西郊民俗談話会 

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連載 江戸東京歳時記をたずねて  8
   2017年12月号
長沢 利明
関のボロ市
 web上で表現できない文字は?となっております
(1)東京の三大ボロ市

いわゆるボロ市とは本来、古着市のことを言ったらしいが、不用品市・リサイクル市・骨董市といったニュアンスをも含んでいる。英語でいうところのラグ・フェア(rag fair)がそれにあたるということになろう。東京都内でいえば、世田谷・関・葛西のそれが特に有名で、都内三大ボロ市といってよいかも知れない。これらのうち、世田谷のボロ市についてはすでにくわしく述べたことがあるので[長沢,2008]、今回は関のボロ市について触れてみることにしよう。「関のボロ市」とは、練馬区関町に立つ年末市のことで、関の市・農具市・年の市・暮れの市・御会式の市などとも呼ばれており(写真59〜62)、練馬区の無形文化財にも指定されている。実際にその市に行ってみると、そこに立ち並ぶ露店の顔ぶれには独特なものがあり、都心部の寺社の祭礼時に立つ門前市とは、明らかにその様相を異にしていることがわかる。たとえば、どこに行っても見られる子供相手のタコ焼き屋とか、お好み焼き屋とかの類を、ここではあまり見かけないし、逆にここでしか見られないような珍しい業種の店々がいろいろ出ているので、私たちの目からすれば何とも珍しく、興味深くユニークであって、見物していてとても楽しいものがある。
一体、どこがユニークであるかといえば、出店している商人たちが、みな高齢者で一時代前の露天商といった雰囲気であり、どの店主も素人的で、それだけで生計を維持している專業者にはとても見えない。こんなガラクタのような物を売っていて一体誰が買うのか、こんな売り方でいいのか、果して売れているのか、と心配したくなるような商人たちがたくさんそこにいる。とはいえ、毎年そこに同じ店が同じように出ているところを見ると、そういうやり方がそれなりに成り立っていることもわかり、傍観者がいらぬ心配をする必要もないのだ。一言でいえばそれは、いかにもかつての農家相手の田舎っぽい農民市、悪く言えばガラクタ市なのであるが、このようなボロ市が首都の東京都内にも存在し続けてきたことは、単なる偶然ではない。大都市という巨大消費社会から、たえず供給されてくる不用品というものが大量にあったからこそ、それを受け入れて引き取り、リサイクルして活用したり、再商品化しようとするたくましい周辺地域の、素人商人たちの活躍の場も、そこにあったということなのだろう。
したがって、ボロ市というものは地方の純農村における単なる農民市ではなく、大都市の周辺農村部という特殊な条件下で成立した、その意味では意外に都市的な性格を帯びた季節市だったのではなかろうかと、この筆者などには思われるのだが、いかがなものだろうか。世田谷も関も葛西も、都心部からはかなり離れた近郊農村地帯に属していたものの、市の立つ場は地域の中心的な拠点集落で、都心部との経済的なつながりの維持されてきた土地柄だった。そして、そうした地理的条件に支えられて、三大ボロ市が成り立っていたのではないだろうか。関の場合、明治期の『東京府志料』によると「豊島氏石神井村ニ在城セシ頃、関ヲ置シ所ナリ。今モ猶、大関・小関等ノ名残レリ」とあり、中世に関所の置かれてきた地域の中心地とされてきたので関町(かつての関村)と呼ばれてきたのであったし、世田谷の場合は代官屋敷の門前が市立の場となっていた。明治時代のアナーキスト、幸徳秋水の残した記録によれば、その世田谷のボロ市で売られている古着の靴下などは、左右がばらばらで、とても履けたものではなかったという。とはいえ、もはや衣類としての役割をも果せなくなったボロボロの古着でさえ、買い取った農民はそれを裂いて布片にし、草履や草鞋に編み込んで活用しつつ、その履物を売って副業収入を得ていたのだ。藁製品の履物を作るのに、ボロ布は欠かせないものだったのだし、布を編み込んでいない草履や草鞋はすぐに壊れて持ちが悪い。ボロ市というものの存在価値を、そのような側面からとらえて見ることもできるだろう。

