西郊民俗談話会 

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連載 民俗学の散歩道 27
   2021年8月号
長沢 利明
錐の神様
 web上で表現できない文字は?となっております
  『江戸神仏願懸重宝記』に収録されている計31件の民間信仰対象のうち、何としてもその来歴が明確につかめず、お手上げ状態だというものがいくつかある。その代表的なものが、「錐大明神」であろう。一体それが何の神で、どこからもたらされたものなのか、どういう人々がその信仰を広めたのか、まるでわからないというほかはないのであるが、もちろんそれへの具体的な信仰も現在では完全に消滅してしまっている。わずか200年ほどで信仰も伝承も消え失せ、いまや何もわからなくなってしまったわけである。もとより庶物崇拝とはそのようなもので、それが宿命なのだといわれればそれまでであるが、それにしても歯がゆい思いを禁じ得ない。今後、何らかの手掛かりが得られたならばということを期待して、少なくともここまではわかったということを若干提示して、情報提供を呼びかけておきたいと思う。まずは、重宝記に記された「錐大明神」の部分の原文を、以下に引用してみよう。
両國(りゃうこく)橋(ばし)のまんなかにいたりて飛騨(ひだ)の國(くに)錐(きり)大明神(だい)と念(ねん)じて北(きた)の方へむかひ、錐(きり)を三本づつ川の中へ流して(なか)疾(しつ)瘡(さう)のわづらひを平癒(へいゆ)なさしめたまへと願かけするに、日あらずして忽ち(たちま)あとなくいゆる事神(しん)のごとし。平癒(へいゆ)してのち、ふたたび錐(きり)を三本川へ流し(なが)礼拝(れいはい)なせば、ふたたび発(はっ)することなし。をのれが年(とし)をしるし橋上(はしのうへ)の番屋(ばんや)にいたり、しかじかのわずらひを歎(なげい)て錐(きり)を求め(もと)、其ところに朔日ごとに五つときまで精進(しゃうじん)して、飛騨國(ひだのくに)錐(きり)大明神(だいみゃうじん)ととなへてしんじんなすべし。断物(たちもの) いわし、ひしこ、ごまめ、たたみいわし。縁日(えんにち) 卯ノ日。右三ヶ年の間(あいだ)、禁(きん)ずべし。
 このように、錐大明神に対する願掛け方法は、まことに風変わりなやり方が取られており、その祈願がなされる場所は寺社ではなく両国橋、すなわち現在の中央区東日本橋2丁目と墨田区両国1丁目との間に架かる大川(隅田川)の橋の上と定められていた。祈願者は橋の真ん中に立って北の上流側に向かい、3本の錐を川の中に投じて、疾瘡の平癒を祈ったというのであるが、願が叶えば再び3本の錐を川に流して礼参りをおこなったという。願掛けに用いられる錐は橋の上の番屋で売っており、自分の年齢や病状のしかじかを申告して、錐を分けてもらっていたというのも興味深い。
 祈願者にはまた、きびしい精進も求められていて、イワシ・ヒシコ・ゴマメ・タタミイワシなどの魚を3年間、断たねばならなかったが、断ち物がすべてイワシ類であったのはなぜであろうか。それもよくわからない。毎月1日の五ツ時まで精進をおこない、「飛騨国錐大明神」と唱えて祈願をおこなうことにもなっていた。飛騨国の錐大明神とあるのは、ひとつの重要な手掛かりともいえようが、飛騨の工匠たちにとって錐は重要な工具であったろうから、何となく納得はいく。そこで筆者は、岐阜県飛騨地方の建築集団に関する記録資料をくわしく調べてみたけれども、錐大明神という神がそこで信心されてきたとの情報は、何ひとつ得ることができなかった。飛騨の工匠たちのことについてくわしい専門家たちに、ぜひ一度たずねてみたいところなのだが、筆者には何のあてもないので、今後への宿題としておきたい。
