西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 22   2015年8月号
長沢 利明
東京の魚籃観音
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 魚藍(ぎょらん)観音という名の観音様が、三十三観音の一つに数えられている。三十三観音というのは、観世音菩薩が衆生を救済するために化身した33の姿だというのだが、三十三ヶ所巡礼ももちろんこの考え方から生み出されたものだ。では、その三十三観音の一覧リストとはどんなものかというと、1揚柳・2龍頭・3持経・4円光・5遊戯・6白衣・7蓮臥・8滝見・9施薬・10魚籃・11徳王・12水月・13一葉・14青頚・15威徳・16延命・17衆宝・18岩戸・19能勢・20阿耨・21阿?提・22葉衣・23瑠璃・24多羅尊・25蛤蜊・26六時・27普悲・28馬郎婦・29合掌・30一如・31不二・32持蓮・33灑水という構成になっている。これらの顔ぶれを見ると、私たちにはあまりなじみのないものも多いが、1揚柳や13一葉などは稀に仏像作品や石造物になっているし、12水月や28馬郎婦も絵画作品などで時折は目にする。6白衣は、群馬県高崎市の郊外に立っている巨大なコンクリート像(高崎観音)が有名だ。8滝見については私も最近、山梨県山梨市の養安寺という浄土宗寺院に祀られている仏像を、見たことがある[長沢,2004:p.1604]。そして、10魚籃がここで問題にしている魚籃観音なのだ。
 この魚籃観音というのは、どのような御姿をしているかというと、まずは妙齢の美女の姿恰好をしており、手には魚籠を持っていて、その籠の中には1尾の魚が入っている。時には、大きな魚の背に立った姿の観音として描かれることもあるし、仏像図譜などにそのような図像を載せたものを見ることがある。魚の背に立った観音の姿の石造物も、実際に群馬県利根郡川場村加葉山の弥勒寺などで確認されている[金井塚,1977:pp.80-81;長谷川,1977:pp.71-72]。この観音はまた、頭上に小さな釈迦如来の化仏をいただくことも多く、頭上全体が長い頭巾というかヴェールというか、かぶり物で覆われていて、一見して1揚柳や6白衣の観音像などにもよく似ている。中国の古い仏教説話から生み出された観音なのであって、インド生まれの仏ではない。すなわち、唐の憲宗の時代に魚売りをしていた若い娘がおり、深く仏教に帰依していて、自分と同じように経典をよく読誦する男性がいたならば、その妻になろうと決めていたという。そして、ついに馬氏に嫁いだのだが、ほどなく死に、実はこの娘は観音の化身であったことが明らかにされる、というのが中国でのその話なのだった。この説話にもとづいて、中国では宋の時代以来、魚籃観音の信仰がさかんになり、それがわが国へも伝えられた結果、各地にその仏像が祀られることとなった。なお、三十三観音の内の28馬郎婦というものもまた、唐の馬氏の妻に化現した観音ということになっており、まったく同根の存在とみなしてもまちがいはなく[沢田,1959:p.37]、魚籃観音を馬郎婦観音と呼ぶ例もあった。
 東京都内には、この魚籃観音を本尊として祀る寺院がある。いうまでもなくそれは港区三田4-8-34にある魚籃寺(三田山水月院魚籃寺・浄土宗知恩院末)で(図9・10)、その門前の坂道は俗に魚籃坂と呼ばれてきた。
 
図9 江戸時代の魚藍寺(『江戸名所図会』より) 
 
図10 明治時代の魚藍寺(『新撰東京名所図会』より)

