西郊民俗談話会 

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連載 「環境民俗学ノート」 6  2011年4月号
長沢 利明
カキを育てる森林

(1)「森は海の恋人」運動
 2011年3月11日に発生した東日本大震災の犠牲者・行方不明者数は2万7千人を越え、生存者の多くはなお避難所生活を強いられていて、被災地での救助・救援活動は今も続けられている。目もあてられぬようなこの惨状を前にして、私たちもまた言葉も出ないほどの衝撃を受けた。地震・津波・火災の災禍に蹂躙され、市街地や集落そのものが消滅してしまった町や村は数多いが、とりわけ気になるのは宮城県気仙沼湾の沿岸漁民たちの安否である。そこには畠山重篤氏(本吉郡唐桑町在住)というすぐれた地域リーダーがおられ、「森は海の恋人」運動という大変ユニークな実践活動の発案者であった[畠山,1994;2000;2010]。それはどんな運動であったかというと、日頃は海で漁業に従事している漁師たちが陸にのぼり、山に樹を植えて広葉樹林を復活させ、そのことを通じて豊かな海を育てようとするくわだてなのだった。このこころみの背後には、森と海とは実は見えない環でつながっている、豊かな森林があれば海もまた豊かになる、という考え方が存在し、それ自体すぐれた発見(再発見)なのであるが、さらにすぐれていたのはその行動力・実行力であり、漁師たちが本当に山に登って本気で植樹活動を始めたということである。畠山氏は気仙沼湾を操業の場とするカキの養殖漁師である(写真11)。
  
写真11 震災前の気仙沼港に浮かぶ4000台のカキの養殖筏
 今回の大災害でおそらく、同氏らの養殖施設・漁船などはことごとく失われたことだろう。何とか頑張ってこの苦難を乗り越え、立ち直って欲しいと願わずにはいられないし、この運動の灯を消してはならない。この私に唯一できることは、この運動のことをここで取り上げて多くの人々に知ってもらい、支援拡大のための一助とすることである。
 畠山氏らの運動はそもそも、漁師としていかにすぐれた養殖ガキを生産していくべきかを自問しつつ、真剣にそれを追求・研究していく中から始まった。畠山氏はまず、日本と並ぶカキ養殖の先進地であるフランスへの視察調査を1984年にこころみる。最初に訪れたラングドック地方は地中海岸の重要なカキの産地で、リヨンやアビニヨンの町を経て地中海に注ぐローヌ川の河口部がその養殖地となっていた。日本にたとえれば宮城県の北上川河口部や広島県の太田川河口部が、重要なカキの養殖地となっていることと共通する。次にたずねた大西洋岸ボルドーの町にもジロンド川という大河が流れていてビスケー湾に注ぎ、その河口部に近いアルカッシヨン湾で大規模なカキの養殖がなされていた。最後におとずれたブルターニュ地方にも、ナントの町を流れるロアール川があって、その河口干潟がカキの養殖地となっていた。しかもロアール川の上流には広葉樹で構成される大森林地帯があって、ブロワの森・リュシーの森・アンボワーズの森・シノンの森などと呼ばれており、その素晴らしい大自然が下流の海の豊かさをもたらしているらしい。すぐれたカキの産地には必ず大河が海に注いでおり、その上流には広大な森林地帯がある、豊かな森と海とがあって川がそれらをつないでいる、そのような環境下でこそカキは健康的によく育つのだ、ということを畠山氏は感じ取り、確信するに至った。ところが帰国後に気仙沼湾の海をあらためて見直してみると、愕然とせざるを得ない。海岸はほとんど人工護岸で固められ、干潟はすべて埋め立てられてしまっており、気仙沼湾に流れ込む大川の上流をさかのぼってみると、山は荒れ果てて人工林に覆われており、ダム計画まで持ち上がっていた。フランスのカキ産地を取り巻く豊かな自然環境と比べ、あまりにも貧しい自然の姿がそこにある。豊かな海を取り戻すには豊かな森を上流に復活させねばならない、海に生業の場を持つ漁師たちこそが山に樹を植える森造りの先兵にならねばならない。畠山氏の決意は漁師仲間に共有されることとなり、「牡蠣の森を慕う会」が結成されて1989年から、漁師たちが大川の源流部にあたる岩手県の室根山に、ブナ・ミズナラ・ミズキなどの落葉広葉樹の苗木を植える運動が開始されるに至った[読売新聞社(編),2005]。