 なお、文政7年(1824)に記された四壁庵蔦茂の『わすれのこり』下巻を見ると、「永代橋には歯の痛みを治せんと、錐大明神へ願をかけ、ちいさき錐を水中に納む」とあり、両国橋ではなく永代橋でそのような願掛けがなされていたというのであるが、そこでの祈願目的も疾瘡平癒ではなく、歯痛の治癒ということになっている。祈願場所を永代橋上と記した資料はこれだけであるから、それは両国橋の誤記なのかも知れない。あるいは、あちこちの大きな橋の上で、それぞれ異なった祈願がなされていたということなのかも知れない。それもまた、よくわからないというほかはないのである。なお、両国橋上での錐大明神への祈願は、井上円了の『迷信と宗教』の中にも触れられているが[井上,1916:p.94]、それが『江戸神仏願懸重宝記』から得られた知識であったろうことに、まちがいはないであろう。さらに、近年では直木賞作家である杉本章子氏の時代小説、『起き姫―口入れ屋のおんな―』にも錐大明神のことが触れられていたことも記憶に新しいが、その一節を参考までに引用してみよう。
「錐大明神様。どうか、どうか、富之助さんとの縁を切ってくださいまし」 心のなかで念じたおこうは、錐を川へ投げこんだ。錐はとぷんと水音を立てて沈んだが、また浮いてきて川下へ流れていった。おこうは欄干に手をついて、しばらく立ちつくしていたが、やがて柳橋を離れた[杉本,2015:p.22]。
小説の主人公であるおこうは、両国橋ではなく柳橋の上から錐を川に投げて、自分を裏切った夫との離縁が叶えられんことを神に祈っている。それは病気平癒のための願掛けではなく、縁切り祈願ということになっているのであった。「橋の上から願いを込めて錐を投げると、願いが叶う」、「錐は木や紙に穴をあける道具なのだから、とても叶いそうにない願いごとも、ちゃんと貫き通して下さる」という考え方がそこにあるのであるが、祈願場所も祈願目的も、重宝記の記述とは一致しない。この小説の参考文献には、宮田 登氏の『江戸の小さな神々』があげられているので、おそらく杉本氏はそこから錐大明神のことを知ったものと思われるが、その宮田登氏の本には「錐大明神というのは、流れの早い川上から、二、三本の錐を、願をこめて投げると、願が叶うとされている。切りもむ大工道具である錐は、人の願いもまた貫通するようにということで使われた呪具であった」と、わずか3行ばかりの記述があるに過ぎない[宮田,1997:p.73]。どこの川に錐を流してもよい、あらゆる願いが叶う、という解釈はもちろん正確ではないと思われるし、重宝記にはそう書かれていないのである。
 それはともかくとして、錐というひとつの木工用具・大工道具が、信仰のシンボルとなったという例はほとんどほかに例を見ないし、きわめてそれは特殊な例であったといえる。たとえば、子ノ権現信仰では木槌が重要な奉納物とされているし[長沢,1994]、京都の釘抜地蔵の場合は釘抜き鋏(ペンチのようなもの)が奉納物となっている。木槌の場合は、それで下半身の痛む患部を叩くと病が消え失せるとされ、釘抜きの場合は「苦を抜く」ための呪具であると説明されてきた。では、錐とは何なのであったろう。それで何かを突き刺したり、孔を穿ったりしてみたところで、何がどうなるというわけでもない。どのような類感呪術がそこに働いているのかが、やはりよくわからないのである。強いていうならば物事をつらぬき通す、という先の解釈がそこに出てくるわけであったろう。
 そして、もうひとつよくわからなくさせている点として、この錐大明神という神が特定の神祠などに祀られているわけではなく、ただ両国橋の橋の上で拝むべき神とされていることも指摘されよう。目に見える具体的な崇拝対象がないために、その神があまりにも漠然とした存在としてとらえられてきたということが、よけいにこの神のことをわからなくさせている。しかし、よく調べてみると、この神を祀る神祠は実は存在するのであって、港区の麻布十番稲荷神社(港区麻布十番1-4-6)の境内祠のひとつに、「錐大明神」と称する神が鎮座していたらしいことは、あまり知られてこなかった。