 魚籃寺は江戸時代には魚籃観音堂と称しており、『江戸砂子』には、次のような解説がなされている。

魚籃観音、三田、浄土宗、三田山魚籃寺。当本尊は唐仏也。当寺開山法誉上人回国の時、長崎の辺土にありしをもち来れると也。仏形、面相唐女のごとく、右の御手に籃に魚の入たるを持チ、左に天羽衣を持。立像八九寸ばかり也。貞享年中に開帳あり。そのヽちは秘仏にして常に拝する事なし。もろこし金舎檀(きんしゃだん)と云所の浦人、漁(しなとり)なく飢すべき時、一人の美女籃に魚を入レ持来りて、漁父の飢をたすけ、肌うすきものには衣をあたふ。漁父どもその美なるにまどひ、人みなこれを恋ふ。女の曰、此経を一日がほどに覚えたるにしたがふべしと、観音経をあたふ。おのおのそれにそみて皆人これを覚ゆ。しからば是を覚えたらんにはと、法華経を授くに、覚ゆるものなく、馬郎(ばろう)といふもの一人おぼへたり。扨こそ約のごとく妻となりて家にゆく。その夜にはかに大熱してかの女死ス。馬郎ふかくかなしみ骸を煙とす。その翌一人の老翁来り、かの女をとふ。それは過し夜死たりと云。老翁云、我はその父也、その跡を見すべしと。則つれてゆくに、灰中ことごとく舎利也。時に老翁、かの女は観音の化身也、我また分身のぼさつなりとうせぬ。馬郎即法に入て悟る。その魚籃を持たるすがたをうつして、魚籃の観音と号と也。[観音冥応集]馬郎婦観音ハ大唐ノ陝右ニ出現シ玉ヘリ。魚籃観音ハ本説ヲ見ズ。疑ラクハ霊照女ノ像ノ籃ヲ持セルヲ、謬(アヤマフ)テ魚籃観音ト号スルカ、馬郎婦ト魚籃ハ一ナランカ、下略。

というわけで、先の中国の仏教説話をここではそのまま伝えている。貧しい漁夫に魚をほどこして与える美女を、多くの男たちが妻にしようとこころみるが、それならば観音経をそらんじて見せよとの課題が出される。何とか皆がそれを達成してきたので、それならば今度は法華経を覚えてこいという。この難題をクリアできたのは馬郎ただ一人だったので、彼女は約束通りその妻になるのだが、すぐに死んでしまう。後日、おとずれた老翁は女の父で、彼女が観音の化身であったことを馬郎はようやく知り、これを魚籃観音となづけて深く信心するようになった、というのである。『江戸名所図会』にも、三田の魚籃観音堂の解説として、次のように同様な話を載せている。

同所淨閑寺といへる淨刹に安置す。本尊ハ木像にして六寸計あり。面相唐女のことくにして右の御手に魚籃を携、左の御手にハ天衣を持したまへり。縁起曰、唐元和年間(憲宗の年號なり)金沙灘(きんしゃたん)といへる地に一人の美婦の籃を持して魚を鬻くあり。見る人、其容貌の麗しきを競ふ。女の云く、我性佛經を悦ふ。若夫に通せむ人あらハ夫にせんと云。其中に馬氏なる人あり、是をよくす。依此女をむかへけるに、程なく死せり。馬氏悲に堪す、日を經て後、異僧來りて馬氏と共に塚を見るに、靈骨ことことく金鎖となりて光を放つ。是より其國こそりて三寶を崇ふとなむ。初金沙灘に應化まします妙相をあつめて魚籃觀音とハ號けたてまつる。爰に當寺の開山稱誉上人、自の師法誉上人肥州長崎に遊化の頃、一老婦より此靈像を感得し、元和三年丁巳豊前國中津といふ地に假に淨舎を營ミ、御座を構へて魚籃院と號す。竟に寛永七年庚午、三田の地に奉安せしを稱誉上人其地の所せ(ま)きを歎き、承應元年壬辰正に今の地に移し、當寺を建立す。爾より緇素(しそ)ますます渇仰し、衆人打群れて歩を運ぶにより、靈應いやまし、香煙常に風に靡き、梵唄(ぼんばい)うたヽ林にこたふ。