 山仕事とは無縁な海の男たちが船を降りて山に登り、慣れない手つきで一生懸命に植樹を行う姿は、当初は滑稽に見えたかもしれない。しかし、この運動はやがて上流岩手県側の林業家たちにも理解されるところとなり、室根村森林組合の協力を得られるまでに発展して、漁師らの作った植林地は「カキの森」、植樹運動は「森は海の恋人運動」と名づけられるようになった。カキの森とは室根村より提供された4haの村有林で[四津,1997:p.155]、年々の植樹を通じて少しずつ広葉樹林が復活しつつある。植樹運動は20年にも及び、2009年にはNPO法人化され[読売新聞社(編),2010]、地元小学生らも多く参加するようになったし、逆に岩手県域側の山の子供たちも、体験学習で気仙沼湾のカキ養殖場をおとずれるようになって、その参加者はのべ1万人にも達している[畠山,2010:p.81]。山と海との間の人の交流もが、生み出されていったのである。気仙沼湾から始まった「森は海の恋人運動」は、今では広島県広島湾のカキ養殖地、北海道常呂地方のホタテガイ養殖地などでも行われるようになった[四津,1997:p.40]。

(2)日本の食用ガキ
 ところで、畠山氏らが養殖しておられるカキとは一体どのような海産物で、どのようにしてそれを養殖するのか、といったことも少し見ておこう。
 表7 
 食用ガキにはいろいろな種類があるが(表7)、私たちが日頃もっぱら食べ、市場に流通しているカキの99%は実は、マガキCrassostrea gigas (Thunberg)という種類で、その99%は養殖品である。学名のCrassostreaはラテン語でカキのこと、gigasは大きいという意味であるから、「大きなカキ」となる。日本の養殖マガキは確かに大型で食用部分も多く、食用資源としてすぐれているうえに、味もまたよい。同じマガキでも、北海道の泥深い内湾産のものは著しく殻が細長くてナガガキ・エゾガキと呼ばれ、九州の干潟の潮間帯に棲む殻が小型で重厚なものはシカメガキと呼ばれるが、種としてはみな同種である。イワガキCrassostrea nippona (Seki)の学名は「日本のカキ」という意味で、日本海側のおもに秋田・山形県で漁獲されるが、鳥取県隠岐島などで近年、養殖がなされるようになったものの、ほとんどは天然物である(写真12)。
 



写真12 マガキ(むかって右)とイワガキ(左)
 マガキと違って潮間帯よりも深い海中に棲み、干潮時に海面上に現れることがないので、漁師が海に潜って採取しなければならず、ために高価なカキであり、1個で500〜1000円近くする。東京では高級料亭などに少量出荷されるのみで、スーパーなどに出回ることはありえず、産地に出向かねばまず食べることはできない。イタボガキ・コケゴロモガキ・スミノエガキもまた、西日本の海岸部でごく少量、地元消費されているに過ぎない。この私は秋田で食べたイワガキ、九州有明海で食べたイタボガキ・スミノエガキのおいしさを忘れることができず、養殖マガキよりもずっとうまいと感じたけれども、仙台で食べた三陸産マガキのワサビ醤油で食べる刺身もまた絶品で、甲乙つけるのは誠に難しい。
 最近は外国産のカキも多く輸入されるようになり、ヨーロッパガキ・アメリカガキ・オーストラリアガキ・チチカケガキ・ボンベイガキなどが流通するようになった。フランス産のヨーロッパガキは、フランス料理店で食べることができるし、今では国内で養殖もされている。とはいえ欧米ではいまや、日本のマガキの種貝が各国に導入されて主流になりつつあり、区別をするためにアメリカでは在来のアメリカガキをOlympia種、日本のマガキをPacific種などと呼んでいる。熊本県産のマガキ(シカメガキ)もアメリカ西海岸のカキ養殖場に導入され、Kumamotoと呼ばれている[片山,2008]。欧米でのカキの養殖法は、稚貝を干潟に放流して1〜2後に漁獲するというやり方が一般的で、前節で取り上げた日本の東京湾におけるかつての伝統的なハマグリの養殖法にも似ている。これに対し、わが国で生み出されてきた伝統的なカキの養殖法は垂下式と呼ばれるもので、9m×5.5mもある巨大な養殖筏を海に浮かべ、そこから海中に約150本の綱を垂らすが、1本の綱は長さ約9mほどで、そこには種ガキ(稚貝)を付着させたホタテガイの貝殻が30個ほどはさみ込まれている。ホタテガイの貝殻はカキが付着して育つための土台となるわけで、コレクター(付着器)と呼ばれているが、1枚のコレクターに30個ほどのカキがへばりついて育つ。養殖には餌などは与えず、カキはただ海中の植物プランクトンを食べて大きくなる。漁師はカキの成長に合わせて、養殖筏を内湾から沖合に、沖合から河口へと順次移動させては生育をうながす。