(2)本立寺と御会式

関のボロ市はもともと、法耀山本立寺という日蓮宗寺院(練馬区関町北4-16-3)の御会式法会の日に、その参道に立った門前市だった。御会式(おえしき)とは、宗祖日蓮聖人の命日忌の法会のことで、東京都内では大田区池上の本門寺や杉並区堀ノ内の妙法寺のそれが大変有名だ。日蓮聖人の入滅日は10月13日だったので、御会式はたいてい10月中におこなわれることになっており、本立寺のそれも近世期には10月28〜29日になされていた。いつしかそれが年末の方へとずらされていき、ついには今見るように12月の年末市になっていったということらしい。『新編武蔵風土記稿』には本立寺について、次のように記されている。
本立寺、法華宗新座郡小榑村妙福寺末。法耀山と号す。本尊三宝祖師を安す。開山日誉、寛永二年寂す。当時名主を勤めし政右衛門と云ひしもの開基せりと云。
本立寺の親寺である小榑村の妙福寺(現在の練馬区南大泉5-6-56)は、同宗の大きな寺院で、こちらの年末市の盛況さもまたよく知られていた。開山・開基についての記述は、後述するように誤記と思われるので、注意を要する。同書にはまた、近世の関村について以下のように記しており、先の『東京府志料』の記述は、これによったものであることもわかる。
当所は多磨・新座両郡の接界にて、古へ京都より奥州筋への街道掛り、豊島氏石神井に在城せし頃、関を構へし所なり。今も大関・小関等の小名あるは其遺跡なりと云。(中略)青梅道村内を貫けり。民家九十三。
当時の関村はこのように、93戸もの民戸を数える大きな村だった。なお、本立寺の概況については、1982年版『練馬区史(歴史編)』にもう少し詳しい解説が載せられているので、これも引用してみよう。
本立寺、法耀山。本山身延山久遠寺。本尊は日蓮聖人像(立像、嘉永六年大仏師三上萬吉作)。開山は文政八年六月の「寺附明細改帳」では「開祖真如院日與上人、法種山十一祖、慶安二己子四月十八日寂」とあり、続いて開基人として「清光院法耀、贈大徳、俗名井口忠兵衛、年月日未詳」と記している。「明細改帳」に日與、法種山十一祖としたり『新編武蔵風土記稿』に寛永二年寂としているのは、妙福寺内墓地の墓碑によって「第十祖日誉聖人、慶安二己丑歴四月十八日」と改むべきである。その後の状態は明らかではないが、住職のおおよその世代は辿れるし、開基井口忠兵衛の跡も今に連綿として関の地に繁栄している。今の本堂は昭和四三年一二月落成の近代建築となって、往年の檀中「惣数〆廿六軒」の藁葺本堂を想起するものは何もない。境内にあった番神は本堂内に祀られている。毎年一二月九日のお会式は特に賑わい、当日と翌一〇日の市には昔から近郷近在の人出が多く、「ボロ市」と呼ばれ、今に親しまれている[練馬区史編さん協議会(編),1982:p.963]。
ここに述べられているように、本立寺の開山は親寺の第10世日誉とするのが正しく、この僧は1649年(慶安2年)に没していて、その墓は妙福寺にある。開基もまた、当地の名主であった井口忠兵衛とすべきで、井口家は今も関町にある。当時の本立寺の檀家数は、26軒を数えたという。かつての本堂は藁葺屋根の建物だったが、現在の実にモダンな本堂は1968年に新築されたものだともある。なお山門は1982年、客殿は1997年、鐘楼は2000年に建立されている。境内に祀られていた三十番神は、今は本堂内に移されている。現在では12月9日〜10日におこなわれている御会式のボロ市についても、『練馬区史(歴史編)』には次のように記されているので、これも次に引用してみよう。
関の夜市、関のボロ市。一二月九、一〇日頃。関の本立寺のお会式で人出があるのでお店も出て関のぼろ市と言われている。赤飯をふかし、けんちん汁や煮物をにる。雑司ヶ谷の鬼子母神や大泉各地の日蓮宗の題目講等から、万灯の行列がくり出されたが、近年、本立寺では行われず妙福寺では盛んに実施されている。ぼろ市とは農家で必要な古着や農具の店が出たからである[練馬区史編さん協議会(編),1982:p.1035]。
市では農機具や古着が売られていたとあり、かつては豊島区雑司ヶ谷の法明寺(雑司ヶ谷鬼子母神堂)をはじめ、練馬区大泉方面に多い日蓮宗の諸寺院から、題目講中の万灯行列も繰り出してきたという。この万灯行列については、現在でも本立寺の檀信徒らの手で9日の夜におこなわれていて、「練供養(ねりくよう)」と呼ばれており、団扇太鼓を叩き鳴らしつつ盛況に題目を唱和しながら纏(まとい)を振る一団が、武蔵関町駅周辺まで行列行進することになっている。また、ボロ市の期間中には、はなやかに飾られた万灯が何本か、境内に飾られることにもなっている(写真62)。