 冒頭にある浄閑寺とは、魚籃観音が安置された当初の寺の寺号で、いわば魚籃寺の前身だ。唐の金沙灘にいたという美婦は、ここでは魚を籠に入れてひさぐ行商女であったということになっている。女の死後、その父親である老僧とともに馬郎が、彼女の塚をのぞいて見たところ、その遺骨は金鎖となって光を放ったとある。『江戸砂子』の方では、女の遺骨は尊い舎利になったと記されていたが、こちらでは金の鎖に変じたとあることが重要で、聖なる遺骨が鎖のように連なっていたとする、中国のいわゆる「鎖骨菩薩」の伝承にこれは通じる。鎖骨菩薩の話は魚籃観音説話の原型となったもので、魚籃観音の話が唐の元和年間頃に生まれたと考えられるのに対し、鎖骨の方はその数十年前の大暦年間頃に成立しているから、こちらの方がはるかに古い[沢田,1959:p.39]。
 三田魚籃寺の本尊の由来はこのように、中国の仏教説話とともに語られてきたものであったから、その本尊そのものも中国渡来の唐仏とされている。『江戸砂子』によれば、それは丈8〜9寸ばかりの、『江戸名所図会』によれば6寸ほどの木像で、右手に魚籃を、左手に天衣を持つ姿の立像であったという。当寺開山の称誉上人の師であった法誉上人が長崎の地で、一老婦よりこの像を得て、1617年(元和3年)に豊前国中津円応寺の境内に草庵を設けてこれを祀り、魚籃院と号していたが、後の1630年(寛永7年)に江戸三田の地に進出したものの(願海寺の境内)、境内地が手狭だったので称誉上人が1652年(承應元年)、現在地へそれを移して独立を果たし、寺が開創されたということになっている。明治期の『新撰東京名所図会』には、「魚籃観世音は、三田?裏町拾九番地淨閑寺に在り。同寺は三田山と號す。世に魚籃寺と通稱す」と述べられており、そこからもわかるように、魚籃寺というのはもともと通称で、本来は三田山浄閑寺といったのだろう。三田山浄閑院魚籃寺と名乗ることも、またあった。
 なお『江戸砂子補正』を見ると、この唐仏はもともと、伊皿子長応寺の床の置物であった霊照姫の唐物を、浄閑寺がもらい受けて魚籃観音としたに過ぎないなどとも記されていて、随分話が違うのだが、魚籃寺の本尊仏は開創以来、秘仏とされているので、その真偽のほどは確かめようもない。もちろん毎年4月18日と7月9日の縁日には、本尊の開帳がなされることにはなっているが、拝観者側から見ると厨子の中は遠過ぎて、かつ暗く、しかも仏像そのものがあまりにも小さいので、よく見えない。真近な距離から拝ませてもらえたならば、すべてがはっきりすることだろうが、わからないままにしておいた方がよいのかも知れない。
 いずれにせよ、三田の魚籃寺は中国の仏教説話をそのまま直輸入して生まれた、そのゆかりの唯一の独立寺院なのであって、魚籃観音信仰のメッカとして位置づけられてきた。御詠歌には「身をわけて救う乙女の魚かごに誓の海の深きをぞ知る」と詠まれているが、古川柳にも魚籃寺の魚籃観音を詠んだものがあって、「魚籃様お使いがらという姿」・「魚籃近所かと頼光聞き給ひ」などという句が見られる[芝区役所(編),1938:p.1401;港区役所(編),1960:p.1046]。前者は魚籃を提げた御姿が、いかにもお使いに行くような格好だという意味、後者は渡辺綱の主人である源頼光が、お前の在所はあの魚籃観音の近所なのかとたずねた、という意味だ。頼光四天王の一人、渡辺綱は三田の生まれであるとされてきたのだった。民間信仰のうえでは、魚籃寺の魚籃観音は、東京湾岸の網元や漁師が大漁や海上安全を祈る祈願仏とされてきたといい[やまひこ社(編),1987:p.97]、手に魚籃を持つというその独特の姿が、漁師や船乗りたちに親近感を与え、そうした信心が生み出されていったであろうことは、おおいに考えられることだ。
 三田の魚籃寺のほかにも、この観音を祀る寺はいくらでもある。たとえば山形県鶴岡市の時宗寺院、円通寺は海にも近く、海中出現仏の千手観音を本尊とする信徒寺であるが、そうしたいきさつから豊漁・海上安全の祈願で知られる寺となった。立派な魚籃観音図がこの寺に祀られてきたのは、決して偶然ではなかった[禰宜田・高野(編),1994:p.16]。神奈川県鎌倉市の別願寺もまた時宗寺院で、当寺安置の魚籃観音は鎌倉三十三観音の第十三番札所に数えられている[同:p.110]。この例のように、観音巡礼の一環として魚籃観音が祀られるということもよくあって、新たな巡拝コースが設置されるにあたり、すべての札所に33種類の観音をひとつずつあてはめていかなくてはならないのだから、33ヶ寺の中のひとつに、必ず魚籃観音がなくてはならないことになる。
 ひとつの寺院のみで三十三観音を祀る例も近年はよくあり、あちこちでそれを見かけるけれども、境内や参道などに三十三観音の石像をずらりと並べたてている。それらの中にも必ず、一体の魚籃観音像があるはずだ。とはいえ、数ある観音の中でも、特に魚籃観音のみを選んで単独で祀る寺というのも時折はあり、一個人が自宅の庭などにその石像を祀る例すら稀には見られる。どう見てもあまり一般的とはいえない、少数派に属するような存在のこの観音をあえて選び、あつく信心するからには、何らかの特殊事情がそこにあったに違いないのだが、いまやもう、すっかりその由来やいきさつが忘れ去られてしまっていることが多く、くわしくはわかっていない。いずれにしても、その像容に欠かせない魚や魚籃というモチーフの存在は、漁業関係者や竹細工職人などの信仰に結びつきやすかったことだろうと、あらかじめ予想はされるものの、必ずしもそうでもない例もまた多く、何ともいえないといったところなのではなかったろうか。
 ここ東京都内を例にとると、魚籃観音は比較的多く見られるのであって、三田の魚籃寺以外のいくつかの事例も、次に紹介してみることにしよう。まずは、足立区千住4-27の長円寺(真義真言宗)のそれをあげることができるが、同寺境内の魚籃観音堂内に、その木像が祀られている(写真63)。
 

