西郊民俗談話会 

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連載 「民俗学の散歩道」 19   2013年8月号
長沢 利明
甲府盆地の子育て石
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 甲州では一般に、子育ての神のことをウブノカミといっている。ウブノカミとは「産(うぶ)の神」の意で、要するに産神、そして生まれたばかりの赤ん坊を守る神のことをいう。東京都の西多摩地方では、赤ん坊の髪の毛を剃る際に後頭部の髪を一房、切らずに残し、伸ばしっぱなしにしておく習慣があって、それをオブノカミと称している[長沢,1989:p.187]。ウブノカミもオブノカミも、もちろん同じ神だ。よちよち歩きを始めるようになった幼児は、よく物につまづいて転ぶものだが、前のめりで倒れそうになった時、後頭部のその一房の髪を神様がつかんで引っ張り、支えてくれるといい、怪我をせずに済むというわけだ。そのようにして子供はつねに、両親と子育ての神の手で手厚く守られている。山梨県の甲府盆地周辺地方では、このウブノカミ様が各地の鎮守社の境内に祀られていて、初宮参りの際に母子がそれを拝んでいくことになっている[長沢,2005:pp.480-481]。それは自然石の御神体そのもので、「子育て石」と呼ばれることもあるが、祠もなければ覆屋もない。雨ざらしのただの石で、てっぺんの丸い石柱状の石であることが多い。縄文時代の石棒にもよく似ていて、男根状といってもよいことだろう。神社の境内の片隅にそのような石がよく立っており、皆がそれを拝んでいくのを見ると、あたかも原始信仰の姿を彷彿とさせ、まさにこれは現代の石棒崇拝そのものだ。
 私は、山梨県山梨市で何年間も民俗調査をやったことがあるので、そこでの経験からいくつかの例を提示してみることにしよう。


写真30 鴨居寺福宮神社の子育て石
 まずは同市内の後屋敷地区の事例を紹介してみたいが、写真30に掲げたものは鴨居寺の鎮守社、福之宮神社の境内にあるウブノカミの石で、オサンゴジン(御産御神?)とも呼ばれている。石垣を積んだ基壇の上に、2基の石祠にはさまれて3本の石棒状の自然石が立っているが、これらはもともと別の場所にばらばらにあったもので、1940年(昭和15年)にここにまとめられた。基壇の刻銘からそれを知ることができるけれども、本来これらの石棒は、こんな立派な基壇上にきちんと祀られるものではなくして、地べたにそのまま根を埋めて屹立しているというのが自然な姿なのだ。取り立てて何もしない自然状態そのものの、飾らぬ素朴な、プリミティブな祀り方のなされるべき御神体なのであって、他所ではみなそうなっている。3本の石棒のうち真ん中の1本は完形で、高さ72p・太さ30pほどとなっているが、ほかの2本は破損して欠けており、1本は高さ26p・太さ13p、もう1本は高さ22p・太さ12pほどの大きさだ。新生児を授かった家々は、産後約1ヶ月後になされる宮参りの際に、必ずここに立ち寄って供物を上げ、赤子の健康な成長を祈ることになっている[長沢,2001b:p.1227]。
 

