に「ガロウ山」と呼んでいる。ガロウ山に入るとフキル(ジンマシンが出ること)とか、放尿したために、その部分がはれ上がるとかいわれ、酒等をそなえて、祈?してもらうとすぐなおると信じられている[南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987:p.1355]。
もしもガロー山の祟りにあった時には、神酒をあげて祈?をしてもらうとあるが、その祈?師となるのがモノシリ(物知り)と呼ばれる民間巫術者だ。たとえば、こんな具合なのだった。
 例えば一人の子供が急に病気になった、医者にみてもらってもはっきりしない。こんな場合にはモノシリというシャーマンに聞きに行きます。モノシリは神がかりの中で「これはガローの祟りのようだ」というわけです。そこで、子供の父親は、すぐ蓑、笠をつけて、片手に鎌を持ち、宙を切って悪霊を祓いながら、人に逢わないようにして海岸に行きます。渚の波が七回寄せたあとの清い海砂をとってネコノキンタマ(タマシダ)の葉に包みます。これをシュエー(潮井)といいます。そしてガローヤマの中心にある一本の大木の根元に供えて詫びをいって拝むのです。すると、子供の腹痛や、原因不明の病気がケローッと癒るのだそうです[下野,1995:pp.24-25]。
ガローという言葉は「伽藍」から来ていると、よく言われるが、なるほどそうかも知れない。中種子町の原の里には「伽藍迎」という小字があり、「がろーむかえ」と読むものの、「伽藍」という字が残っている[中種子町郷土誌編集委員会(編),1971:p.1030]。南種子町茎永(くきなが)地区周辺には、古くから18ヶ所のガロー山があったが、これらをまとめて「十八ガラン」と称しているから、それが古い言い方なのだろう。聖地の呼び名に仏教用語が当てられ、それが転訛してガローとなったものと思われる。ガロー山には怖い神様が住んでおり、大変に神聖な山もしくは森であるから、みだりに人が立ち入ってはならず、女人禁制なのはもちろんのことで、もしそこに立ち入ったならばきびしい神罰を受けて祟りがあるとされてきたのは、この十八ガランでも同様だ。ガロー山には長い間、人が入らず、木が伐られたりすることがなかったので、アコウやガジュマルなどの古木がうっそうと茂っている。
アコウFicus superba Miq. var. japonica Miq.もガジュマルFicus microcarpa L. f.も、亜熱帯性のクワ科の高木で、沖縄などではよく目にするが、種子島にもたくさん自生している。岩にさえ食い込むゴツゴツとした太い根、曲がりくねって叢生するその枝ぶり、密生した葉とその分厚い植被。これらの樹木がそこに立っているだけで、神の宿るべき神聖で近寄りがたい雰囲気がかもし出されているし、薄暗いその樹陰は何とも不気味であって、樹齢を重ねるほどにそうした印象が強調されていく。樹齢100年を超えたアコウ・ガジュマルの木が1本、そこに生えているだけで、その山はガロー山になりうるし、それへの畏怖があるからこそ斧も入らず、それら老木は伐られることがなかった。古木の枝葉が分厚く空を覆って太陽光線がさえぎられ、昼なお暗い照葉樹林の奥で、原始神道は発生したのではなかったかと、私たちに感じさせもするのだ。
ガロー山は何も、人里離れた山奥にばかりあるとはかぎらない。集落に隣接した目の前の裏山がそれだという例もあるし、海岸に面したちょっとしたヤブ山の小丘が、ガロー山として崇められている例もある(写真17)。
 

写真17 海岸のガロー山(同町広田)
 ガロー田といって、ガロー山に付随する神田(祭田・祝田)を持つ例もあり、それ また聖なる田んぼであるから、いっさいの不浄を避けつつ、神饌米がそこで栽培されてきた。信仰心もかなり弱まった今の時代、長らく聖地として手をつけずに維持されてきたガロー山が、地主の代替わりなどで売り飛ばされ、宅地化されてしまった例なども見られるようになったのは、近年の大きな変化だろう(写真18)。
  

写真18 ガロー山のアコウ(同町広田)