写真63 魚籃観音(東京都荒川区長円寺)

 魚籃観音堂は山門をくぐってすぐ左手にあり、誰もが気軽に参拝できる場所にそれはある。しかも堂の扉はつねに開扉されており、魚籃寺のように秘仏扱いをされているわけではないので、信徒にとってはきわめて身近な存在で、多くの人々がそこに立ち寄り、手を合わせていく。堂内に奉納されたおびただしい数の小絵馬は、それほど多くの信徒らに親しまれてきたことをよく示している。厨子の中に立つ魚籃観音像は、何とも優美で気品に満ちた顔立ちの貴婦人風で、右手に持った魚籃や肩から垂らした天衣の彫刻が実に微細である。独立した堂宇内に安置された木像の魚籃観音は、三田の魚籃寺以外では、これが都内唯一のものだろう。
 石仏の魚籃観音ということでは、文京区大塚5-40の護国寺のものが、まずあげられる(写真64)。


 

写真64 魚籃観音 (東京都文京区護国寺)
 護国寺の広い境内の一角にあたる、大師堂前の土手斜面上にこの石仏は立っているが、先の長円寺のものと違い、こちらはふくよかな顔立ちの中年婦人風だ。右手に持った魚籃の中には、ピンと尾をはねあげた鯛のような魚が見事に浮き彫りにされている。刻銘などはまったく見られないので、建年は判明しないものの、像容から見てそう古いものには見えず、近世期のものではないだろう。新宿区市ヶ谷柳町50にある宗円寺のそれは、本堂の正面に立っている小さな石像だ(写真65)。
 

写真65 魚籃観音(東京都新宿区宗円寺)
 これまた中年婦人風で、魚籃の中の魚は鱗1枚1枚に至るまで細かく彫刻されており、大きく長く強調されたその尾は、籠の中から大きくはみ出している。また、この宗円寺の例のように、魚籃観音というものはたいてい、女性が腰をひねって全身を大きくくねらせたポーズで表現されることが多く、先の長円寺の木像などにも、幾分その傾向が現われている。
 新宿区内にはもうひとつ、若葉2-8-6にある蓮乗院のものも知られており(写真66)、同寺の中庭にひっそりと祀られている。
  

写真66 魚籃観音(東京都新宿区蓮乗院)
 残念なことに戦時中の空襲被害を受け、胴の部分がぽっきりと折れてしまい、全身が二つに割れてしまったのだが、今ではセメントでつないで復元されている。老住職によれば、「当寺の魚籃観音は、お顔立ちがまことに美しく、都内の魚籃観音の中でももっとも美人」であるとのことで、なるほど確かに、気品に満ちた清楚な尊顔は何とも美しく、この私もその通りだと思う。けれども、これがどのような仏であるのかについて、老僧は歴代住職から何も聞いてはおらず、「魚を持っているので、魚の神様なのではないか?」と言われるのみなのだった。
国分寺市西町2-27-8にある観音寺のものは、境内の一角にまとめられた無縁の墓石群の中に、うずもれるようにして祀られている(写真67)。
  

