西郊民俗談話会 

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連載 江戸東京歳時記をたずねて  9
   2018年1月号
長沢 利明
多摩市山王下のセーノカミ祭り
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(1)多摩市内のセーノカミ祭り
セーノカミとは「塞(さい)の神」のことで、村境を守る神であるとされているが、要するにそれは道祖神のことを言っている。多摩地域ではどこでも、これをサイノカミあるいはセーノカミと称していて、それを祀るための盛大な火祭りが小正月の1月14日におこなわれる。この祭りのことをセートヤキ(塞戸焼き)ともいうが、今ではドンド焼きと呼ぶ人も多い。今では祭りの廃れてしまった所も多いが、地域の重要な伝統行事として今なおそれが続けられ、新旧住民の交流を通じた正月のイベント行事として、ますます盛況化している所などもあり、まことに好ましいことだと筆者などは思っている。今回は南多摩地域を代表するものとして、多摩市落合山王下のセーノカミ祭りを取り上げてみよう。当地のセーノカミ祭りはかつての祭りの姿をもっともよく残しており、今でも盛大な地域の行事としていとなまれていて、民俗学的に見ても大変貴重な事例といえるから、多くの人々に一度はぜひ見学してもらいたいものだ。当地のセーノカミ祭りについては、山崎祐子さんや[山崎,1997:pp.518-522;2006:pp.177-181]、松尾あずささんによる詳細な調査報告も公表されているが[松尾,2017:pp.15-24]、ここでは筆者の見学した2005年の記録をまとめておくことにする。
多摩市落合地区はかつての落合村であって、現在の多摩市内にあった旧村の中ではもっとも村域の広い村だった。村内は五つのコウジュウ(講中)に分れており、それは@上ノ根(かみのね)・A青木場(あおきば)・B山王下(さんのうした)・C中組(なかぐみ)・D唐木田(からきだ)の5コウジュウだ。コウジュウというのは、富士講や伊勢講という意味でのコウジュウではなく、南多摩や神奈川県内では村組のことをよくそう呼ぶ。江戸時代の落合村は2人の地頭の支配下にあったため、地頭ごとに村を二つに分け、上落合と下落合とに呼び分けるようになったという。つまり、B〜Dが上落合で、@〜Aが上落合となっていたのだが、現在では下落合といえば@のみを指すようになってきており、上ノ根イコール下落合と考えてよい。大昔のセーノカミ祭りはコウジュウごとにおこなわれていたが、今でもそれを続けているのはB〜Dのみとなり、中でもB山王下の祭りのみがきわめて盛況で、かつ古式を残している。C中組・D唐木田でも一応は祭りをやっているものの、細々と火を燃やしている程度で、火祭りというよりはオタキアゲ(御焚き上げ)に近い。山王下の祭りは、戦時中の1944〜1945年(昭和19〜20年)に中断されたことがあったものの、それ以降は毎年途切れることなく続けられてきたのだ。
なお、現在の落合は都市化が進み、新住民も多く流入して混住社会ができあがっているが、地付きの旧家だけでも150戸を数えるといい、そのうちの約30戸が山王下に住むとのことだ。今回取り上げるのは、もちろんこの山王下の祭りだ。