聖なるアコウの老木に横木が打ちつけられ、資材置き場と化したその姿は、何とも無残というほかはない。それもまた現実なのだが、今なお人の立入りを拒み、太古の自然を残したガロー山は、まだあちこちに見られるのだし、森への素朴な信仰が消え去ってしまったわけでは決してない。


(2)茎永宝満神社と十八ガラン

2012年から2013年にかけて、私が種子島のガロー山のことを調べていた時、すぐれた案内人となってくれたのが、南種子町の伊藤敏夫氏だ。同氏はタクシーの運転手なのだが、誰もがその名を知る名物男で、自らを「種子島の番人」と称し、島の自然・文化・歴史をこよなく愛して、島外から来た旅行者たちにそれを紹介しておられる。寝たきり老人をタクシーで病院まで連れていき、自ら背負って診察室にまで運んでやったりもしておられ、その熱い社会奉仕の精神と情熱には脱帽するほかはない。伊藤氏は島内の地理を知り尽くしているので、私がどこそこのガロー山が見たいというと、即座に車を飛ばし、そこへ連れていって下さった。おかげで私は、10ヶ所以上もある島内南部地域のガロー山を、ほとんど見て回ることができたのだった。その道々、伊藤氏は自身の少年時代の経験を、次のように私に語ってくれたものだ。
ガロー山には、決して入ってはならなかったんです。立ち入れば必ず、バチが当ります。けれども、私たちは子供だったから、どの山がガロー山なのか、よくわかっていない。大人たちは皆、よく知っていたけれども、私たちにはよくわからなかった。どこからどこまでが普通の山で、どこから先が駄目なのか、その境界線がよくわからないんです。だから、子供どうしで山に入って遊ぶ時には、とにかく気をつけました。もしかしたら、ガローに入ってしまったかも知れない。リーダーのガキ大将は、山に入る時、「エヘン」と大きく咳払いをすることになっていました。自分たちはこれから山に入りますと、山の神様にあらかじめ知らせておくわけですね。知らせずに入っていくと、まちがって神様の頭を蹴っ飛ばしたりするかも知れない。神様とは透明人間みたいなもので、人間にはその姿が見えないんですからね。だから咳払いをして、神様に自分たちの存在を知らせておくんです。そうすれば、バチカブリで怪我をしたりしなくて済む。山の中で小便をしたくなることだってありますよ。だけど、それは最大の御法度です。ガロー山で小便するなんて、とんでもないことです。親から日頃、きびしく言われていました。そうはいっても出るものは出る。やはり「エヘン」と大きく咳払いをしてから放尿しました。家にいて急に頭痛・腹痛になったりすると、「お前は今日、山に入ったか?」と親に詰問されたものです。「まさかガロー山で小便したりしたんじゃないだろうな?」というわけです。それは実際、大変なことだったんですよ。
先にも触れた茎永地区の十八ガランの場合、1945年頃までは、それぞれのガラン(ガロー山)を祭祀する祭主家があったとのことだが[南種子地名研究会(編),2006:p.43]、今ではすっかりその場所がわからなくなってしまったものもある。伊藤氏の案内で、そのうちのいくつかは私も見ることができた。十八ガランはいずれも、茎永地区の総鎮守社である宝満神社にゆかりの深い聖地群なのだといい、その宝満神社はいうまでもなく神饌赤米稲を伝えて来た著名な神社であって、今でも神社付属の神田において赤米稲が栽培され、神前に供えられている[長沢,2013:pp.1553-1564]。同社の縁起書である『宝満宮祭典の記』にはガランを廈檣・夏檀・伽藍などと表記しつつ、「廈らんは昔、宝満宮に随住したる神と称す。当茎永に九門の名頭あり壱門各式廈檣神を有す。名頭社人となり、一は名子を以て社人となす。何れも壱筆の祭田を有す」と述べている。宝満神社の祭神である玉依姫(たまよりひめ)が種子島の地に降臨した時、随行してきた神々が茎永周辺に住みついて十八ガランとなったというのだ。門(かど)と呼ばれる九つの有力家筋(一門)があって、それぞれが独自のガランの神を祀り、ガラン付属の神田を一筆ずつ持っていたとあるのも興味深い。
