西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 17  2013年3月号
長沢 利明
鎌足稲荷と神狐の里帰り
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 埼玉県川越市池辺(いけのべ)地区に、鎌足(かまたり)稲荷神社という小社がある(写真22)。『新編武蔵風土記稿』の池辺村の項に、ただ「稲荷社」とのみ出ているが、おそらくはこれが今日の鎌足稲荷なのだろう。明治期の郡村誌を見ると、池辺村には稲荷社が3ヶ所に祀られていたとあり、そのうちの1ヶ所について「稲荷社、平社々地東西十七間南北四間三尺、面積七十八坪。村の東方にあり、稲倉魂命を祭る。祭日二月初午」と述べられているが、村の東方にあるというその位置関係が合致するので、これが今の鎌足稲荷のことなのだろうと推定できる。神社は池辺地区の青木(おおき)という所にあって、さらに稲荷社の周辺の小字を南十林宝(みなみじゅうりんぼう)ともいい、先の郡村誌にも「北十林宝」と「南十林宝」の字名が出ている。十林宝とは「十輪坊」であったかも知れず、そのような名の修験坊などがあって、その管轄下にあった稲荷社ではなかったかと、推定することもできよう。地元の伝承によれば、この稲荷社はもともと当地の原田家の屋敷神だったとのことで、しだいにそれが南十林宝全体の家々で護持する神社になっていったという。現在の社殿は、1885年(明治18年)に建立されたものだ。しかし、その後の氏子信徒の減少や高齢化によって、なかなか神社を維持するのがむずかしくなり、1998年に池辺自治会の管理下に移された。その祭礼も現在では、自治会の主催する行事という形になっている。


写真22 鎌足稲荷の初午祭
 それにしても気になるのは、やはり鎌足稲荷というその社号だろう。藤原鎌足と何らかの関係のある神社らしいのだが、地元の古老らにいくらたずねてもその由来がさっぱりわからず、どうして鎌足稲荷なのか、むしろこちらが教えてもらいたいと皆が言う。歴史上の特定の人物の名を社号に冠しているからには、それなりの由緒伝説や縁起説話がそこにあって当然で、ないことの方がむしろおかしいし、あまりに不自然だ。神社に伝わる近世期の古い木版刷りの御影軸には、「入間郡池辺村稲荷神社」とあるし、先の近世・明治期の地誌類にも、ただ稲荷社とのみあって、鎌足稲荷とは書かれていない。してみると、そのように名乗るようになったのは、そう遠い昔のことではなかったのだろう。近現代期のある時期に一部の信徒が、藤原鎌足にゆかりのあるどこかの神社を詣でたりして感化を受け、分霊を拝領して当地の稲荷社に勧請し、そう名乗るようになったのではないだろうか。そうだったとしたならば、本家の神社がどこであったかが、次に問題となる。
まず考えられるのは当然、京都の多峯峰(とうのみね)の談山(たんざん)神社で、いうまでもなくここは鎌足信仰の本拠地だ。中臣姓時代の鎌足は中大兄皇子(後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿を倒すためのクーデターの謀議をここでおこない、大化の改新を実行したと伝えられる。その後、中臣鎌足には藤原姓が与えられ、藤原鎌足となった。この鎌足が後に神として崇められ、それを祭神として祀る神社が何と関東の、神奈川県鎌倉市にあるというのも不思議なことではあるけれども、鎌倉五山のひとつ、浄妙寺の裏山に鎌足稲荷神社という名の小社がある。大化の改新を達成した翌年、鎌足は東国の鹿島神宮を詣でる旅に出て、相模国由比の里に泊ったという。その時の夢枕に神が現われ、「大化の改新を成しとげた今こそ、鎌槍をこの地に奉納せよ」と告げる。鎌槍とは、鎌足が幼少時に稲荷大神から授かった武具で、彼は白狐に導かれるまま、浄妙寺の裏山にそれを埋めたという。そこに祀られたのが鎌足稲荷で、「鎌倉」という地名はここから生まれたと伝えられる。浄妙寺の開山堂には木造藤原鎌足像が安置されているし、鶴岡八幡宮の大臣山にも同じような伝説が伝えられている。坂東札所として有名な鎌倉長谷寺の開基藤原房前や、甘縄神明神社を創建した染谷時忠もまた、鎌足の子孫とされている。鎌倉は、知られざる鎌足伝説ゆかりの地なのでもあった。多峯峰や鎌倉での鎌足信仰の影響下において、川越の鎌足稲荷も生み出された可能性は充分に考えられることだろう。
 