(2)山王下の道祖神祠
山王下のセーノカミ祭りは毎年1月14日の夜におこなわれ、今ではそれが山王下自治会の主催する重要な年間行事のひとつとなっている。祭りのメイン・イベントは、もちろん夜の火祭りで、稲藁で葺かれた巨大な道祖神小屋に火を放ち、盛大にそれを燃やしてクライマックスとなる。冬場の乾燥した空気のもと、屋外で大きな火を焚くことには当然、火災の危険性がともなうわけで、なかなか許可が降りず、会場探しに例年苦労してきたと、自治会の方々は語っておられるが、それは他所でも同じで、いわゆるドンド焼き行事を市街地地域でおこなうのは困難な時代となりつつある。
2005年には初めて高岸公園が祭りの会場として用いられることとなり、そこは周囲に人家も少なく、飛び火の危険性もあまりないので、恰好な条件を満たしていた。今後もここが会場として利用されていくことになるのだろうが、前年までは山王下1丁目の「稲荷前」という所でやっていたそうで、そこは東京都水道局の施設のある高台の地で、やや不便な場所だった。では、戦前の農村時代の山王下におけるセーノカミ祭りは、一体どこでおこなわれていたのかというと、もちろん道祖神碑の祀られていた地区内北方の場所だったわけで、そのかたわらにある田中姓一族の総本家(田中茂家)の屋号を、「セーノカミド(塞の神戸)」と称してきたのだった。同家の屋敷内の南西角にあったその碑は、1933年の道路改修で今では道路の向かい側に移されているが、トタン屋根の覆屋の中に道祖神碑と庚申塔とが安置されており、道祖神碑には「道祖神、安政二乙卯八月日、山王下連中」との銘文があって、1855年(安政2年)の建立されたものだということがわかる。庚申塔の方には元禄2年(1689年)の建造年が刻まれている。以前はここにトタン屋根がなく、碑は野ざらし状態であったといい、祭りの時だけそこにすっぽりと藁屋根の祠を建てて覆っていた。これを俗にオコヤ(御小屋)といい、これこそが祭りの時にのみ設けられる本当の意味での道祖神祠なのであって、実に凝った造りなので一見の価値がある(写真71〜73)。

 
写真71 祭りの準備

 
写真72 セーノカミの祠@

 
写真73 セーノカミの祠A
 このオコヤを建てるには、まず道祖神碑を囲んで4本の丸太杭を地面に打ち込み、それを柱として壁を作り、切妻屋根を上に載せて碑を覆う。屋根と壁は稲藁で葺き、それを押さえつけるための割竹を何本か上から縛りつけて固定する。屋根の棟上には正月飾りのゴボウジメ(牛蒡注連)を2本、相向かいに縛りつけてあり、それがシャチホコのようになって、立派な御殿造りの祠となる。そのシャチホコの上には赤い御幣が1本、立てられる。オコヤの妻側の壁には、家々から集めた正月飾りをたくさん吊るす。小屋の中には箱行灯を置いて灯明をともした。オコヤは現在、1月14日の日中にセーノカミドの道祖神の所に、その碑を覆う形で設けられることになっているが、今ではそこで火祭りがおこなわれていないため、午後4時頃に今の会場、すなわち高岸公園まで祠をそっくりそのまま運んで移動させることになっている。そして、火祭りが始まると、このオコヤも火の中に投じて燃やされてしまうのだ。道祖神の祀られている場所と、火祭りの会場とが離れてしまったため、そのような変則的な形が、今ではとられていることになる。
注目すべきは、このオコヤの背後に、戦前はオンベラボウと呼ばれる独特な依代を立てていたことで、現在ではおこなわれていないが、古老の話によるとそれは次のような形をしていたという。オンベラボウはまず、1本の丸太を地面に立て、てっぺんに割竹をしならせて弓の形にして固定する。弓の弦の上には3本の御幣を立て、弓の下には松葉・杉葉を飾り、そこから四方に細割竹を垂らして櫛の歯状に刻んだ色紙を巻いて飾った。これを俗にハナ(花)と呼び、しだれ柳のように作られていた大変立派な装飾で、実にきれいなものであったという[山崎,1997:pp.520-522]。現在、山梨県下の各地に見られる道祖神祭りの御神木と呼ばれるものと、ほとんどそれは同じ造りであって[長沢,1990:pp.144-147]、何とかこれを今に復活させて再現させたいものだと古老らは言っておられるが、それを実現させるには非常な手間と技術とが求められるので、むずかしいとのことだった。下落合では1965年頃まで、たった1ヶ所でこれがおこなわれていたというが、それ以後は廃れてしまったという。このオンベラボウに飾る御幣を切る家が代々決まっていて、「カサ」という屋号で呼ばれる家(小泉清家)がそれなのだったが、これまた興味深いならわしといえるだろう。
このオコヤ、そして子供たちがオコモリ(御籠り)をするための道祖神小屋は、かつてはコウジュウの子供たちが集まって、自主的にそれを建てていたといい、第二次大戦前の時代のそのやり方を次に紹介してみよう。