十八ガランの内で現在、その所在地が確認されているのは、@矢八門の中島ガロー、A松原門の御田の森、B雪子門の雪の子ガロー、C屋の子崎門および椎木門、D茅切門の菅原ガロー、E九郎迫門の吉原ガロー、F井手平門の履脱ガローだけだ。@は弥八ガロー・岩下ガローとも呼ばれ、今でも毎年9月9日に門に属する家々が初穂を納めて参拝しており、宝満神社の祭神の子分の神がそこに祀られていると、伝承されている。Bの雪の子ガローに祀られているのは女神で、特に祟りやすいなどともいわれている[下野,1995:p.25]。「十八ガラン」とは称するものの、各門に所属する聖地そのものは個別にガローと呼ばれているのは不思議だ。また、9門中の8門は現存するが、1門についてはすでに不明で、どの門に帰属するのかわからない白木峯ガロー・片板ガローというものもある[中村(編),1974:pp.172-173]。そして、これらのガロー群の内で、Aの松原門に属する「御田(おた)の森」こそが、有名な宝満神社の赤米神田に隣接する聖地の森なのであって(写真19)、同社の一連の赤米神事は、この森の神を田に迎えて挙行されることになっている。どういうわけか、このAの御田の森だけはガローと呼ばれることなく、単に「森(杜)」と称されているのも不思議だが、まったくガロー山と同じ性格を持った、きわめて神聖な森なのだ。
 

写真19 宝満神社の御田の森 (同町松原)
『南種子町郷土誌』には、この御田の森について次のように述べられている。
御田の森は立ち入ってはならず、女性の立ち入ってはならず、女性の立ち入りは今日でもタブーとされている。御田の森は高さ四〜五メートル、周囲五〜六十メートルの小高い丘で、この森のほぼ中央部にカル石の御神体が安置されている。祭りの関係者以外はほとんど立ち入ることもなく、子どもでさえ立ち入ることはない。一種のガロウ山の性 格を持ち村の人々にも敬遠されている。椎、マツ、ヤマモモの木が繁茂し、入口にはソテツの群生がある。ヤマモモの木は季節になると実を結ぶが取って食べようとはしない[南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987:p.1171]。
茎永には、これらのガロー山のほかにもさらに、「三の土手」と呼ばれる聖なる土手が3ヶ所あって、ガロー山に付随・隣接するガロー田の土手を指す。やはり、きびしく不浄をいましめる聖地であって、葬列などは決してそこを通ってはならず、もし通れば棺桶をひっくり返されるとか、遺体が消え失せるとかいわれていた。三の土手は、まず前述の白木峯ガローの神田に隣接する「鬢後(びんご)の土手」、次にBの雪の子ガローの神田に接した「雪の子土手」、もう一つは@の中島ガローの神田脇にある「中島の土手」の3ヶ所であった[同:p.173]。宝満神社に伝わる『縁起写』という資料には、この「三の土手」について、次のように記されている。
一ヲ鬢後の土手、一ヲ雪子の土手ト云ヒ、一ヲ中島ノ土手ト云フ。鬢後の土手ハ、白木峯夏檀之祭田ニ接シ雪子ノ土手ハ雪子夏檀祭田之ニ接シ、中島土手ハ中島夏檀祭田之口ニ接ス。何レモ不浄ヲ戒ムルノ故ヲ以テ往古ヨリ死人ノ通経ヲ例エ之ヲ通経スル位置ニアルモ斯ル場合ニハ之ヲ避ケテ田浦ノ中ヲ通ル□□遙カニ遠方ニ迂廻スルコトニス。今尚厳ニ之ヲ遵守ス[南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987:pp.1357-1358]。