2年後には収穫期となり、筏上から綱を引き揚げるが、1本の綱には1塊30個のカキが30枚のコレクターに付着していて、その綱が150本あるわけだから、ひとつの筏あたり30個×30塊×150本分=13,500個ほどのカキが獲れることとなり、目方でいえば1塊30個の重量が約5sであるから5s×30塊=150sが綱1本あたりの収穫量で、これを2人の力で海上に引き揚げるのは大変な重労働であった(今は機械で引き揚げる)。ひとつの筏あたりの水揚量は150s×150本分=22.5tに達する。この日本式のカキ養殖法は大変すぐれた技術なのであって、いまや世界標準となりつつあり、アメリカでもヨーロッパでもこの方式が広く普及している。そこで養殖されるカキも日本のマガキがさかんに導入されていて、特に宮城県石巻市万石浦で育てられた「宮城種(みやぎだね)」と呼ばれる種ガキが世界中に出荷されているのである[畠山,2000:pp.44-59]。
 現在欧米で食べられているオイスターの多くが、そのようにして日本を故郷とするマガキに取って代わられつつあるわけで、日本のマガキとその養殖技術の素晴らしさが証明されたといえるだろう。もちろん欧米でもカキは古くからさかんに食されてきたし、イギリスでは昔から「r」の付く月にカキを食べるものといわれていて、January・February・March・April・September・October・November・Decemberがそれにあたる。要するに5〜8月の産卵期にはカキを食べるなというのであるが、わが国でもそれはほぼ同じで、この時季のマガキは身がやせほそり、殻の中は卵塊でドロドロになってしまうし、夏場なので貝毒や大腸菌を持つこともあるので生ガキはやめた方がよく、食べるにしても火を通した方がよい。カキの旬はもちろん冬で、産卵期を控えて体内に栄養分を蓄積し、丸々と身が肥えて旨みも増しており、生ガキでも土手鍋でもカキフライでも、何でもうまい。しかし、それはカキの中でもマガキについていえることであり、イワガキのように夏に食べるカキもある。イワガキは産卵期にも卵塊が大きくならず、夏でも身が痩せることがない。だから、その主な産地である秋田・山形県などではイワガキのことを夏ガキと呼んでいるし、岩手県大船渡市赤崎では近年、マガキを「赤崎冬香(あかざきとうか)」、イワガキを「赤崎旬香(あかざきしゅんか)」と称して地域ブランド化をはかっている[萬,2010]。
 イワガキの全国最大の産地として知られるのは、秋田県にかほ市の象潟地区である。ここで獲れる夏ガキとしてのイワガキは殻の大きさが10〜15pもあり、身が大振りで味覚も絶品であり、象潟のイワガキといえば最高級品とされてきた。7月に入るとその素潜り漁が最盛期を迎えるが、深さ5〜15mもの海底に5個ほどが塊になってへばりついているイワガキを、海に潜った漁師が手作業で剥ぎ取って来る。先に述べたように象潟のイワガキはすべて天然物で養殖がなされておらず、しかも素潜り漁で獲らねばならないので、多く出荷できないうえに価格も高い。しかし、7月上旬〜8月下旬の漁期に象潟の現地に行くと、海辺の鮮魚店ならどこでも店先で串刺しを売り出すので、私たちもそれを食べることができる。一体どうして象潟の海で、それほど育ちがよく味にも優れたイワガキが獲れるのだろう。地元漁師の語るところによると、象潟の海を見下ろしてそびえ立つ鳥海山のおかげであるという。鳥海山の全山を覆うブナ林の深い森林がまずあり、そこから流れ出た伏流水が海に流れ込み、豊富な栄養分を含んだその水が海中に湧出して海を豊かにしてくれるので、象潟のイワガキは最高級の夏ガキに育つのだという。すなわち、山の森林が海のカキを育ててくれるという最初のテーマがここにも見られ、気仙沼湾の漁師たちの運動にもつながっていくのである。
  
(3)森と海とを結ぶ環
 森と海とは、実は深い関係を持ってつながっている。たとえば磯浜の崖上に生育する海岸林が、海の水産資源を涵養する大きな役割を果たしていることは、江戸時代の昔から気づかれていたことで、漁民らは海辺の森林を大切に守ってきた。森林が影を落とす海面下には魚が多く集まり、樹上からは毛虫なども海中に落ちて魚の餌となる。岸辺の日陰の海にいると魚もリラックスするようで、そこは産卵場や稚魚の成育場所ともなる。静岡県伊東市城ヶ崎海岸の魚付き保安林の地先海域は、有名な冬イカ漁の好漁場ともなっていた[近田,2000:pp.35-39]。こうした魚の習性を知ったうえで海岸林が保護されてきたわけで、そのならわしがそのまま今の法律制度の中に活かされ、全部で17種に区分されている保安林の中の一つに「魚付き保安林」というものが設定されている。