写真23 石造神狐
  その川越市の鎌足稲荷神社を訪れてみると、まず驚くのは境内や拝殿内に納められた、おびただしい数の石造の神狐像だ(写真23)。これらはみな信徒の奉納したもので、社殿裏手には、それらを納めるための小屋まであり、中には何十体もの石の狐がぎっしりと並べられている。高さ30pほどのその狐の石像は、神社の狛犬を小型化したようなもので、狛犬と同様にやはり2体1組となっており、尻尾をぴんと上にはねあげ、片前脚を宝珠の上に乗せたポーズを取るものが多い。安山岩質の割合に硬い石をていねいに彫刻しており、台座の裏面に奉納年を刻むものもよくあって、そのほとんどが明治時代のものだった。どこで産出した石材を用いているのか、どこの石工が彫ったもので、どこの石屋から購入したものなのか、現在の信徒に聞いてもよくわからない。京都の伏見稲荷の御塚のようなもので、多くの信徒たちがこれらを奉納し続けてきたことがわかる。
 しかし大正〜昭和期になると、この石造神狐がほとんど影をひそめ、代わりに今戸焼の小さな神狐が奉納されるようになる(写真24)。これは高さ9〜10pほどの素朴な塑像で、全身を泥絵具で白く塗り、台座部分のみ赤・青の装飾模様が簡単に施される。やはり2体で1組となっているが、いわゆる「鉄砲狐」と呼ばれるものがこれで、東京都台東区内の今戸焼の窯元で、大量に製造されていたものだ。この鉄砲狐について、戦前の1935年に記された報告を参考までに引用してみよう。
  

写真24 鉄砲狐
所謂鐵砲狐とは、?上に狐が跼居してゐるもので、二ヶを以て一對としてゐる。極めて淡彩で、販路も稲荷萬能の江戸市中に廣く出てゐただけ、その生産能率も或る時期に於ては本家の伏見を遙かに凌駕してゐた。其濫觴は詳らかでないが、恐らくは寛政頃より初められたものか、江戸の末期には今戸邊で内職として狐ばかりを製ってゐた者が夥しくあり、古い落語の「今戸の狐」(或は骨の賽)にも噺家のかん良輔が今戸で狐を製ってゐた話が見えてゐる。(中略)稲荷のある所必ず鐵砲狐ありで、稲荷信仰を表示する事物として獨占した感があった。が併し、漸時稲荷神社の減少するに從って存在價値を失ったばかりでなく、最近では、陶製の狐に壓倒されて萎縮し、纔かに豐川稲荷、穴守稲荷、披官稲荷其他二三の神社によって命脈がつながれてゐるに過ぎない[有坂,1935:pp.166-167]。
 この私自身は群馬県で生まれ育った人間だが、幼少時の経験からすると、屋敷神としての稲荷祠には、必ずこの今戸焼の鉄砲狐が何十体も納められており、それ以外のものはなかった。埼玉県内にあっても、それはほぼ同じだったのだろう。鎌足稲荷の場合、第二次大戦後のおそらく1960年代頃になると、陶磁器製の立派な神狐像が現われて主流となり、今ではそれしか見られない(写真25)。先の引用文によると、東京の都心部では1930年代には早くもその移行がなされていたことになる。新しいタイプの陶磁器製の神狐は、やはり高さ10pほどの白狐なのだが、尻尾を立てて片前脚を宝珠の上に乗せたポーズを取り、台座は赤や金色できれいに彩色されている。瀬戸物の狐だから、今戸焼の鉄砲狐のように風化をして釉薬が剥げ落ちることもなく、何十年・何百年経とうが壊れない。今戸焼の神狐だったら、おそらく50年も持たないことだろう。これらの今戸焼製・陶磁器製の狐の像のことを、俗にオキツネサン(御狐様)・オイナリサン(御稲荷様)などと呼ぶが、白い狐なのでオビャッコサン(御白狐様)と呼ぶ人も多い。神狐は川越市内の神具店でも売られているが、笠間稲荷や箭弓稲荷などに参詣して受けてくることもあった。
 