さて、このように見てくると、種子島におけるこの種の聖地というものは、その形態の上から、次の三つに分けてとらえてみることができるだろう。それは、まず第1に聖なる森としてのガロー山であって、神のおわすべき神聖な場所とされ、俗人の立ち入りを禁じたきびじい祟り山だった。先の@〜Fがこれにあたるが、特にAは宝満神社の神田に接し、一連の赤米神事がそこでなされる際に、神職がその森の中に分け入って、手厚い祭祀がなされることになっている。それは、宝満神社の神職が直接に関与する最重要の聖地といえる。第2の聖地はそのガロー山に隣接・付随する、神田としてのガロー田であって、神にささげる神饌米がそこで栽培されるため、きびしく不浄を避けた神聖な田なのだった。『宝満宮祭典の記』には、各名頭はいずれも一筆の祭田を持っていたと記されていたが、近現代期における十八ガランの信仰の衰退にともなって、それらのガロー田はほとんど消滅してしまい、今も残るのは、わずかに@中島ガロー(矢八門)とA御田の森(松原門)の、2ヶ所の神田のみとなっている。そしてAについては、まさに宝満神社の神饌赤米田として、今でも赤米稲がそこで栽培されている。第3の聖地は三の土手で、ガロー田に接し、きびしく不浄を避けるべき場所で、特に死穢の忌避ということが強く強調されている。
聖地を構成する第1・第2・第3の各要素は、それぞれ独立しては存在しない。ガロー山なくしてガロー田はありえないし、ガロー田なくして三の土手もありえない。これら三つが一組になって結びつき、ひとつの聖地を構成していたのだろう。第1のガロー山、第2のガロー田、第3のガロー土手、すなわち神の森・神田・土手の三つがセットとなって、種子島の聖地は古来、成り立ってきたのだろう。聖なる森があって、その脇に神田があり、その下手に土手という神域がある。それが聖地の基本構造なのであって、土地の高低差でいうと、山の上に森があって、その麓に神田があり、田の低い側に土手が位置する。高い方から低い方へと、森・神田・土手が並ぶということは、森(山)から流れ出た水が神田に流れ込み、土手が水をせき止めるということを意味する。実際、ガロー山は水田の水源地や飲料水の湧水地などのかたわらによく見られ、森と水との関係には深いものがある[中種子町郷土誌編集委員会(編),1971:p.1031]。聖地を構成する三要素の組み合わせは、時代を追って基本構造がしだいに崩れていったが、近現代期にまで森・神田・土手の三つを完璧に揃えて維持していたのは、白木峯・中島(@)・雪の子(B)の3ヶ所のガロー山のみだった。そして、宝満神社の神饌赤米田に隣接する御田の森(A)の場合は、森と神田のみが見られるが、神田が平地にあるために土手を築く必要がなかったためだろう。そこは、最後まで生き残った中心的な聖地なのだった。
  

(3)聖なる森の信仰と神饌赤米稲の栽培

『南種子町郷土誌』によるならば、町内でガローと呼ばれる聖地は、次の四つに分類できるという。第1にそれは処刑された者や怨恨を残して死んだ者の霊を祀る場所、第2に自然信仰の斎場で大木や祭り場のある山林、第3は一族の祖霊信仰にともなう斎場、第4は寺社や墓地の跡地で、いずれも祟り地とされてきた[南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987:pp.1360]。宝満神社の御田の森は、もちろんその第2にあたる。中島ガロー・雪の子ガローはその第3に相当するというのだが、それらももともとは第2の類型から発したものではなかったろうか。もっとも重要で基本的なものは、もちろん第2の類型であって、聖なる森の崇拝こそが、古層の民間信仰の姿だったのだろうと私は考える。
聖なる山、禁断の森として崇められてきたガロー山には、手つかずの自然がまだ残されている。もしそこが聖地でなかったならば、たやすく人がそこに入って薪炭林や人工林に変えられてしまったことだろう。自然崇拝を旨とする山岳信仰の力によって、各地の寺社林が手厚く守られてきたことと、それは同じだ。民間信仰のエネルギーはそのように、時には開発を抑制し、自然保護の力ともなる。聖地を構成する森・神田・土手の三位一体の要素のうちで、もっとも重要なのは、もちろん森だ。聖なる森が最初にそこにあったわけで、神田と土手はその添え物に過ぎない。神は森の中におり、もしくはそこ降臨するのだから、その聖域を人間は決して侵してはならなかった。森に対する深い畏怖の思いがあればこそ、人はそこに斧を入れようとはしなかった。人間と自然とが等価・対等の関係にあった時代の精神は、その両者の共存ということを、おのずと定めていたのだ。