写真67 魚籃観音(東京都国分寺市観音寺)
 もともとは檀家の個人墓の中にあったものを、墓地整理でここに移したものらしく、由来などはもうまったくわからない。頭部のヴェールを極端に大きく誇張した像容で、顔面はすでに風化しており、目鼻も定かではない。左右の手を胸の前でクロスし、左手で魚籃を持つ作例は珍しいものだろう。西東京市下保谷3-11-17にある日蓮宗寺院、福泉寺にある魚籃観音の場合は、「昭和二年夏五月 卅一日、大原タケ没」との刻銘が見られ、建年の判明する都内唯一のものだ。もとは文京区の護国寺にあり、当寺へ移されたものだといわれていて[保谷市史編さん委員会(編),1984.:pp.185-186]、そうだとしたならば、護国寺にはかつて2体の魚籃観音があったことになる。
渋谷区幡ヶ谷2-36-1にある浄土宗寺院、清岸寺の魚籃観音は、建年は判明しないものの、都内ではもっとも古い時代のものと思われる。かつては野ざらし状態だったが、近年、立派な祠が建てられ、今ではその中に安置されている(写真68)。
 

写真68 魚籃観音(東京都渋谷区清岸寺)
 「魚籃を持たず、天衣の下に魚を置」いた姿であると、渋谷区の調査報告書には述べられているが[渋谷区教育委員会(編),1977:p.22]、そのようなことはない。像をよく見ればわかるように、魚は丸い竹籠の中におさまっており、籠からは長い把手が伸びていて、両手でそれをつかんでいる。寺が立てた解説板には、「魚籃観音。三十三観音の一つ。魚の入った籃を持つお姿の観音様。悪鬼・毒竜などで例えられる暴悪な物、恐ろしい物の害を取り去って下さる観音様として知られている。大変古い観音像であり、渋谷区内では清岸寺だけにある」と述べられている。当寺の魚籃観音について寺に伝わる由来話を、住職夫人がいくつか私に語って下さったことがあるのだが、それは以下のような内容なのだった。

昔々、中国のある田舎の村に、魚売りの貧しい娘がいたそうです。毎日、魚を籠に入れて売り歩いては、生計を立てていたということです。とても美人だったので、男たちに人気があり、たくさんの男たちが妻にしたいといって、彼女に結婚を申し込んだのですが、簡単にはOKしなかったといいます。彼女は男たちに、ひとつの条件を出しました。「私は熱心な仏教徒ですから、同じ志を持つ相手でないと結婚できません。あなた方の中に、もしきちんと仏教の経典を読める人がいたならば、喜んで妻になりましょう」と言ったそうです。けれども、そんな人は滅多にいないので、なかなか首を縦に振らなかったんだそうです。この女の人は実は、観音様が魚売りに化身した姿だったそうで、そうやって観音様は魚売りの女に身をやつしながら、仏教の布教をしていたんだっていう話です。

 かなりの省略はあるものの、この話はすでに述べた中国の魚籃観音の説話とストーリーが共通しており、それを下敷きにしているということがわかる。住職夫人はさらにもうひとつ、こんな話も聞かせて下さった。

昔、極楽浄土で飼われていた鯉が、大雨の後の洪水で池から水があふれてしまった時に、逃げ出してしまったといいます。その鯉は下界に下っていって、長い間、極楽へ戻れずにいたそうです。何しろ極楽浄土にいた鯉ですから、神通力を持っていて、普通の鯉とは違います。その神通力で散々悪さをして人間に迷惑をかけ、時には大暴れをしたりしたので、みんなとても困っていたそうです。天の上からそれを見た観音様が、何とかしなくちゃいけないということで、その鯉を天上に連れ戻そうと思いたち、急いで下界へ降りてきたんだそうです。けれども、下界で鯉が大暴れをしていることを知ったのは、観音様がちょうど行水をしていた時で、大急ぎで下界へと向うことになりました。急いでいたので、身支度を整える暇もなく、髪の毛なども乱れたままで、衣を軽くはおっただけの恰好で、帯すら締めていなかったといいます。きちんとした姿ではなかったんですが、このお寺にある魚籃観音様も、そのために乱れた服装をしていて、きちんとした姿ではありません。手には魚籠を持っていますが、この籠の中に鯉をすくって入れて、そのまま天上へ帰っていかれたそうです。それが魚籃観音様の由来なのですが、同じような話が『西遊記』にも出ていて、孫悟空は魚籃観音様に助けられたということになっています。