写真25 磁器製神狐
このように稲荷に奉納される神狐は、石造狐(明治時代)→鉄砲狐(大正〜昭和時代前期)→陶磁器製狐(昭和時代後期)と変化をしていき、そのそれぞれが大量に鎌足稲荷の境内・拝殿内に納められている。池辺地区内の旧家ではまた、屋敷神としての稲荷祠が屋敷内の北西隅に必ず祀られていて、鬼門除けとされており、毎月1日・15日にはサカキと供物をあげることになっている。これらの屋敷稲荷にもやはり、各時代のさまざまなタイプの神狐が入り混じってたくさん納められているが、笠間や箭弓などの稲荷社に毎年詣でて、そのつど社務所で神狐を受けてくる家もあって、そういう家では稲荷祠の中に100〜200体ものオビャッコサンが納められている。どんどん増えていくので、やがて祠内に納めきれなくなり、外にまであふれるようになってくると、それが雨ざらし状態のもとに置かれて風化していく。それではあまりにしのびないということになれば、古いものを鎌足稲荷へ納めることになるのだ。また、世帯主の代替わりや家の新築などで屋敷神の祠を維持できなくなったりすると、処分したり捨てたりするわけにもいかないので、祠ごと鎌足稲荷へと納めてしまうこととなり、境内の神狐の数はますます増えていく。
 一部の家々では屋敷内の片隅にではなく、母屋の屋内の神棚上に稲荷を祀る例も見られ、それもまた屋敷稲荷なのだというが、概して熱心な稲荷の信者であることが多い。そのような家々では、神棚の上にやはりたくさんのオビャッコサンを並べて祀っており、方々の稲荷社を詣でるたびに神狐を求めてくるので、どんどんそれが増えていく。なお、神具店や遠方の稲荷社などから求めてきたオビャッコサンは、そのままでは祠に納めることができない。鎌足稲荷の祭礼(元朝祭・初午祭・星祭りなど)の時などに持参して、神職に魂入れをしてもらわないと、生命ある神狐にならないのだそうだ。
 この神狐というものは、実をいえば稲荷神の眷属に過ぎないのだが、いつしかそれ自身が稲荷祠の御神体のようになっていき、稲荷祠といえば狐を祀った祠であるように思われるようにもなっていく。狐の好物である油揚げやメザシなどを供えるのも、そのためだ。そして年に一度の初午の日に、御神体としての神狐像を祠の中から出してきて、丁重に風呂敷に包み、神狐の本家・古巣としての稲荷社へと持ち運んで、神職による修祓を受けるという儀式がなされるようになっていった。その稲荷社こそが池辺の鎌足稲荷神社なのであって、地区内の家々の神狐がみなここに集まり、いわば「里帰り」をおこなうのだ。こうした特殊な祭り習俗は他所ではまったく見られず、大変珍しいものなので、それを以下に紹介してみることにしよう。なお、この鎌足稲荷の初午の祭りは、新暦3月の初午日になされており、月遅れの初午祭の形が取られている。
 まず、祭りの日の午前10時頃、鎌足稲荷神社の拝殿内では神職を招いて、初午祭の神事が厳粛におこなわれる。参列するのは池辺地区の自治会長ら三役と、氏子役員三役の計6名となっている。その神事が終わる頃になると、地区の人々が家々の稲荷祠の神狐を持って、ぞくぞくと参拝にやってくる。人々は家々の屋敷神の神狐を一対選び、丁重に紙でくるんで風呂敷に包み、手にぶら下げて鎌足稲荷まで運ぶ。拝殿内の受付には世話人らが待機しているので、そこに神狐を差し出す(写真26)。世話人はそれを神前へと運び、初穂料を受け取って記帳する。神前の机の上に置かれた神狐は、待機している神職がすぐに御祓いをしてくれる(写真27)。神職は短い祓詞を唱えた後、大幣で神狐を祓い、神狐はすぐに受付へと戻される。受付の世話人は一合徳利の御神酒、大小の神札(家内安全・交通安全祈?札)、供物菓子(紅白の落雁)などとともに、神狐を参詣者に手渡して返す。こうして参拝者は家に帰り、修祓を受けたオビャッコサンは再び屋敷神の祠の中へと戻される。神狐はこうして年に一度、鎌足稲荷神社へと里帰りをして生命力を更新し、家々を守り続けることとなる。。
 