スタジオ・ジブリ作品のアニメ映画、『もののけ姫』に出てくるような、人智の及ばぬ聖なる森の自然とは、一体いかなるものだったのか。神の怒りに触れぬ範囲で、そして許される範囲で、ほんの少しでいいから、その実態をのぞいてみたくもある。けれども、地域住民がいまだに怖れて立ち入らぬガロー山の聖域内に、それこそ世間の垢にまみれ過ぎた、あまりにも不浄なこの身の穢れた両足で、そこに踏み入ることなど出来るはずもない。いかに無神論者のこの私でさえ、わきまえるべきルールはわかっているし、他所者が聖域をけがして地域の人々の反発を買いたくもない。そもそも、そんな怖ろしい森の中に立ち入る勇気も持ち合わせてはいない。だから、この私は決して種子島のガロー山の神域に立ち入ることをしなかったのだが、宝満神社の御田の森についてだけは、何とか中に入ってみたかった。そこで私は同神社の松原堅二宮司と交渉をして許しを乞い、特別な許可を得ることができたので、晴れて御田の森の中に立ち入り、植生調査をこころみることができたのだった。
森の入口で丁重に拝礼をし、襟を正して神妙にしつつ、森の中に踏み込んでいくと、嫌がうえにも緊張感があふれてきて、私の心臓の鼓動は高まった。自然石を荒く積み上げた石段状の参道を登っていくと、やがて頂上に着いたが、その絶頂には一株の古木が叢生して立っており、それが神域の中心的シンボルとしての神木で、意外なことにその樹種はアコウやガジュマルではなく、ウバメガシだった。その根元には忌竹とシメ縄で囲まれた聖域があって、そこには海岸から運ばれてきたサンゴ石(ガル石と呼ばれる)が積み上げられ、祭壇状となっていた。サンゴはすべて造礁サンゴ類のキクメイシFavia speciosa (Dana)だ。ガロー山や神社・墓地などにガル石を奉納するのは、種子島ではよく見られることで[園田,1995:p.251]、宝満神社の境内などにもたくさん積み上げられている。家を新築した人などが家内安全を祈って納めたりするのだが、そのほかにも諸願成就のためにと、海岸へ奉納用のガル石をよく採りに行く。海から神社までそれを運ぶ際、途中で誰とも顔を合わせてはならず、夜などに人知れずそっと、秘密裏にそれを奉納するものだという。御田の森の聖域内のガル石は、先の『南種子町郷土誌』の記述では「御神体」とされていたが、あくまでもこれは祭壇なのであって、神事の際に神職は、この上に三方を並べて供物を捧げている。私はそこで深々と頭を下げて神様にお願いをし、簡単なコドラート調査をやらせてもらった。その結果を次表に掲げてみることにするが、どうせならということで、いくつかの関連調査地のデータもあわせて提示し、参考事例としてみたい。
すなわち、まずは茎永の宝満神社の御田の森における2地点の調査結果を提示しておく。次に、南種子町内の真所(まどころ)集落の鎮守神である真所八幡宮の聖地での調査事例も掲げてみる。同社もまた、社前の広大な水田地帯の真ん中に、島のように浮かぶ聖地の森を持っており、俗に「森山」と呼ばれているが(写真20)、ガロー山と呼ばれることもあったようだ[徳永,1983:p.108]。
  

写真20 真所八幡宮の森山 (同町真所)
 森山の脇にはやはり神田があって、かつてはそこでも神饌の赤米稲が栽培されていた。神田は今もそこにあるが、植えられる稲は今では通常稲となっている。同社の神職は、今では茎永の宝満神社の宮司である松原堅二氏の兼務するところとなっており、これまた立ち入りの許可を得ることができたので、ここでも2地点を調べた。さらに宝満神社と真所八幡宮の両社の社叢林も、それぞれ2地点ずつ調べたので、合計8地点のデータが、ここに掲げられている。
表10 聖地の森と社叢林の植生調査表
No. @ A B C D E F F G I
区分 聖地の森 社叢林
御田の森(宝満神社) 森山(真所八幡宮) 宝満神社 真所八幡宮
調査時 2012/ 2012/ 2012/ 2012/ 2012/ 2012/  − 2012 2012/  −