図31 上ノ割若松神社子育て石
 同地区内上之割の鎮守社である若松神社の境内にも、子育て石がある(写真31)。大きいものと小さいものとの2本の立石が、1本のシメ縄で括られており、まるで夫婦石・親子石のようだ。大きい方は高さ72p・底面直径36pほど、小さい方は高さ50p・底面直径30pほどとなっている。初宮参りの時、母子は若松神社の拝殿内で修祓を受けるが、祈?が済むと神職は、オシンメイ(御注連)を赤ん坊の首に、首飾りのように掛けて魔除けとする。このオシンメイは、薄手の和紙に細かな刻み目を入れて切紙細工のように作られた、ひとつながりの幣紙の輪で、赤ん坊の首にそれを掛けると、ヒラヒラとした細かな紙片が立髪のようになる。拝殿を出た母子は、そのまま境内の子育て石の前に立ち寄り、赤ん坊の首からオシンメイをはずして、それを子育て石の頭に鉢巻きのように巻きつける。こうすると、赤ん坊が丈夫に育つといわれている[長沢,2001a:p.1170]。子育て石は、かつて東後屋敷の木宮神社の境内にもあったが、今では紛失してしまい、基壇のみが残されている[長沢・前田,2000:p.45]。かつては狛犬の脇に丸い自然石があって、初宮参りの時にはそこにオシンメイを掛け、米を供えたという。三ヶ所という集落の諏訪神社の境内にも、やはりウブノカミの石が二つあって、今でも信仰されている。
 次に日川地区について見てみよう。当地区の鎮守社の境内には、まずたいていウブノカミの石が祀られているものの[長沢,2001c:p.178]、その形状やそこでの祈願方法は必ずしも同じではない。下栗原の鎮守神、大宮五所大神社の境内に立つ子育て石は角柱型の立石で、高さ114p・幅22pほどの自然石だ。子育て石にしては珍しく銘文が刻まれており、「子そだて石、昭和七年十月十五日、寄進人甲府市外山崎樋川億良」とある。当所の鎮守社には他所のような子育て石がなかった、そこで他所にならって当社にもそれを祀ろうということになり、当地出身者で甲府市在住の信徒が1932年、これを寄進して立てたということらしい[長沢,2004a:pp.1586-1587]。宮参りの時に、赤ん坊の首に巻いたオシンメイをここに掛けていく、という習俗は後屋敷地区と同じようになされていたが、村制時代の郷土史である『日川村誌』を見ると、「下栗原大宮五所大神社には子育て石があり、その石の上に赤子を載せて達者に育つことを祈る」とある[日川村誌編纂委員会(編),1959:p.532]。かつては赤ん坊を、この石の上に乗せて健康祈願をしたといい、まことに不思議な習慣のあったこともわかる。
 中村の出雲神社の境内にあるウブノカミの石は巨大で、高さ136pもある雪ダルマ型の自然石だ。おそらくは、この地方最大の子育て石だろう。一見して、この地方に多い道祖神の丸石のようにも見えるが、巨大な丸石を二段重ねにしており、ヒョウタン型なので、道祖神の御神体とはまるで違う。1934年12月に、氏子である小野美太郎氏によって、これが寄進されたと伝えられるが、もとは路傍に祀られていたものを、道路の拡張によって神社の境内に移したという。新生児を授かった家ではウブアケ(産明け)の初宮参りの際、神主が赤ん坊の首に掛けてくれた首飾り状の幣紙の輪を、この石に巻きつけて子供の健全な成長を祈願する[長沢,2004a:p.1596]。『日川村誌』には、これを「出産注連納石」と記しているが[日川村誌編纂委員会(編),1959:p.606]、まさに読んで字のごとくで、シメを納めるための石なのだ。
 歌田の鎮守社である金桜神社の子育て石は「七度石」と呼ばれ、そのような刻銘が正面に刻まれている(写真32)。
 