(3)子供たちの道祖神小屋作り
かつての山王下の子供たちは冬休みになると、実によく働いた。農家の副業としてメケエ(目籠)作りがさかんにおこなわれており、家々で作られたメケエは地区内にいた仲買商の家に集められ、まとめて東京都心部の料亭などに納められる。年越しソバの盛り付けなどに用いられるため、年末が出荷のピークとなり、飛ぶように売れたものだという。12月下旬はメケエ作りの最盛期となり、まことに多忙な時を迎えるので、家々の子供らもそれを手伝わされることとなる。メケエは篠竹を細く裂いて編み、縁部分のみ孟宗竹が巻かれている。底の部分を補強する作業はシリッカガリと呼ばれ、それが子供らの仕事となっていた。大晦日になればメケエの出荷も終り、子供らは手伝い仕事から解放されるので、年明けとともに今度はセーノカミ祭りの準備に追われることとなる。
各コウジュウの子供らは、正月が過ぎた1月7日の七草の頃に全員が集まって、祭りの準備を以後、毎日おこなう。集まるのは小・中学生の男子のみで、最高学年の者が大将となり、皆を指図する。まずやるべきことはヒデを取る作業だ。ヒデとは松の根を掘り出して細く割ったもので、松ヤニを多く含んでいるため、火をつけるとよく燃える。それを松明にしたわけだ。皆で雑木林の中に入り、アカマツの根を掘って長さ20〜30pぐらいに切り揃え、細く割っていく。次に道祖神小屋を作るが、これは先のオコヤとは別に建てる三角錐型の小屋で、子供たちがオコモリをした後、いわゆるドンド焼きの火祭りで燃やされる小屋のことだ。七草の日以降、子供らは家々を回って小屋作りの材料となる古丸太・竹・稲藁、シメ縄や門松などの正月の飾り物、酉の市の熊手やダルマなどの縁起物を集めて回る。家々ではその時に、いくらかの小遣銭もくれたもので、それが祭りの費用になった。
小屋を建てる場所は、かつてはセーノカミドの前に一面に広がっていた水田地帯のまん中だった。田んぼの地面に棒で直径1間半ほどの円を描き、その円周内を深さ1尺ほど掘り下げる。さらにその円周上の7〜8ヶ所に印をつけ、そこに丸太を立てて互いに寄りかかるようにし、上を縄で縛ると小屋の骨組みができる。つまり、7〜8本の丸太を斜めに立てかけた円錐型の骨組みとなる。次に、丸太の隙間に何本もの青竹を同じように立てかけていって、上を縛る。こうして丸太と竹とで囲まれた屋根ができあがる。竹は上の方の枝葉を残してあるので、屋根のてっぺんには竹の葉が繁ったままの姿となる。小屋には入口を開けて人が出入りできるようにし、屋根の斜面にはカヤを葺いていくが、一束のカヤ(ススキ)を2ヶ所で縛ったものをたくさん用意し、根元を下にして小屋の下から上へと葺いていく。茅葺き屋根の葺き方と同じで、こちらは2段に葺くのだが、きちんと縄を通して縫っていくのであって、まことに手が混んでいた。
こうして小屋の形がほぼできあがると、最後の仕上げ作業が念入りにおこなわれた。小屋の屋根全体を縄で何重にも粗く巻いていき、その縄の隙間に笹竹の枝葉をはさみ混んで表面をびっしりと覆う。さらにその上には縄をぐるぐる巻きにして全体をしっかりと押さえ、縦方向にも2本ほど縄を張っていって、所々で縛り、固定していく。その屋根の上に、家々から集めた古いダルマや神札などをはさみこんでいって飾り、最後の仕上げとする。これほどに念入りで手の込んだ道祖神小屋を、子供たちのみで作っていたというのだからすごいもので、今の子供らには到底無理な話だろう。なお、小屋の中の床面は地べたがむき出しのままなので、そこにムシロを敷いたが、時には剪定枝などをそこに厚く敷き、割竹を粗く編んだものを載せて床面を作ることもあった。その方が尻が冷たくないうえに、床面を浮かせて作っておくと、火をつけた時によく燃えるのだという。小屋の中にはイロリを設け、七輪なども持ち込んで子供らが連夜、餅を焼いて食べたりした。それが1月13日夜まで続くオコモリで、実に楽しいものだったと経験者は語る。こうして14日になると、もうオコモリはなされず、小屋も燃やされることとなるので、小屋の中には家々から集めた門松やカヤ束などを詰め込んで一杯にしてしまい、もう人が入れなくなった。
写真に見るように、現在では大人たちが道祖神小屋を作っているのだが、小屋の高さは戦前の3分の1ほど、用いる資材の量は当時の10分の1に過ぎないとのことだ。昔の道祖神小屋は高さが11mほどもあったというから、これまた驚きというほかはない。なお、現在の小屋は子供らのオコモリがなくなったため、中には太薪が詰め込まれている。薪を入れておくと、それがちょうどよい感じで燠(おき)になり、メーダマ団子を焼くのに具合がよいのだという。
戦前の場合、道祖神小屋作りが終ると子供たちは、先に述べたセーノカミのオコヤを、今度は作らなければならなかった。休む暇もないほどに忙しかったという。オコヤの造りがどのようなものであったかについてはすでに触れたが、1月14日の夜にはコウジュウの大人たちが次々とそこをおとずれて賽銭をあげていくので、その賽銭箱が盗まれたりしないように、子供らは祠の前で夜通しの番をしなければならなかった。祠の前の地面に穴を掘り、そこでヒデを燃やし続けたものだったという。納められた賽銭は全額が子供らの収入になり、大将が1人1人にそれを分配したという。