 
写真59 関のボロ市@

 
写真60 関のボロ市A

 
写真61 本立寺@

 
写真62 本立寺A
 (3)『遊歴雑記』と農村市

関のボロ市のことは、江戸時代の『十方庵遊歴雑記』にも一応は記述されているのだが、それは次に掲げるような、たった2行ばかりの簡単な記述にとどまっている。
豊島郡關村法耀山本竜寺(日蓮)ハ、上にいふ小榑村妙福寺の末にて、毎年十月廿八日廿九日市立ちて諸商人來り集ふ事、壽福寺の市に髣髴たり。これみな會式の祭と聞ゆ。
ここには本立寺が「本竜寺」と誤記されているけれども、その程度の誤りはまだましな方で、1964年に刊行された『江戸叢書』版の『十方庵遊歴雑記』を見ると、これを「本覺寺」などと記している[江戸双書刊行会(編),1964:p.433]。『江戸叢書』版の『十方庵遊歴雑記』にはそのように、きわめて誤記が多いのであって、読むと致命的な誤りがゴロゴロと出てくる。よほどずさんな編集がなされたものと思われるので、あまり信用してはならない。三弥井書店版の影印本か、平凡社東洋文庫版の翻刻本を参照すべきだろう。
大変興味深いことに『十方庵遊歴雑記』を著した大浄敬順は、同書4編巻之下29項に「武州の内遊歴市の定日」と題して、武蔵国内一円とその周辺地域でおこなわれている主要な六斎市と寺社の縁日市との一覧をまとめている。これを見れば、近世後期の時代における武州周辺の定期市・門前市の実態がよくわかるので、参考までにそれを整理してみると、次表のようになる。ここには、基本的に月に2度おこなわれる六斎市が計32ヶ所ほど取り上げられているが、現在の東京都内のものについては、八王子の四八の市、青梅の二七の市、五日市(あきる野市)の五十の市の、わずか3ヶ所があげられているのみで、旧葛飾郡地域のものがなく、少々寂しい気もする。一方、寺社の縁日市としては計28ヶ所が取り上げられていて、主要なものはほぼ網羅されているのではなかろうか。


表2 『十方庵遊歴雑記』に見る武州各地の市


市の定日――市立の場所(現在の地名)