 11/21  11/21  11/21  11/21  11/21  11/21    11/21  11/21   
調査面積 4×4 4×4 5×5 5×5 5×5 5×5  − 5×5 5×5  −
全植被率 90% 90% 100% 100% 90% 90% 70% 90% 90% 40%
ウバメガシ 3・3 4・3               3・3
アコウ 3・3 3・3 2・2   1・2 1・2   1・2 1・2 1・2
マテバシイ     3・3 3・3 3・3 3・3 3・3 2・2
スダジイ 3・3 3・4 3・3 3・3  − 3・3 3・4
マテバシイ 2・2        
クロマツ 1・1    
イヌマキ 2・2   2・2 2・2 2・2 2・2 1・2 2・2 2・2
クサギ        
コバノガシ 1・1    
タブノキ 1・1 2・2 1・2 1・1 1・1 1・2 1・2
ウラジロガシ 1・2 2・2     1・2
アコウ   1・2  
ソテツ 3・2         1・2    
トベラ 2・2 2・2 1・1       1・2    
タブノキ 2・2     1・2    
アコウ 2・2 1・2 1・2   1・2 1・2 1・2 1・2  
ハクサンボク 1・2 1・1       1・2    
ヤマモモ 1・2 1・1          
ハマヒサカキ   1・1 1・2 1・2   1・2
マテバシイ 1・1 1・2  
モチノキ 1・1 1・1 2・2
ヤマフジ   1・1    
アキグミ   1・1   1・1
イヌマキ   1・1   1・1  
アカメガシワ 1・2  
ハゼノキ   1・2    
スダジイ   1・2  
モチノキ 1・1  
ヒメユズリハ   1・1 2・2   1・2 1・2
ヤブニッケイ 1・2 1・2 1・1 1・2 3・3 2・2
ノブドウ 1・2  
メダケ   1・2 1・2 1・1 1・2 2・2 1・2
ホルトノキ  
ヤブツバキ 2・2 1・1 1・2 2・2 1・2
ススキ 2・2 1・1       1・2    
ツワブキ 1・2 2・2 1・1   1・2
アオノクマタケラン 1・1 1・1 1・2 3・3 1・2   1・2 2・2 2・2
ナキリスゲ 1・1   1・1 1・2    
マメヅタ 1・2 1・2 1・1 1・1 1・2  
ベニシダ 1・2   2・2 2・2 1・2 1・2
オオイワヒトデ 1・2   1・2 1・2 1・2 1・2 1・2 1・2
イシカグマ 1・2 1・2   1・2    
ヤマツツジ  
ヨシ 1・1  
イタビカズラ 1・1   1・1
ナツヅタ 1・1  
ナツグミ 1・1    
タマシダ   1・2 1・1 1・1 1・2 2・2
フウトウカズラ 1・2 1・2 1・2 2・2
フユノハナワラビ    
ヤブソテツ   1・2  
ミツデウラボシ    
イワガネソウ     2・2
ソテツ    
ヤブコウジ   1・1
ホシダ   1・1 4・4 3・3
タブノキ     1・1
ハラン   2・2
イヌガンソク   2・2
ジャノヒゲ  
イノデ 1・1
ケチヂミザサ 3・3 1・2
サツマサンキライ   1・2
センニンソウ  
ノブドウ   1・2
コドラート 63 64 65 66 67 68 47 69 70
注)筆者調査による。調査面積の単位はm。