(4)火祭りとメーダマ団子
現在のセーノカミ祭りは、山王下自治会の主催するイベント行事となっている。会場となる高岸公園には自治会のテントが張られ、そこが祭礼事務所となっていて、そこに発電機を据え、会場内の裸電球を灯している。地域の住民たちも続々とやってきて、事務所に寄付を納めていく。寄付金の奉納者名を記して貼り出すための花場も、そこに設けられている。前年に求めて神棚に祀られていた大きな福ダルマを持参してきて、道祖神小屋の前に納めていく人々も多く見られ、その数は例年、50〜60個にも達する。養蚕がさかんになされていた時代には、豊蚕祈願のためにどの家でもみな大きなダルマを祀っていたといい、日野市の高幡不動尊で1月28日に立つダルマ市へ、それを求めに行った。当地から日野まで街道を歩いていったものだといい、買ったダルマを風呂敷に包んで背負ってくる人々が、ぞろぞろと帰ってきたものだという。
小正月のメーダマ(繭玉)団子もまた、豊蚕祈願のためにたくさん作られたもので、それをセーノカミ祭りの火で焼いて食べると風邪をひかないといわれている。家々では座敷の床柱の前に石臼を置き、その石臼の穴にシラカシとコナラの木の枝を挿し立て、枝先にはメーダマ団子とミカンとをたくさん刺して飾った。メーダマの木に、葉つきの常緑樹と葉の落ちた落葉樹の木とを、取り混ぜて用いることになっていたというのは、おもしろい習慣だ。団子は球形をしていたが、繭をかたどってヒョウタン型にしたものも少しは混ぜることになっていた。子供らがセーノカミの火でメーダマを焼く場合は、先端が三つ股になっている長さ3〜4mほどのシラカシの長い枝を用意し、そこに3個の団子を刺す。現在では自治会がそれを用意し、集まった子供たちに配っている。家々が持ち寄ったメーダマを互いに交換して焼いて食べると縁起がよいなどと言われたことなどは、他地域でもよく聞かれることなのだった。
小正月にはまた、マダケの竹棒の先端を細かく割り、そこにニワトコの枝を7〜8本刺したアーボヘーボ(粟穂稗穂)というものも必ず作り、屋外の堆肥置場に立てたが、これらはみな1月14日におこなわれる行事だった。この日の夜には必ずソバを食べることにもなっていたが、ここでいうソバとは実はウドンのことで、多摩地域ではどこでもウドンのことをソバと呼んだのだ。時には本物のソバを打つこともあったというが、雑木林の開墾地でよくソバが作付された。開墾地のことをアラク(新処)、開墾をすることをアラクッキリ(新処切り)といったが、そのような耕地では最初にまずソバを栽培するのがならわしで、よいソバが取れたという。なお、小正月のセーノカミ祭りでなぜセートヤキの火を燃やすのかということの説明として、南多摩地域や神奈川県下ではヨウカゾウ(コト八日行事のこと)の一つ目小僧の話がよく聞かれるのだが、当地にもそれが次のような内容で伝えられている。山崎祐子さんによる調査報告から、それを引用させていただこう。
十二月八日と二月八日はヨウカゾウといい、一つ目小僧が来るといった。十二月八日は、一つ目小僧が家々を回り、外に出ている履物に印を押し、行状を帳面に記す。判を押され、行状を記された家は、翌年、疫病にかかってしまうという。その帳面をセーノカミ(道祖神)に預け、二月八日に取りに来る約束をして帰る。セーノカミは村の守り神なので、なんとか村人を助けようと、一月十四日に自分の家を火事にし、預かった帳面を燃やしてしまい、二月八日に帳面を取りに来た一つ目小僧は、すごすごと帰っていくのだという。それで、一月十四日のセーノカミは、大きく作って、大きく燃やすのだと伝えられている。なお、ヨウカゾウの夜は、履物を外に出さず、一つ目小僧が来ないように、匂い強いグミの木を炉でいぶし、目のたくさんあるメケエ(目籠)を竿竹で高く掲げたり、出入口の柱に吊したりした[山崎,2006:p.180]。
さて、あたりがすっかり暗くなった午後5時半頃、いよいよ今年の火祭りが始まった。火のついた藁束の松明を自治会役員の方々が手に持ち、道祖神小屋を取り囲んで四方からいっせいに点火がなされると、小屋はいきおいよく燃えあがり、祭りは一気にクライマックスの時を迎える(写真74〜79)。
 