●六斎市
毎月四八の市――武州八王子(東京都八王子市)
毎月二七の市――武州本庄(埼玉県本庄市)
毎月一六の市――武州岩附(埼玉県さいたま市)
毎月四九の市――武州寄居(埼玉県大里郡寄居町)
毎月二七の市――武州熊谷(埼玉県熊谷市)
毎月三八・五十の市――武州八幡山(埼玉県本庄市)
毎月三八の市――武州鳩ヶ谷(埼玉県鳩ケ谷市)
毎月一六の市――武州行田(埼玉県行田市)
毎月五十の市――武州加須(埼玉県加須市)
毎月五十の市――武州松山(埼玉県東松山市)
毎月四九の市――武州騎西町(埼玉県北埼玉郡騎西町)
毎月二七の市――武州幸手(埼玉県北葛飾郡幸手町)
毎月一六の市――武州小川(埼玉県比企郡小川町)
毎月三八の市――武州野田(千葉県野田市)
毎月四九の市――武州鴻巣(埼玉県鴻巣市)
毎月五十の市――武州深谷(埼玉県深谷市)
毎月六十の市――武州飯能(埼玉県飯能市)
毎月二七の市――武州青梅(東京都青梅市)
毎月二七の市――武州越谷(埼玉県越谷市)
毎月四九の市――武州糟壁(埼玉県春日部市)
毎月一六の市――武州栗橋(埼玉県北葛飾郡栗橋町)
毎月五十の市――武州杉戸(埼玉県北葛飾郡杉戸町)
毎月三八の市――武州久喜(埼玉県久喜市)
毎月一六の市――武州吉川(埼玉県北葛飾郡吉川町)
毎月三八の市――武州所澤(埼玉県所沢市)
毎月五十の市――武州五日市(東京都あきる野市)
毎月一六の市――武州宝珠花(埼玉県春日部市)
毎月二七の市――武州小鹿野(埼玉県秩父郡小鹿野町)
毎月四九の市――秩父大宮(埼玉県秩父市)
毎月一六の市――秩父よしの町(埼玉県さいたま市)
毎月三八の市――武州與野(埼玉県さいたま市)
毎月二七の市――武州引股(埼玉県志木市)

●縁日市
十月十六日――武州慈恩寺(埼玉県さいたま市慈恩寺)
十一月三日――秩父大宮の妙見(埼玉県秩父市秩父神社)
毎月十三日――池上本門寺(東京都大田区本門寺)
毎月十三日――武州堀の内(東京都杉並区妙法寺)
十一月八日より十二日迄――武州影向寺(神奈川県川崎市影向寺)
正月廿八日――武州不動岡(埼玉県加須市総願寺)
二月廿一日――武州北野天神(埼玉県所沢市北野)
毎月廿一日――武州大師河原(神奈川県川崎市平間寺)
五月五日大晦日――武州府中六社(東京都府中市大国魂神社)
正五九十二月廿八日――目黒不動(東京都目黒区瀧泉寺)
三月廿七日廿八日――武州青梅住吉(東京都青梅市住吉神社)
三月九月十日酉日――武州鷲の宮(埼玉県北葛飾郡鷲宮町鷲宮神社)
十二月十日――武州大宮驛の一の宮(埼玉県さいたま市氷川神社)
正月廿五日――武州河越天満宮(埼玉県川越市三芳野神社)
正月廿八日――武州大相模不動(神奈川県伊勢原市大山寺)
十月十四日――武州八王子十夜(東京都八王子市大善寺)
毎月廿一日――西新井村大師(東京都足立区総持寺)
二月初午――武州松山稲荷(埼玉県東松山市箭弓稲荷神社)
正月十月十日――武州矢口明神(東京都大田区新田神社)
九月廿日廿一日――武州大宮八幡の市(東京都杉並区大宮八幡宮)
十月九日十日――土支田妙福寺(東京都練馬区妙福寺)
十月廿八廿九日――武州關村本龍寺(東京都練馬区本立寺)
九月九日十日――金町香取明神(東京都葛飾区香取神社)
二月十八日七月十日十二月十日十八日――武州吹上観音市(埼玉県和光市吹上観音堂)
二月三日――武州織本の淡しま(神奈川県横浜市淡島神社)
七月十三日――武州八王子の宮(東京都八王子市子安神社)
九月十五日――川越氷川明神祭(埼玉県川越市氷川神社)
九月廿九日――本庄驛カナサ大明神(埼玉県金讃神社)