 これらの植生調査結果から、聖地の森のフローラの実態を見てみることにしよう。まず御田の森について見てみると(表中の@〜A)、それはウバメガシ・マテバシイなどで構成されるシイ・カシ林だったが、林床植物の種構成は意外に貧弱で、植被もさほど厚くはない。これに対しては、森山の方は聖地の丘がずっと大きいためか、豊かな自然林が残されていて、種構成も豊富であり、ぶ厚い植被が形成されている(同B〜C)。こちらはスダジイ・マテバシイなどで構成される、典型的な海岸型照葉樹林であって、宝満神社・真所八幡宮の両社の社叢林とも共通したものとなっている(同D〜G)。茎永の周辺には、このタイプのスダジイ群落が多くみられるし[大野,1974:p.12・南種子町(編),2007:p.21]、各所のガロー山もおそらくは同様で、深いスダジイ林の中にアコウやガジュマルの老木が残されたような場所が、聖地の森としての条件を満たしてきたものと思われる。
聖なる森への信仰は、西日本の照葉樹林帯を中心に各地で見られた。若狭湾沿岸地方のニソの森、南関東の位牌山、対馬の茂地、南九州のモイドン、沖縄のウタキなどがまさにそれで、種子島のガロー山に連なるものだ。これらの聖地の森を遙拝するための施設として神社が鎮座するに至った例もある。鹿児島大学の下野敏見教授は種子島のガロー山を、これこそが日本の神社というものの原型なのだと述べながらも、ガロー山の信仰は14世紀頃に種子島に宝満信仰が導入された時に、あわせて島外からもたらされたとしておられるが[下野,1995:pp.25-26]、それは矛盾ではなかろうか。聖なる森の崇拝は、きわめて古い時代にまでさかのぼる土着の信仰形態なのであって、種子島のそれは森・神田・土手の三位一体の構成を特色としている。
そして、その三位一体のもとで、赤米稲という古い稲種が神饌米として、御田の森のかたわらの神田で栽培されてきたことは、大変に重要なことだったろうと私は思う。宝満神社の神饌赤米は収穫後、神社へ奉納されるけれども、一連の赤米神事はいっさい神社でなされることはない。すべてそれは御田の森の中と、その脇の神田においておこなわれるのであって、御田の森の神こそが主人公としての役割を果たしている。まさに御田の森なくして赤米もありえない。聖なる赤米稲は、聖なる森のふところにある神田で育てられねばならないのだ。いわゆる三角田というものがあって、神聖な神田は三角形をしている例がよくある。たとえば岡山県総社市の国司神社の神田も、やはり三角田であって、神饌赤米稲がそこで作付されている[長沢,1999:pp.18-19]。三角田とは要するに、谷の最奥部に位置する谷地田の形なのだろう。山から湧き出た水が最初に掛かる神聖な田ということが、そこに象徴されているのではなかろうか。森・神田・土手の三位一体の構造ということが、やはりそこにも感じられよう。宝満神社の御田の森に隣接する「舟田」という神田もまた、三つの頂点を持つほぼ二等辺三角形の舟型の田なのであって、その舳先はまっすぐ御田の森の方に向いている。森から流出する沢筋の源頭部にある三角田の形状を模したものと、考えるほかはないだろう。宝満神社の神饌赤米は、聖地の森とともにあるそのような信仰空間の中で、栽培されてきたのだ。
文 献
南種子町(編),2007『生態系調査報告書』,鹿児島県土地改良事業団体連合会.
南種子地名研究会(編),2006『茎永村・上里村の故事―うずもれた昔の発掘―』,南種子地名研究会.
南種子町郷土誌編纂委員会(編),1987『南種子町郷土誌』,南種子町長中峯薫.
向井二生,1989『里のくらし―八方山と寺ン山のあわいに生きる―』,向井二生.
長沢利明,1999「郷土の作物I―岡山県総社市国司神社の赤米」『昔風と当世風』77,古々路の会.
長沢利明,2013「赤米雑話(152)」『赤米ニュース』196,東京赤米研究会.
中村義彦(編),1974『茎永郷土誌』,茎永公民館.
中種子町郷土誌編集委員会(編),1971『中種子町郷土誌』,中種子町長鎌田義俊.
大野照好,1974「植生調査」『種子島自然環境保全基本調査』,鹿児島県.
下野敏見,1995「民俗学から見た南種子町の特色」『南種子町の民具』,南種子町教育委員会.
園田成史,1995「信仰T(村落神・屋敷神・屋内神)」『南種子町の民俗』,南種子町教育委員会.
徳永和喜,1983『種子島の史跡』,和田書店.
 
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