写真32 歌田金桜神社の七度石 
 高さ64p・幅27pほどの角柱石で、やはり新生児のウブアケの際、初宮参りの帰り道に、赤ん坊の首に掛けたオシンメイをはずして、この石に巻きつけていく。その時に親は、持参した重箱の赤飯をひとつまみずつ、ついてきた子供たちの掌に盛ってやり、食べさせたというが、どこでもしていたことだ[長沢,2004b:pp.1647-1648]。この石がなぜ「七度石」なのか、地元の人々に聞いてもわからないのだが、「百度石」などと同じように、7回詣でるということなのかも知れない。一町田中の白山神社の場合は、拝殿前の参道両側に一対の子育て石があって、右側を「男石」、左側を「女石」と呼んでいる。男石は男性器に、女石は女性器に、何となく似ているともいわれる[長沢,2004c:p.1682]。新生児が男の子だったなら右側、女の子だったならば左側の石に、オシンメイを巻きつけて祈ることになっていて、このような例は珍しい。近世期の地誌史料『一町田中拾遺集』にも、そのことがきちんと書いてあって、「男石女石ハ鳥井及拝殿ノ間ニシテ道ノ左右ニアリ。初詣ノ際、男女ノ別ニヨリ參詣ス」と述べられている[長沢,2004b:p.1656]。どちらも高さ56p・幅64pほどの自然石だ。
 このように日川地区には、あちこちに子育て石があって、そこでの初宮参りの祈願が、今でもごく普通におこなわれている。その初宮参りの様子についても、民俗調査の成果から少し紹介してみることにしよう。それは以下のようなやり方で、なされている。
 生まれた子どもは、男の子が生後三一日目、女の子が三〇日目にウブアケとなる。人によっては、男・女ともに三二日目という人もあるが、いずれにしても、その日にミヤマイリ(宮参り)をする。宮参りには、地域の氏神に、赤ん坊に晴れ着を着せて、その上にオシンメイをかけて姑か母親が抱いて連れて行く。その際、赤飯を重箱に詰めて持参する。神社では、賽銭をあげて無事の成長を祈願した後、オシンメイを境内にある子育て石や木などの特定の場所にかけて拝む。下栗原の大宮五所大神では、境内にある子育て石に子どもを寝かせた後、そばにある松ノ木にオシンメイをかける。中村の出雲神社では、鳥居の右側にある子育て石にかけて無事の成長を祈る。歌田の金桜神社にも境内に「七度石」と刻まれた石があり、そこにオシンメイをかけて風で飛ばないように上から石を置く。上栗原の白山建岡神社では、神社の表にある樫の木にオシンメイをかけるようになっている[猿渡・前田,2001:p.41]。
 山梨市内の他地区にも少しは子育て石があり、山梨地区正徳寺の唐土神社の境内にある「叶石」も、おそらくこの種のものだったろうと思われる(写真33)。
 
 

写真33 正徳寺唐土神社の叶石 
 

写真34 下石森山梨岡神社の子育て石  
 歌加納岩地区下石森の山梨岡神社の境内にあるそれは、今でもたくさんのオシンメイが巻きつけられており(写真34)、これは初宮参りの時に奉納されたもので、その細かな幣紙の刻み方から、一般のシメ縄ではないことがわかる。同地区大野の天神社の境内にも、高さ92p・直径50pほどの自然石が立っており、これもウブノカミの石と思われるけれども、『山梨市の石造物』ではこれを「七五三石か?」としている[山梨市史編さん委員会(編),2001:p.58]。「シメ石」とは、先の「注連納石」に通じるものだろう。同じ山梨市内でありながら、山間部の八幡地区などには、まったくそれが見られないというのも、不思議なことではある。ついでながら、東八代郡一宮町の浅間神社の境内にあるものも、紹介しておこう。
 