麻布十番稲荷神社は、かつてこの地にあった竹長稲荷神社・末広稲荷神社の二社が戦災焼失し、戦後の昭和21年(1946)になって両社が合併して成立した神社なのであった[長沢,1989:p.99・川村(編),1965:pp.57-58]。二社の稲荷社のうち、錐大明神がもともと祀られていたのは竹長稲荷神社なのであって、同社は旧麻布区麻布永坂町43番地に鎮座していたという。二社の合併後、錐大明神は今の麻布十番稲荷神社の境内社となったのであるが、その後はほとんど忘れ去られてしまっていたようで、筆者が1980年代に麻布十番稲荷神社の宮司にたずねてみたところ、そのような境内社があったことはまったく知らないし、先代からも聞いていないということであった。
 幕府編さんの『御府内寺社備考』の竹長稲荷神社の項を見てみると、そこには境内摂社のひとつとして錐大明神という小祠が祀られているとあり、それについての貴重な解説も載せられている。それは、以下のようなものであった。
錐大明神(神秘)。右者開祖より三代目清達法印代々尊家より當社ニ納メ賜ふよし、誰彼より納る哉相分不申候。縁起。抑當社の別殿にあかめ奉る錐大明神ハ本地東方瑠璃光薬師佛也。御誓願に萬の悪疾を愁ふる輩を済度せんとの神託也。故に此御神ハまま海濱の路を垂玉ふ。海岸の民ハ別して悪疾異瘡を病者多し。爰に年有て去ル尊家疾となく瘡となく全身腫痛ミ玉ひ、其愁甚敷、百醫尽とも其験なし。其近土此神誓を聞傳、丹誠をぬきんでて祈ルれハ、一七日未満さるに難病忽快気ありて年を追而聊も其愁なし。尊家帰依渇仰の餘り其居の往還に一社を建、斯寓に歩を運ひ給ひしか、祈る奇特ニ異俗家の穢に交り玉ふ事深く怕れて當社の廣前に移し奉る。是より近隣遠境聞傳へ歩をはこひ悪瘡腫物苦痛の族祈願するに、國を満て或ハ行歩叶ハされハ代参して病難を遁れ助る事赫々然として、闇に日論を拝するか如し。小児の疱瘡発するとき(俗に云初病)、親族等代参して祈り奉るに総て順癒にして神徳を仰き奉るもの、算ふるにいとまあらす。立願の最初に錐を捧奉るハ、俗その神名を敬し奉るの縁ニや。是俗中の事なから神徳の世民に及すの理り也。故に錐束の明神とも申て、是和光日塵の御誓ひ恐れミおそれミ奉る而已。
ここには竹長稲荷神社の宮司家の手で、錐大明神が初めて別殿に祀られたこと、その本地仏は薬師如来であるとされたこと、立願の時に錐を奉納したのでその神名が生まれ、「錐束の明神」と呼ばれることもあったとのこと、などなどの新情報が記されている。幕末の開国にともなって、外国からもたらされた疫病が東京湾岸地域に蔓延していた際、宮司家も感染に苦しんだものの、この神に祈ったところ、七日間を待たずに全快したので、一社を設けることとなった、その噂が広まって多くの代参者もやってくるようになった、特に小児の疱瘡治癒を祈る信徒が祠前に殺到するようになった、などなどの記載にも注目すべきものがあるであろう。
 両国橋の上で、錐を川に流してなされていた錐大明神への疾病除けのまじないは、かくしてその祈願対象が一社を設けて祀られるまでになり、恒久的な神祠として、それが麻布の竹長稲荷神社の境内に鎮座するまでになったというのである。『御府内寺社備考』に載せられた同神社の境内図を見ると、当時の竹長稲荷の境内入口は南側にあり、鳥居をくぐって境内に入ると、社殿前の右側に天満宮・弁財天・疱瘡神・錐大明神の摂社四社を並べて祀る祠堂があったことも判明する。しかしながら、現在の麻布十番稲荷神社の境内からは、それらはすでに失われているのであった。