 なるほど確かにこの話は『西遊記』の中に記されており、魚籃観音は中国の大冒険小説物語の中にも登場するのであって、英雄孫悟空もこの仏に助けられるのだ。平凡社版『西遊記』を見ると、第49話「三蔵災いありて水宅に沈み、観音難を救い魚籃を現ず」が、この話にあてられている。霊感大王との闘いに苦戦する孫悟空・猪八戒・沙悟淨らは、観音に助けを求めるのだが、そこでの観音は物語の中で、次のように描かれている。

紫竹の林にただひとり、残?(たけかわ)敷いて坐し給う、みどりの黒髪散り乱れ、珠の飾りも載かず、藍の袍(うわぎ)も着けられず、ただ一枚の肌着のみ、錦の袴は召さるれど、両のお御足むき出しに、肩掛けもなく帯もなく、白き腕(かいな)を露わして、玉の御手に小刀持ち、しきりに削る竹の皮[太田・鳥居(訳),1971:pp.425-426]

 観音はろくに身支度もせず、肌もあらわな姿で竹細工に励んでおり、迎えに来た悟空が「どうぞ衣をお召しになって下さい」と進めるのも断って、「衣などいりません。このまま行きましょう」と言って、出発する。帯すらろくに締めず、乱れた服装のままといった先の魚籃観音の姿の理由は、こうしてやって理解されることとなる。そうした姿で霊感大王の城まで飛んできた観音を見て、八戒・悟淨も「兄貴(悟空)はせっかちだから、南海でどんなにわめき散らしたのか知らん。化粧もしない菩薩をむりにせきたてて来たぞ」とつぶやくのだ。観音は空から魚籃を垂らし、さっそく魔物の退治にかかるが、話は次のように展開していく。

菩薩はすぐに、襖(うわぎ)を結んだ絹のしごきを解き、かごに結びつけた。そして、しごきを持って、半ば雲を踏まえ、河の中に投げこむと、上の方へ引きよせながら、「死んだものは去れ、生きたものは掛かれ」と頌を七へん唱えた。そしてかごを引き上げると、その中には光り輝く金魚がはねていた。(中略)これはもともと、うちの蓮池で飼っていた金魚だが、毎日、水の上に頭を出しては経を聞き、ついに技を磨いたのじゃ。あの九辨銅槌は、まだ開かない蓮の蕾で、あの金魚が錬成して得物としたものです。この魚は、いつか潮の満ちたのに乗じ、ここまで逃げて来たものとみえる。実はけさ、欄干にもたれて蓮の花を見ていたところ、こやつの姿が見えない。そこで指を折り指紋を数えて占ってみると、ここで精となり、そちたちの師匠(三蔵法師)をあやめようとしていることを知った。さっそく身づくろいもせず、神功を巡らし、竹かごを編んで、かれを捕えたわけなのじゃ[同:pp.426-427]

 先の清岸寺の話の中で、極楽浄土で飼われていた鯉というのは、このように実は天上の蓮池で経を聞き、神通力を得た金魚のことだったということが、やっとわかる。魚籃観音は雲の上からその金魚を籠ですくい捕えたということになる。孫悟空は人々を集め、この尊い観音を拝ませるのだが、その群衆の中に絵をよくする者がおり、この時の観音菩薩の御影を写したといい、それが後世に伝わる魚籃観音の御姿であったと伝えられる(図11)。平凡社版『西遊記』に載せられたこの挿絵は、内閣文庫蔵の李卓吾批評本から再録したものだという。
  