水産資源涵養の目的で海岸林を保護するというわが国独自の法制度は、世界に誇ってよいものである。北海道の襟裳岬にはかつて見事な海岸林が見られたが、終戦直後に燃料薪を得るため森林(カシワ林)がどんどん伐採され、すっかり木々がなくなってしまった[同:pp.40-42]。岬から森林が消え、植生が失われた結果、強い海風で土壌までもが飛ばされてしまい、そこは「襟裳砂漠」とまで呼ばれた丸坊主の禿山となった。それと同時に海でも魚が獲れなくなってしまい、漁民は打撃を受けた。海の中まで砂漠になってしまったのである。国は1953年から「えりも国有林治山事業」に着手して、住民とともに緑化・植樹を始めたのであるが失敗の連続であった。やがて雑海藻(ゴタ)をまいて地表を覆い、播種された草の種子の飛散を抑制するという「えりも式緑化工法」が効果を発揮するようになって、草地緑化がまず達成され、木本緑化へと進んで苦節50年、192haの事業地の92%にクロマツの植栽を完了したのは2006年のことで[舟山,2010:p.1]、ようやくにして襟裳岬に森林が復活し、魚も戻ってきたのであった。
 先に触れた鳥海山の森林と象潟の海のイワガキとの関係も、思い出してみればよい。海から遠く離れた山地域の森林もまた、実は深く海域環境と結びついている。海のことをよく知る漁師たちは、長年の現場経験や古くからの伝承、民俗的な知識などを通じて、森と海との間に横たわる目に見えない深い連関の存在に気づいていた。気仙沼湾の漁師たちの間では「雨が降ると海苔(マルバアサクサノリ)がよく成長し、色も良くなる」とか、「雨や雪の少ない年には海のワカメの育ちが悪く、カキの身の入りもよくない」とかいうことが言われてきており、降水量が多ければ山から川へ、川から海へと流出する栄養分も多くなり、水産資源もよく育つというわけである。だからこそ大河の流れ込む河口部がカキの養殖地としてすぐれているのであり、北海道でもそのような場所でコンブ・ホタテガイの成長がよいとされ、そうした海域では海水中の鉄分が通常海域の30〜100倍も多いといわれる[畠山,2000:p.72;89;104;105;112]。鉄分は海水中の植物プランクトンの栄養源となるのでそれが増え、増えればそれが貝類の餌となって貝もまたよく育つ。九州の有明海では、4〜5月の産卵期前のアサリがもっとも美味で身も太るが、その時期に雨が降って川の水が海に大量に流れ込むたびに、アサリの身が一回りずつ大きくなり、殻一杯にふくれていくといっている[西村,1996]。山から海へと栄養分を運ぶ通り道が川であるが、その川でウナギが多く獲れれば、それは山から海までの環境条件が良好であることの証といわれ、気仙沼湾の畠山氏によれば三陸では1965年頃を境にウナギがまったく獲れなくなったという。しかし彼は、フランスのロワール川にたくさんのウナギの稚魚が遡上するのを見て、山と海との深い関係の存在を確信するに至ったのである[畠山,2000:pp.80-81]。
 「津波があるとカキがよく育つ」などと伝承されてきたことも、一体何たる皮肉であったろうか。海底が洗われて海がきれいになり、海底から養分が上がってきて餌が豊富になり、養殖筏が減ってカキの餌の取り分が増えるためだといわれているが[同:p.71]、今回の大震災の場合、大量の瓦礫が海底に積もって海藻や魚介が死滅する「磯焼け」現象が、大規模に発生する危険性も指摘されている[毎日新聞社(編),2011]。気仙沼湾の漁師たちの間で古くからなされてきた室根山信仰もまた、海と山、漁師と山との間にもともとあった結び付きを象徴するものであろう。漁師たちは昔から「山測り」といって、沖合の船上で室根山を目印とし、船の位置や時間を確認してきたし(いわゆる「山あて」)、室根山にかかる雲や雪の降り方から天気予報を行ったりもしてきた。漁民らは古くから室根山を神聖な山として崇めてもきたし、山中に鎮座する室根山の神様を祀った室根神社の祭礼に際しても、漁師たちは御潮役という大切な役割を果たしてきた[大島,1976:p.41;岩崎,1983:p.76]。畠山氏は次のように述べておられる。