 さて、ここで錐大明神信仰が江戸へもたらされたことの背景を少しでも探ってみるために、関連する類似事例をふたつほど、参考までに取り上げておくことにしよう。まずそのひとつは、真義真言宗の総本山で興教大師覚鑁上人とゆかりの深い、紀州の根来寺(和歌山県岩出市根来2286)に祀られている「きりもみ(錐鑽)不動尊」である。同寺境内にある不動堂は、延宝八年(1677)再建と伝えられる古い八角堂であるが、本尊の不動明王は「三国一のきりもみ不動尊」・「厄除け身代わり不動尊」などと呼ばれて信仰を集め、今日では厄除け祈願や自動車の交通安全祈願でよく知られている[岩出町誌編集委員会(編),1976:pp.937-938]。当寺開山の興教大師の身代わりとなり、その危機を救ったのがこの不動尊であったと伝えられている。縁起によればその昔、大師の徳望を妬む暴徒らが寺堂内に乱入し、大師に危害をくわえようとしたという。しかし大師は泰然自若として一心に不動尊を念じ、自身と不動とが一体となる「入我我入」の境地に入った。暴徒の目には大師の姿と不動とが同じに映り、二体並んでいるように見えた。暴徒らは、二体のうちのどちらが大師かをためそうとし、弓の鏃(やじり)で不動の膝の所を錐を揉むように突いたが、最初にためした木像の方の膝から鮮血がほとばしり出たので、それに驚いた暴徒らは逃げ出していき、大師の命が救われたというのである[根来寺文化研究所(編),1987:pp.625-626]。以来、この不動尊は災難除けの身代わり不動として、あつく信心されるようになったという。この根来寺の「きりもみ不動尊」を拝礼するための御影軸も各地に残されているが、ここに掲げたものは、東京都狛江市の小沢和夫家に伝えられてきたものである(写真150)。


 写真150 根来寺の錐鑚不動
  この根来寺の参考事例は、同寺の不動堂の本尊が「きりもみ不動」と呼ばれるようになったというその由来を、縁起説話にもとづいて説明するものなのであったが、その説話によれば、大師を襲った暴徒らは錐ではなく、鏃で不動像を傷つけたということになっている。また、信徒らによる錐の奉納などが、そこでなされているわけでもない。江戸の錐大明神との関係は、ほとんどないといってもよいことであろう。それに比べれば、もうひとつの類似事例である埼玉県の武蔵第六天神社(埼玉県さいたま市岩槻区大戸1752)の例は、錐の奉納が今でもさかんになされていて、江戸の錐大明神の信仰事例との多少の関連性が感じられるのである。
 武蔵第六天神社は、第六天を祭神として祀る神社で、かつては関東一円に多くの講社が組織されており、きわめてさかんに信仰されていた。参拝におとずれた講社の講員や一般参詣者らが、この神社から授かっていくものは、神札のほかに眷属の青天狗・赤天狗の描かれた小絵馬、そして「神(かみの)錐(きり)」と呼ばれる一本の神聖な錐なのであった。神錐は、今でも社務所から希望者に授与されているが、それは主として耳の病あるいは頭痛をわずらっている人々がその平癒を祈るために用いられる呪具なのであって、神社から授かったその錐を家に持ち帰り、朝夕に3度ずつ、耳や頭にあてて祈願をおこなうと、病が治るといわれている[岩槻市史編さん室(編),1984:p.709]。特に耳病に悩む人は、耳に錐をあてる時、神社の祭神である第六天神の御名を唱え、錐の先端部で耳を突くとよいともされている[埼玉県神社庁神社調査団(編),1998:p.951]。いずれにしても、その祈願が神に届いて病が治すると、錐を2本に増やして神社へ奉納し、礼参りをするということも、決められた作法なのであった。
 武蔵第六天神社の社殿右脇にある納札所をのぞいて見ると、信徒らによって納められたたくさんの錐が山積みになっているさまを見ることができるが(写真151)、大小さまざまな錐が奉納されていて、特に大きい物は信徒が自分で金物屋などから買ってきたものであり、かつては長さ90pもある巨大な錐を納める人もおり、それらの錐が拝殿のまわりに山のように積み上げられていたという[同:p.951]。そのように、奉納する錐は自分で調達してきてもかまわないわけで、かつてはそれが普通のことであったと思われる。参拝者の便宜のため、いつしか社務所からもそれを頒布するようになったということなのであろう。現在、神社から出されている神錐は、長さ24pほどの小型の四つ目錐で、「武蔵第六天神社」という焼印があるうえ、その先端部が耳を傷つけることのないように白紙の護符が巻かれているので、すぐにそれとわかる(写真152)。
 