図11 『西遊記』に登場する魚藍観音[太田・鳥居(訳),1971:p.427]
 渋谷区の清岸寺に、魚籃観音説話と『西遊記』という、二つの中国の物語が伝えられてきたことは、まことに興味深い。この清岸寺の魚籃観音について、もう少し補足しておくことにしよう。清岸寺では近年、毎年8月24日に魚籃観音の祭りをおこなうようになり、守り札なども出して、参拝者を集めている。京王線沿線の33ヶ寺を結ぶ「京王三十三観音霊場詣り」という巡拝コースがあって、1935年頃に開創されたものらしいが[塚田,1989:pp.52-53]、その第二番札所に、当寺があげられている。清岸寺では長年、境内に立つ聖観音の銅仏を、その札所本尊としてきたのだったが、この銅仏は1973年に建立されたものなのだから、それ以前はどうなっていたのだろうということが問題となる。京王三十三観音の巡拝の最盛期は戦前で、その当時の巡拝経験者らにたずねてみたところ、「清岸寺の札所観音は小さな石仏で、境内に立っていた」と教えられたという。清岸寺の魚籃観音は本来の札所本尊だったわけで、石仏の魚籃観音が巡拝仏のひとつに数えられていたという例は珍しいだろう。そんなことも最近わかったのですよと、やはり住職夫人が教えて下さったことなども、ついでに記しておこう。
 東京都内には、ここで取り上げたもの以外にも、なおいくつかの魚籃観音が存在するが、それらはすべて石仏となっている。昭和戦後期〜平成時代に建てられた新しいものを別とすれば、台東区谷中の一乗寺、中野区上高田の功運寺、同区本町の福寿院などにそれがあるということも、あわせてここに記しておく。世の中には実に熱心な「魚籃観音マニア」もいて、自分自身で調べ上げた都内14ヶ所もの魚籃観音の写真をインターネット上で公開している人がおられる(「魚籃観音の研究」・http://riksys.web.fc2.com/jbk gyoran/kenkyu.html)。しかしながら、ウェブサイト上ではよくあることなのだが、この人もまた個人名を明かさないので、正式にここにその研究成果を引用できないのは残念なことだ。この私はというと、いわば「江戸東京の民間信仰マニア」なのでもあろうし、そのように人に呼ばれてもきているので、そのプライドにかけて、先のマニア氏ですら知り得なかった事例を最後にひとつ、ここに紹介してみよう。
 それは狛江市駒井町3-13にある北向地蔵堂にあるもので、本尊の地蔵尊の陰に隠れながら、堂内の片隅に立っている(写真69)。
  

写真62 忠治柳(長野県長野市権堂)
 ごく目立たない石仏なので誰の目にもとまらなかったものと思われるが、立派な魚籃観音であって彫刻も素晴らしく、名品といってよい。刻銘などはやはりなく、その由来伝承もいっさい地元には伝わっていない。足を棒にし、地を這うようにして各地を歩き回っていると、たまにはこういう発見をすることがあって、それもまたマニアならではの楽しみなのだ。
引用文献
長谷川誠市,1977「魚籃観音私考」『日本の石仏』bQ,日本石仏協会.
保谷市史編さん委員会(編),1984『保谷の石仏と石塔(2)』,保谷市役所.
金井塚正道,1977「近頃奇妙な石仏」『日本の石仏』bP,日本石仏協会.
港区役所(編),1960『港区史』上巻,港区役所.
長沢利明,2004「山梨市日川地区の信仰民俗(])」『アゼリア通信』134,有限会社長沢事務所.
禰宜田修然・高野 修,1994『時宗寺院名所記』,梅花書屋.
太田辰夫・鳥居久靖(訳),1971「西遊記(上)」『中国古典文学大系』Vol.60,平凡社.
沢田瑞穂,1959「魚籃観音―その説話と文芸―」『天理大学学報』30,天理大学出版部.
芝区役所(編),1938『芝区史』,東京市芝区役所.
渋谷区教育委員会(編),1977『渋谷区の文化財(石仏・金石文編)』,渋谷区教育委員会.
塚田芳雄,1989『江戸・東京札所事典』,下町タイムス社.
やまひこ社(編),1987『わがまち発見C―東京御利益案内―』,リブロポート.
 
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