これらの縁日市のうち、法華寺院の門前市としては、池上の本門寺と堀ノ内の妙法寺のそれが当然あげられており、いずれも毎月13日の定期市となっているが、宗祖の命日忌である10月の御会式にともなう季節市としては、現在の練馬区内から妙福寺と本立寺の二つのみが、あえてあげられていることには注目されよう。練馬の御会式市はそれほど盛況なものだったということだろう。妙福寺の市は大浄敬順も実際に見ており、『十方庵遊歴雑記』4編巻之下43項に「新座郡小榑村妙福寺の市」と題して、その見物記を載せている。なぜ彼がわざわざそれを見にいったのかというと、彼の住んでいた江戸小日向の庵に出入りしていた土支田村(小榑村の隣村)の農夫、平右衛門に招待されたからだ。平右衛門は敬順にこう言ったという。「小榑村の妙福寺の市は、それはそれはにぎやかなもので、吹上観音の市など比ではありません。市の立つ10月9〜10日の両日、近郷の農民らはみな耕作を休み、御会式に参拝して遊ぶのです。もし、あなたが見物に来られるのでしたら、私は餅をつき、蕎麦を打って御馳走致しましょう。麦飯も炊きましょう。ぜひ、泊まりがけでいらっしゃいませんか」。平右衛門の強いすすめに応じ、敬順が妙福寺の市を見物にやってきたのは、1822年(文政5年)10月9〜10日のことなのだった。
平右衛門に案内されつつ見物した妙福寺の市は、聞きしにまさる盛況さであったが、その時に敬順は、こうしたまことににぎやかな市は、この地方にいくつかある他の法華寺院でも同様になされているということを、平右衛門から聞いた。たとえば、練馬中ノ宮の寿福寺、関村の本立寺の市もまた、なかなかに素晴らしいものであったといい、しかもそれらはいずれも御会式にともなう門前市として、10月中に連続しておこなわれていたのだ。そこで敬順は表2の縁日市の一覧の中に、本立寺の市もつけ加えておいたのだろう。そちらの市については、先の2行ほどの記述を残したのみにとどまっているが、もちろん彼は本立寺の市を実際に見たわけではなかった。とはいえ、彼の記述により、現在の練馬方面に日蓮宗寺院が数多くあって法華信仰の中心地をなしており、秋の御会式が連続的になされていて、それぞれの門前市もさかんにおこなわれていたのだということを、今私たちは充分に知ることができる。