写真151 奉納された御神錐


写真152 神錐と護符
 その護符をほどいてみると、祭神の眷属である天狗にちなむ羽団扇紋の神璽がそこに捺されている。
 武蔵第六天神社に関するさまざまな信仰利益のうち、「特殊信仰」として特に耳病平癒と頭痛平癒の二項目があげられているが、それこそが実はこの神錐のご利益のことをいっているのであって、神社の看板にもそう表示されている。そして、この神錐を授与する際に信徒に手渡される注意書には、以下に掲げるような興味深い解説もなされているので、参考までにここにその全文を引用しておくことにしよう。
  神(かみの)錐(きり)について
神錐は耳病平癒・頭痛平癒の護符として、江戸時代より伝わるものです。朝夕に心中祈念を込めて、唱え言葉を唱え、耳を突く真似事を三度、又は頭の痛いところを三度、突く真似事を繰り返して頂くと自然に耳病・頭痛が癒えると古来より伝えられております。
                              武蔵第六天神社社務所
 ※神錐は平素神棚若しくは目上の清浄な場所に置いてください。
 ※神錐は本物の錐のため、お子様等の手の届かないよう注意してください。
 ※錐の先に護符が巻いてありますので。護符は取らないようにお願いします。
 ※病気又は症状が平癒の暁には、錐を二本にしてお納め頂くのが慣わしです。
 ※社務所にて新たにお受け頂くか、金物店にてご購入頂きお納め下さい。
  唱え言葉
第六天(だいろくてん)大神(おおかみ)と称えまつる(たた)、面(おも)足(たるの)大神(おおかみ)さま、天神(あまつかみ)の大いなる(おお )御神(ごしん)徳(とく)により、「病名」又は「症状」を、直し癒(なおいや)して下さるようお願い(ねが)致(いた)します。             氏名
 
 ここにもあるように、錐を用いての耳病・頭痛治しの願掛けは江戸時代から続けられている伝統的祈願方法であるといい、授与された神錐は神棚に祀られ、願の成就の後にそれを二本にして神社へ納めること、面足神すなわち第六天の神名を唱えつつ、その錐で耳や頭を三度突くといったまじない方法が定められていること、などなどがわかるのである。
 武蔵第六天神社の「神錐」は、あくまでもそこでの祭神である第六天に対する祈願のための呪具なのであって、錐大明神という言葉はそこにはまったく出てこない。この特殊な祈願習俗は、江戸の錐大明神信仰と何らかの関係を持つものなのであろうか。関係があるとも、ないともいえないし、やはりわからないとしかいいようがないのであるが、参考事例として、ここには紹介しておいた。
 重宝記に記された錐大明神への祈願に関する諸問題を、わかる範囲で調べ直してみたことの結果は、おおよそ以上のようなものであった。残念ながら、これ以上のことはわからないのであるが、一応の調査の到達点をここに述べておいた。今後、もう少し何かが新たにわかってきたならば、おもしろいのであるが、おそらくさほどの期待はできないのではあるまいか。謎は謎のままにしておいてもよい、ということなのかも知れないのである。
引用文献
井上円了,1916『迷信と宗教』,至誠堂書店.
岩出町誌編集委員会(編),1976『岩出町誌』,岩出町.
岩槻市史編さん室(編),1984『岩槻市史・民俗史料編』,岩槻市役所.
川村 実(編),1965『麻布の名所今昔』,総本家永坂更科.
宮田 登,1997『江戸の小さな神々』,青土社.
長沢利明,1989『東京の民間信仰』,三弥井書店.
長沢利明,1994「子の権現の木槌」『杉並郷土史会会報』124,杉並郷土史会.
根来寺文化研究所(編),1987『根来寺史・史料編』,根来寺.
埼玉県神社庁神社調査団(編),1998『埼玉県の神社(北足立・児玉・南埼玉)』,埼玉県神社庁.
杉本章子,2015『起き姫―口入れ屋のおんな―』,文芸春秋.

 
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