写真74 道祖神小屋に点火

 
写真75 祠を火に放り込む

 
写真76 燃え上がる道祖神小屋@


 写真77 燃え上がる道祖神小屋A

 
写真78 メーダマ団子を焼く

 
写真79 カッポ酒
火の熱はまことにすさまじいもので、あまりに熱くて近づけないので、見物の人々は火から離れて遠巻きに見守っている。小屋の屋根を覆うカヤが焼け落ち、丸太の骨組みがむき出しになった頃、今度はその火の中に、道祖神のオコヤをみなで担ぎあげて放り込んでしまうが、何しろ火力が強いので、あっという間にそれは跡形もなくそれは燃えつきて消え去るのだ。書き初めの作品を持ってきて、火の中に投げ入れていく子供らも目にするが、それが火にあおられて空高く舞い上がると、習字の手があがるとされているのは、どこでも聞かれることだ。この火の燃えさしを拾って持ち帰り、家の入口に立てておくと、泥棒よけになるなどとも言われている。いつしか道祖神小屋の骨組みも焼け崩れて、大きな燠火のかたまりのみが残された状態になった頃、今度は団子焼きが始まる。子供たちは手に手にメーダマ団子を刺した木の枝を持って火を囲み、遠火で団子を焼いていく。大人たちは火を囲んで酒盛りの真っ最中だ。