  

写真26 神狐を受付に差し出す

 

写真27 神狐の修祓
 私たちが拝殿の受付脇で見ていると、地区の人々が神狐を納めた風呂敷包みを、申し合わせたがごとくに銘々が持参して、続々とやってくるのが何とも興味深く、こういう習俗は他所で見たことがないので、大変おもしろかった。参拝者が多く集まるピーク時は、午前11〜12時頃だろうか。その時分になると、拝殿の受付の前には行列ができるほどで、そうなると神職も1軒分ずつ個別に神狐の修祓をやっていられないので、5〜6軒分をまとめて並べて祓ってしまうこととなる。神職は早朝から夕方まで、ずっと拝殿内に待機していなければならないし、神前での神狐の修祓を一体何回繰り返すことだろう。誠に御苦労なことだ。時には先の石造神狐像一対を、わざわざ持ってくる信徒もおり、老夫婦が一体ずつ重そうに抱えてやってくる。これまた何とも御苦労なことで、年に一度の大仕事だ。石像だろうが陶磁器製だろうが、池辺地区中のオビャッコサンがこの日、鎌足稲荷神社へ全員集合するというのだから、まるで大晦日の夜における王子稲荷の狐の集会のごとくではないだろうか。
家々の神狐の修祓は、基本的に年に一度、この3月の初午祭の時におこなわれることとなるが、二の午祭の時に御祓いをしてもらってもよい。神職が一応待機しているので、修祓をしてもらいたい家があればオビャッコサンを持参すればよいが、来る家はあまり多くはない。また、12月15日には星祭りがおこなわれ、氏子家族の生まれ年の星を祀って祈?がなされるが、この時にも神狐を持って行けば、やはり神職が御祓いをしてくれるのだ。厳密に言えば、オビャッコサンの里帰りの機会は年に三度あることになるが、もっとも盛況になされるのはもちろん3月初午日の祭礼であって、年間最大の祭りとなっており、ほとんどの家々はこの日に神狐を持参する。
鎌足稲荷の初午祭は、かつては大変なにぎわいを見せたもので、川越市内の商家が風呂敷包みの神狐をぶら下げて、ぞくぞくと参詣にやってきたといい、主として商売人の信仰にささえられていたとのことだ。水商売関係者らの信心もあつく、明治時代には川越の花町の芸妓らが人力車に乗って列をなし、池辺までやってきて参詣したという。せまい境内に人力車が何台も並ぶさまは壮観であったと古老は語る。神社の周辺には露店も立ち並び、黒山の人だかりで、川越祭りのようだったというが、参詣者相手の余興芸能もさかんになされたそうだ。主としてそれは神楽だったといい、境内に仮設舞台を作って上演されたという。1955年頃まではそのような黄金時代が続いたとのことなのだが、往時ほどの勢いは見られないとはいえ、祭りは今もなかなかのにぎわいを見せてはいる。
熱心な信徒は今でも各地にいて、川越市内はおろか坂戸市・三芳町あたりからも、遠くは群馬県方面からもやってくるというし、かつては東京・千葉方面からバスを借り切って参拝に来る信徒団体も見られたという。「箭弓や笠間の稲荷よりも、こちらの方が御利益があるし、格が上だ」と信じて疑わぬ信徒も多かったそうだ。鎌足稲荷は池辺地区の家々によって護持されてきた神社ではあったが、信徒圏はそのように非常に広域的で、それが最大の特色だった。拝殿の外壁に打ちつけられている無数の木札は、それら信徒の奉納金額を記したもので、いかにこの稲荷神社があつく信心されてきたかを、よく物語っている。 