(4)今日の関のボロ市

さて最後になってしまったけれども、現代の関のボロ市がどのような形で例年、開催されているのかということについて、ここからは述べていってみる。冒頭にも触れた通り、この市は他所の門前市に比べるとなかなかユニークなものを持っていて、かつての素朴な農民市・ボロ市の雰囲気をよく伝えており、一見の価値があることは確かだ。とはいえ、近年の急速な社会の変化は、いつまでもそうしたものの存在を許してはおかない。もともとが農家相手の市だったので、周辺地域の都市化を通じ、農家の数が激減していくにつれ、市もまた衰退していかざるを得ず、往時に比べれば市の規模は随分小さくなったともいわれている[佐藤,1988:pp.22-23]。戦前期における市のにぎわいは、まったく今との比ではなかったといわれているし、当時は市の余興として相撲の興業などもおこなわれ、芝居やサーカスの小屋まで立ったという。
現在の関のボロ市は、それでも約300軒もの出店があり、人出は約8万人にのぼるとされているものの、戦前はもっともっと盛況なものだったのだろう。関町周辺がすっかり都市化されてしまった今、地域の周辺はいまやとても農村地帯とはいえなくなった。そこに立つ市もまた、いつまでもかつてのような、古着屋や古道具屋ばかりが出る市であり続けるというわけにも当然いかない。どこにでも出ているごく一般的な露店がしだいに増えていくようにもなった、という近年の傾向もまた否定はできない。しかし、それでもなおボロ市の雰囲気は、きわめてよく残されているのであって、今はおそらくその過渡期の時代にあるのだろう。1980年代前半の頃のものと思われる新聞記事を見ると、その過渡期の様子が次のように述べられているので、引用してみよう。
江戸中期から続く練馬の師走の風物詩「関のボロ市」が九、十日、練馬区関町北の本立寺で開かれた。ボロ市は同寺の御会式の門前市の俗称で、昔は古着や古物を売る店が多かった。最近は古着などは姿を消し、竹細工や農具を並べる店が数店出て面影を残すだけだったが、今年は久しぶりに古着や古道具、古美術店が並び、ちょっぴりボロ市が復活。門前に続く約二百メートルの道路には、五十円の茶碗、百円のLPなどから、二百年前のインドの宝石箱(店主)、七万円までと古いものなら何でも並べられた。このほか、焼きそば、たこ焼、おもちゃ、干物など約二百五十の露店が軒を並べ、家族連れやお年寄りのグループなどでにぎわった。十五、十六日には世田谷でも「世田谷のボロ市」が開かれる[読売新聞社(編),n.d.]。
市の近代化が進んでいたこの時代にあって、どういうわけか久しぶりに古着屋や古道具屋、古美術店などが立ち並ぶようになり、かつてのボロ市の姿が復活したとあるのは興味深い変化だ。なぜそういうことになったのかはよくわからないが、1個50円の茶碗や100円のLPレコードが売られているというのは、何ともおもしろい。その一方で、焼きそば屋やタコ焼き屋などの普通の店も出るようになってきたともいい、新たな変化もやはり現れている。1988年の新聞記事についても、次に引用してみよう。
練馬区関町北四丁目にある本立寺(ほんりゅうじ)。慶安年間(1648〜52)、日誉上人開山と伝える日蓮宗の寺で、ご本尊は旭日日蓮大菩薩。一般には「出世開運のお祖師さま」として人気がある。とくに、十二月九日の「お会式」には、多くの信者や参詣人が集まる。そのお会式にちなんで、門前の通りに開かれるのが「関のボロ市」。約三百年の伝統があるといわれ、今もこの市を見ないと暮れがきた感じがしないという人も多い。同名の市では先輩格の世田谷のボロ市(15、16日)と同様、ここでもかつては、近郷近在の農家の人たちの野良着用や修繕用の古着、ボロが並び新年用備品、農具が売られたという。が、今はさすがにボロは出ない。例年、九日夕方から翌十日、門前の通りに三百軒前後の各種露店が並ぶ。最近では、どこにでもよく出る、タコ焼き、お好み焼き、ダンゴ、あんずあめ、オモチャといった縁日露店が大半を占める。が、それでもセトモノのたたき売り、和凧(だこ)、暦、梅の鉢や福寿草などの植木、と暮れ市らしい売り物もがんばっている。さらに、ウスやキネ、のこ、クワやカマ、そして竹かごやざるを山積みした店など十軒ほど並んで、昔のボロ市風情を楽しませてくれる[中原,1988]。
この筆者が初めて関のボロ市を見学したのは1989年のことで、この新聞記事が書かれたのとほぼ同時期のことだった(写真63〜70)。市の様子はおおむね記事の通りだったが、特に筆者の印象に強く残ったのはやはり、20軒近くも出ている古道具屋たちであって、彼らはいずれも参道沿いにではなく、本立寺の境内と西側参道周辺に集中して出店しており、一番広い出店場所を与えられていて、どう見ても市の主役となっていた。出店とはいっても、テントも屋根も商品棚もなく、ただ地べたに古道具を無造作に並べて売っているに過ぎず、雨が降ったならばどうするのだろうか。そこでの売り物たるや、古びた瀬戸物の茶碗や皿の類、鍋釜から家具類、台所の炊事用具に至るまで、ありとあらゆる中古品を並べていて、解体される農家の中からそっくり生活道具類をそのまま移して運び込んだかのごとくで、まさにこれはガラクタ市そのものだ。とはいえそれは、「骨董市」とか「蚤の市」とか呼ぶほどには洗練されておらず、まるで遺品整理の処分市なのではないかと思われるほどの雰囲気だ(写真63〜64)。
 