(5)カッポ酒
そこで、山王下のセーノカミ祭りの名物でもある「竹酒」のことも、最後に少し触れておこう。それは太い孟宗竹の節を抜いて酒を入れ、火祭りの火のかたわらに立てておき、火の熱で竹筒ごと酒を温めて燗酒にし、みなに振る舞うというもので、いわゆるカッポ酒のことだ。竹筒の中に節が少し残っているため、酒を注ぐ時にカッポカッポと音がするのでそう呼ばれるわけなのだが、酒に移った青竹の香りが何ともすがすがしい。身体にもよいといわれているし、セーノカミの火で燗をした酒なのだから、縁起もよいことだろう。太い竹であれば、節を二つ抜いただけで2升もの酒が入るそうで、筆者が見学した時にはそれが3本ほど用意されていたが、集まった人々にそれが豪快に振る舞われる。盃もまた竹を切って作ったコップ状の盃で、節の部分にわざと枝葉を少し残しているのは、なかなか風情があってよい。竹筒の先端は斜めにスパッと切り落としてあって、あたかも門松の竹のごとくだが、そこから盃に酒を注ぐと、どうしても脇に少しこぼれてしまって無駄が多いということで、今では一旦、ヤカンに酒を移してからみなに注いでいる。
この「竹酒」は、西多摩から南多摩にかけて、さらには神奈川県下などで、道祖神祭りの場でよく振る舞われている。奈良県の古刹、大安寺では毎年1月23日に笹酒祭りという祭りがおこなわれており、正式には光仁会というのだが、青竹に酒を入れて焚火に突っ込み、沸かして参拝者に振る舞うことで知られている。がん封じに御利益のある酒といわれている[久保・他,1980:p.20]。宮崎県延岡市では、秋の落ちアユ漁がおこなわれる際に河原宴が催され、カッポ酒が振る舞われるという。青竹を節の所で切り、そこに酒を注ぎ込んで火の近くであぶると竹の香りが酒に移る。竹筒の先を斜めに切っている所から注ぐと、カッポカッポと音がする。九州なので日本酒ではなく、湯で割った焼酎を竹筒に入れるということだが、度数18度の焼酎を酒4:湯6の比率で割ることになっているのだそうだ[堀田,2010:pp.3-4]。
さて、セーノカミ祭りの竹酒を振る舞われながら、筆者らもほろ酔い気分で自治会の方々と楽しいひとときを過ごしていたのだったが、古老らの昔話にもおおいに花が咲く。自分たちは少年時代、一生懸命に道祖神小屋を作って頑張ってきた。大人になって引退したものの、その後の時代には子供もすっかりいなくなってしまい、誰もそれを引き継いでいってはくれなかった。仕方がないので、老人になった今でも結局、自分たちが小屋を作り続けているんだよ、というお話には私たちも、なるほどなあと、うなづくほかはない。落合の鎮守社、白山神社の氏子総代をつとめる最長老格の老人は、今では廃れてしまった同社の獅子舞芸能を、幼少時に見た経験談を懐かしそうに語っておられた。その獅子舞は三匹獅子による舞で、日照り続きの旱魃の時に雨乞いのために上演されたといい、最後にそれを見たのは1935年(昭和10年)のことだったという。ニュータウンの建設を通じ、地域は大きく変貌してしまったが、よき時代を知る人々はまだたくさんおり、セーノカミ祭りはそれらの古老たちの同窓会のような場にもなっているのだ。

謝辞
調査にあたっては山崎祐子氏によるご案内と、落合在住の田中登氏から多大なご協力とをいただいた。心からの謝意をここに表しておく。
引用文献
堀田俶子,2010「落鮎とカッポ酒」『左海民俗』132,堺民俗会.
久保道徳・福田信三・勝城忠久,1980『薬草入門―栽培・加工と用い方―』,保育社.
松尾あずさ,2017「ニュータウン開発後の年中行事の維持―東京都多摩市山王下のセーノカミ―」『西郊民俗』241,西郊民俗談話会.
長沢利明,1990「小正月と年中行事―山梨県富士吉田市新屋の事例―」『帝京大学山梨文化財研究所研究報告』bQ,帝京大学山梨文化財研究所.
山崎祐子,1997「年中行事」『多摩市史・民俗編』,多摩市.
山崎祐子,2006「多摩市山王下の賽の神」『東京都の祭り・行事―東京都祭り・行事調査報告書―』,東京都教育委員会.
 
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