さて何度も述べるように、このあまりにも特殊な稲荷信仰・初午行事は、川越市の鎌足稲荷神社以外ではまったく見られない。一体なぜに、こんな行事がここに生み出されてきたのだろう。一体どうしてこの地に、藤原鎌足ゆかりの稲荷祠が鎮座しているのだろう、ということをも含めて、謎は尽きない。とはいえ、私たちのやってきた今までの民俗調査の経験の中から、これと相通ずる類似事例の存在を、少しはここに提示してみることも可能だ。家々に祀られた何らかの信仰対象としての小さな偶像を、年に一度、その本拠地へと自ら運んで修祓・祈?を受け、持ち帰るという民間信仰習俗は、実はほかにもある。それは東京都品川区南品川の海雲寺(曹洞宗)という寺院で、毎年3月27〜28日・11月27〜28日におこなわれている千体荒神祭に見られる、特殊な信仰習俗なのだ[長沢,1998:pp.31-44・2006:pp.88-93]。
海雲寺の千体荒神祭は、火の神である三宝荒神を祀る祭りで、寺からは三宝荒神像を納めた小さな厨子(「御宮」と呼ばれる)を、古くから信徒家に分け与えるというならわしを守ってきた。厨子を受けた信徒は、それを家内の台所のカマドの上などに安置し、火の安全を祈ってきたのだが、東京都内の旧家の台所には、古びたその厨子がよく残されている。そして、年に一度もしくは二度、千体荒神祭の日にそれを持参し、護摩火の浄火に当てて修祓を受けることになっている。信徒らが、厨子の入った風呂敷包みをぶら下げて、ぞろぞろと寺にやってくるさまは、まったく川越の鎌足稲荷と同じだ。風呂敷包みの中身が、神狐であるか、荒神像であるかの違いがそこにあるに過ぎない。3月と11月の祭りの日には、東京都内一円からそのようにして信徒らがやってくる。千体荒神祭の場合、おもしろいのは、その風呂敷包みの運び方に関するきびしいしきたりであって、家から寺までそれを運ぶ際に、決して地面に置いてはならない。風呂敷包みを手にぶら下げず、首に巻いて縛って行くのが一番よいともいう。途中で決して寄り道をしてはならないし、特に帰路はまっすぐ家に帰らねばならない。かつては、途中で知人と行き会っても、口をきいてはならなかったともいうから、徹底したものだった。
三宝荒神像を納めた厨子は、こうして年に二度もしくは一度、海雲寺へと里帰りをし、いわば新たなエネルギーを充填されて家に戻り、炊事場の火所に鎮座して、その家を火災から守り続けるというわけだ。鎌足稲荷の狐たちもまた、そのようにして家々を守り続けてきたということになるのだろう。

謝辞
これをまとめるにあたり、滝沢光明氏ほかの鎌足稲荷神社の氏子の方々、西郊民俗談話会の金井塚正道氏ら多大な御協力をいただきました。つつしんで御礼申し上げておきます。
  
引用文献
荒有坂與太郎,1935『郷土玩具大成』Vol.1,建設社.
長沢利明,1998「品川の千体荒神祭―東京都品川区海雲寺―」『西郊民俗』163・164,西郊民俗談話会.
長沢利明,2006「海雲寺の千躰荒神祭」『東京都の祭り・行事』,東京都教育委員会.
 
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