 約四年に一度、室根神社のお祭りがあります。そのとき、唐桑町舞根(からくわちょうもうね)にすむわたしたち漁民が、舞根漁港から室根山が見える沖合いまで船を出し、そこの海水をくんで神社におささげする役目(「御塩役」といいます)をしています。海水(つまり塩)でお浄めをして、お祭りがはじまるのです。室根神社は、和歌山県東牟婁郡本宮町にある熊野本宮から分霊されました。牟婁(むろ)、室根(むろね)、舞根(もうね)、とことばが似てますね。気仙沼湾と和歌山は、太平洋岸を北上する黒潮ルートでつながっているのです。昔の人はこうして、森と海とをむすびつけていたのでしょうか[畠山,2000:pp.90-92;101-102]。
 室根山に鎮座する神様は、下流の海辺に住む漁民たちの守護神でもあったわけで、そのような形で山と海とがもともと結びつけられていた。気仙沼湾の漁師たちが大川上流の室根山に樹を植えようとするのは、考えてみればごく自然なことだったともいえるのである。
 さて漁民らが経験的に気づいていた、そして古くからの伝承の中にも語られてきた「海と山との深い関係」の秘密も、今ではその科学的メカニズムがすっかり解明されるに至った。それを明らかにしたのは、畠山氏らの協力を得て気仙沼湾周辺海域での海水の詳しい調査・分析にあたられた北海道大学の松永勝彦教授である。その研究成果によれば、森林から海へと流出する栄養分のなかでもっとも重要なのは鉄分で、それが海の植物プランクトンを育てる栄養源となり、それの多い海域ほどプランクトンが増殖するので、それを餌とするカキもよく育つ。ただし、その鉄分が川から海へと流出する過程で酸素と結びつき、酸化鉄となってしまうと粒子が大きいために、海水中の植物プランクトンはそれを体内に取り込むことができない。しかし川の上流に豊かな広葉樹林があると、森林の腐葉土からフルボ酸という物質が流出して、それが鉄分と結びつきフルボ酸鉄となる。フルボ酸鉄は粒子が小さいので海に流れ出た時、植物プランクトンは細胞膜を通してそれを吸収し、栄養分とすることができる。したがってプランクトンが増え、カキもよく育つというわけである。1個のカキは1日に200?もの海水を吸いこむそうであるが、海水とともに膨大な量のプランクトンも吸いこんで餌としている。川の上流の山々に健康な広葉樹林がなく、山が荒れ果てていたり人工林(針葉樹林)ばかりだったりすると、フルボ酸がしないので、川の中でフルボ酸鉄が形成されず、鉄分はみな酸化鉄になってしまって、海のカキを育てることはない[畠山,2000:pp.104-115;2010:p.79]。だからこそ山に木を植えねばならないのである。海と山との間にある見えざる環の存在を、見えうるものにしていくのが科学の力である。人力によって見えざる環が断ち切られていたならば、それをつないで修復する作業も人力でなしていかねばならない。環は人工的な線引きなど無関係につながっているのだから、そのような線引きにとらわれてはならないし、自然の大きな循環リズムの前に都道府県境・市町村境・行政の縦割りシステムなど何の意味も持たない。環をつなげて修復していけば、行政範囲の枠組みを越えて人と人とのつながりも復活し、海と山との、そして上流と下流との人の交流も生み出されていく。畠山氏らのおこした運動の真価は、まさにそこにあった。自然の環と人の環(輪)の生み出す大きな力は、大震災で大きく傷ついた一方の側を癒し、励まし、支えることにも力強く発揮されることだろう。気仙沼湾岸の被災地における漁業の復興は、必ずや成し遂げられるに違いない。
文 献
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畠山重篤,2010「森は海の恋人運動の二十年の軌跡」『季刊環境研究』158,日立環境財団.
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本間三郎(編),1983『学研生物図鑑―貝U―』,学習研究社.
片山一弘,2008「食べものがたり―海を渡ったクマモト―」『読売新聞』10月26日号朝刊全国版,読売新聞社.
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大島英介,1976「東山・室根山信仰について」『日本祭祀研究集成』Vol.3,名著出版.
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読売新聞社(編),2010「生活わいど―森を育て海の養分に―」『読売新聞』7月20日号朝刊全国版,読売新聞社.
萬 眞智子,2010「辛味主義―赤崎旬夏―」『読売新聞』8月5日号夕刊全国版,読売新聞社.
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