写真35 一宮町浅間神社の子育て石 
 こちらはかなり大きなもので、高さ1m以上はある石棒だ。赤ん坊の首に掛けたオシンメイが、やはりたくさん巻きつけられていて、これだけの数の母子が参詣におとずれたということを物語っており、産神として広く近在に知られた浅間神社にふさわしい。
 甲府盆地地方におけるウブノカミの石、子育て石にまつわる信仰習俗は、おおよそ以上の通りだったが、そこには古くて深い民間信仰の伝統が、よく反映されているものと考えられる。まず生まれたばかりの新生児は、悪霊・悪疫に対してきわめて弱い存在なのだから、ウブノカミの加護によって手厚く守られていなければならない。ために子育て石への祈願ということが必要となり、初宮参りの際には鎮守の神への正式な祈願のみならず、きわめて素朴な形をとっての民俗的祈願も、あわせてなされなければならない。赤ん坊は、この初宮参りのために初めて本格的な外出をするわけで、あまりにも無防備で無垢なこの弱い存在を外的世界にさらさねばならないのだから、悪霊・悪疫にとりつかれないための防御手段をこうじることが求められる。そのための呪具こそが、幣紙の輪としてのオシンメイで、赤ん坊の魂を落ちつけて、害悪をなすものをはねのけるための呪力がそこに込められている。もちろん、その魔除けの首飾りは今ではすでに、神主の手で首に掛けてもらってから、拝殿の外に出て子育て石の前での拝礼に至るまでの、わずか10分間ほどの間しか赤ん坊の首に掛けられてはいないし、すでに形式的な儀式になっているに過ぎないとはいうものの、一応は儀礼の形を残しており、本来はもう少し長い間、首に巻かれていたのかも知れない。
 そしてそのオシンメイを、境内の木の枝に掛けて帰ったなどという例もあることからわかるように、それを納める場所はもともと、どこでもよかったのだろうと考えることもできる。たまたまそこに坊主頭の自然石でもあれば、人体との連想で、その首に巻きつけようとしたのは自然な解釈で、いわば類感呪術とでもいえようか。皆がそのようにするならば、誰もがそれを模倣するようにもなり、やがてはオシンメイを巻きつけるための石棒が設置されることにもなるだろう。けれどもそれは、御神籤を境内の木の枝に縛りつけるようなもので、取り立てて形式的な儀式なのでもなく、ただ単にオシンメイを処理して納めるだけの、軽い行為に過ぎなかったのだから、それがための正式な施設などを設ける必要もなく、ただの自然石で充分だったはずだ。そこに「七度石」・「子そだて石」・「叶石」などの文字を刻み込んだのは当然、後世になされたことだったろうと思われる。
 さらに想像をたくましくするならば、この子育て石は一種の身代り石だったということかも知れない。赤ん坊に降りかかるあらゆる災厄を、この石に背負ってもらおうというわけだ。大昔の支配階級社会には、「天児(あまがつ)」とか「這子(ほうこ)」と呼ばれた身代り人形の習俗があって、赤ん坊の眠る部屋にそれを置き、災厄をそれに背負わせて、赤ん坊の安全を守ろうとした[長沢,1996:pp.6-7]。乳児の着せる服を、まずは身代り人形に着せてから本人に着せたなどというのも、要するに身代り祈願であって、子育て石にオシンメイを巻きつける目的も、そういうことだったと解釈できぬこともない。そして、そのオシンメイとはそもそも一体何だったのか、ということも最後に考えてみなければならないのだが、思いのほか古い時代の呪術的要素が、そこには込められているように私には感じられるので、これについては別にまた、論じてみたいと思っている。
 
引用文献
日川村誌編纂委員会(編),1959『日川村誌』,日川村誌編纂委員会.
長沢利明,1996「火打と這子」『郡内研究』bU,都留市郷土研究会.
長沢利明,1989「笛吹の民間信仰」『東京の民間信仰』,三弥井書店.
長沢利明,2001a「山梨市後屋敷地区の信仰民俗(T)」『アゼリア通信』98,有限会社長沢事務所.
長沢利明,2001b「山梨市後屋敷地区の信仰民俗(Y)」『アゼリア通信』103,有限会社長沢事務所.
長沢利明,2001c「民間信仰」『日川の民俗』,山梨市.
長沢利明,2004a「山梨市後屋敷地区の信仰民俗(\)」『アゼリア通信』133,有限会社長沢事務所.
長沢利明,2004b「山梨市後屋敷地区の信仰民俗(]W)」『アゼリア通信』138,有限会社長沢事務所.
長沢利明,2004c「山梨市後屋敷地区の信仰民俗(]Z)」『アゼリア通信』141,有限会社長沢事務所.
長沢利明,2005「信仰」『山梨市史・民俗編』,山梨市.
長沢利明・前田俊一郎,2000「人生儀礼」『後屋敷の民俗』,山梨市.
猿渡土貴・前田俊一郎,2001「人生儀礼」『日川の民俗』,山梨市.
山梨市史編さん委員会(編),2001『山梨市の石造物』,山梨市.
 
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