写真63 不用品屋

 
写真64 骨董屋

もちろん、「骨董品」と呼ぶに値する物品類もそこでは多く売られていて、掛軸や壺や甕、大皿や置物の類、中古レコードや人形なども所せましと並べられているが、値打ちのある掘り出し物に出合う機会はあまりなさそうだ。古着屋もまた何軒か出ているが、背広やコートなどの紳士服、ドレスや振袖などの婦人服が中心で洋服が多い。ボロ布に裂いて草履に編み込むための古着といったものは、さすがに今では見かけない。これらの古道具屋・古着屋の店々の立ち並ぶ風情は、何ともひなびた雰囲気で垢抜けしないものであるとはいうものの、まさにこれこそがボロ市といえるものなのだし、それを見物する私たちにとっては、どこにでもある普通の門前市よりはよほど楽しい。彼らが今でもなお、市の主役であり続けていることは、誠に素晴らしいことでもあるのだ。

(5)ボロ市の魅力

筆者の見た1989年12月9日のボロ市の様子について、もう少し触れてみよう。2日間の市の初日にあたるこの日の午後、本立寺では御会式の法要も挙行されていたが、正式にはこれを「御影講法会式(みえいこうほうえしき)」と呼ぶ。法要の終った午後3時頃からは、本堂内で住職による法話もなされていた。門前市の露店は、西武新宿線武蔵関駅の駅前から東京女学院高校前に至るまでの、本立寺の参道沿いに多く出ているが、店々はぎっしりと隙間なく並ぶほどではなく、ゆったりとまばらな感じで出ており、出店の総数はさほどに多くはない。参道沿いに出ている店々の場合、先の古道具屋や古着屋などの類はまったく見られず、花屋や瀬戸物屋などが中心で、花は年末とあってシクラメンが多く、瀬戸物はもちろん新品が売られている。農機具屋が5〜6軒、竹籠屋が2軒、鋸屋が2軒出ているのはおもしろいが、これらの店々のただずまいを眺めていると、何となく府中市の大国魂神社で大晦日の一日だけ立つ、「府中の晦日市」と雰囲気がよく似ているなと筆者には感じられた[長沢,2006:pp.1-9]。それもそのはずで農機具屋も竹籠屋も鋸屋も、実はみな府中の方と同じ店々なのだ。店主の顔を見ると、どれも府中の市で見たのと同じ人々で、筆者はもうすっかり彼らの顔を覚えてしまっているので、すぐにわかる。彼らは12月9日〜10日に関町の市で商売をした後、大晦日には府中の市へ移動するということがわかるのだが、おそらくはその間にも多分、調布市の布田天神社の納め市(12月25日)などでも、店を出すのではなかろうか。
農機具屋の売物は鍬・鎌・ジョレン・畦掻き・臼・杵・蒸籠など(写真65)、竹籠屋の場合は熊手・竹箒・ザル・目籠・平籠・腰籠などの類だった(写真66〜67)。鋸屋は調布市の「二見屋」の出店だ(写真68)。
 
写真65 農機具屋

 
写真66 籠屋

 
写真67 籃屋 
 有名な店であり、「二見屋の鋸」といえば多摩地域の農家で知らぬ人はいない。その支店は府中市や世田谷区などにもあり、鋸のみならず広く金物一般をも扱っている。年末ということで神具屋も2軒ほど出ているが、神棚・御神酒徳利・小絵馬などを売っており、これも府中の晦日市や薬研堀の年末市などでよく目にする。他所の市ではまず見られないのが、スリコギ屋と川魚屋だろう(写真69〜70)。
  
写真69 すりこぎ屋

 
写真70 川魚屋
 スリコギはサンショウの太枝を削って作られたもので、サンショウの木の樹皮に見られる独特のイボイボをあえて残し、擂鉢を摺る時の手の滑り止めとしている。スリコギは、サンショウの木で作ったものがもっともよいとされるのは、木に含まれる薬用成分が削られることによって食べ物に添加されるからだといわれており、この店の貼り紙にも、「中毒・中風などの病気除け」・「一家に一本魔除け棒」などと書かれている。魔除け棒というのは、イボだらけのスリコギ棒を、おそらく鬼の金棒に見立てているのだろう。
川魚屋のおもな売り物は、生きた信州産の大きな鯉で、注文があればその場でさばいてくれる。刺身ではなく鯉こくのさばき方であって、内臓も抜いてくれるが、希望すれば肝(心臓)を取り出し、一杯の冷酒に入れて客にその場で呑ませてくれることになっており、それはまったくのサービスなのだ。鯉の肝を酒とともに呑み込むと、すぐれた精力剤になるという。生きたモロコもザル1杯1000円で売られているが、モロコというのは河川や湖沼に棲む小魚で、唐揚げにするとおいしい。ザリガニ(1匹200円)・カラスガイ(1個500円)・タニシ(1個100円)を売る川魚屋というのも、ほかには見られないことだろう。生きたタニシの稚貝は、食用にしてもよいが、飼育をすれば水槽内のゴミを食べてくれるという。なぜか金魚なども一緒に売られており、まるでペットショップのようだ。
上州名物の焼き饅頭を売る店、ちぎり揚げといって魚のすり身を小さくちぎり、その場で揚げて客に食べさせる店、などなどもおもしろい。子供相手の駄菓子屋・おもちゃ屋なども増えてきているのだが、近年のはやりといえるのはくじ引き屋で出店数も多く、子供らにも人気がある。1回100円でくじを引き、そこに記されている番号の景品をもらうのだが、ろくなものはもらえない。特賞の景品として立派なラジカセなどが置かれているけれども、本当に当たるのだろうか。
市の主役は先にも述べた通り、何といっても古道具屋や古着屋なのだが、それ以外にもこのようにおもしろい店がいろいろあり、他所ではまず見られないものばかりなので、見ていて飽きない。まさにそれこそが関のボロ市の魅力なのだといえる。このユニークな露天市が、いつまで続くのかはわからないが、おそらくは今後、お好み焼き屋とかフランクフルト屋とかチョコバナナ屋とかの、子供相手の店々が主流になっていくのだろう。それはもう目に見えているし、遠からずそうになっていくだろうことは、想像するにかたくない。いつの日にかそれが、どこででも見られるありきたりの、平凡な市になってしまった時、私たちは大きなものをまたひとつ失ったことになるのだ。
引用文献
江戸双書刊行会(編),1964「遊歴雑記」『江戸叢書』Vol.6,名著刊行会.
長沢利明,2006「江戸東京歳時記をあるく(第51回)―大国魂神社の晦日市―」『柏書房ホームページ』2006年12月号,柏書房.
長沢利明,2008「世田谷のボロ市の発達史と現況」『国立歴史民俗博物館研究報告』145,国立歴史民俗博物館.
中原幹生,1988「街かど歳時記―関のボロ市―」『読売新聞』12月7日号夕刊都民版,読売新聞社.
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読売新聞社(編),n.d.「くらし歳時記―門前で『関のボロ市』―」『読売新聞』掲載号不詳都民版,読売新聞社.
 
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