西郊民俗談話会 

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連載 民俗学の散歩道 28
   2021年9月号
長沢 利明
咳の爺婆
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  百日咳や風邪を治す神として、御利益絶大とされてきた民間信仰神が全国各地に祀られており、その多くは石造の老婆神像もしくは老翁・老媼の夫婦神像なのであって、単なる路傍の自然石であることも多い。その呼称もさまざまで、「咳の爺婆」・「咳の姥神」・「咳のお婆さん」など、親しみを込めながらさまざまな呼び名で称されている。『江戸神仏願懸重宝記』にもこれに類するものが一例、取り上げられているが、本所の弘福寺(墨田区向島5-3-2)の境内にある爺婆像がそれである(写真153)。

写真153 咳の爺婆
  山門をくぐると参道の右手にある小堂内に祀られている老翁・老媼の一対二体の石像なのであるが、現在では「翁媼尊」と呼ばれており、やはり風邪や咳を治す神とされてて、新型コロナウイルス感染症が大流行している今日では、「コロナ封じ」の神としてもあつく信仰されるようになった[長沢,2021:pp.235-236]。
 この弘福寺の老翁・老媼像は、俗に「咳の爺婆」と呼ばれてきたのであるが、柳田国男の『日本の伝説』の冒頭にも、「咳のをば様」としてこれが取り上げられているほか[柳田,1964:pp.137-151]、大島建彦氏の『災厄と信仰』の中でもくわしい解説がなされている[大島,2016:pp.103-110]。重宝記ではこれを「の」と称しているが、それに関する解説文を、以下に引用してみよう。
のつきぢの御やしきに、年にてのかたちをりなしたるあり。諸人たんせきのうれひをのがれんことをぐゎんがけするにすみやかにする。ほどきには、をいりてずるなり。百日ぜきすべてになやむ人、これをずることよりの事なりとそ。諸人是をのさまとず。
 「石の婆々様」の石像は当時、向島の弘福寺の境内にではなく、築地の稲葉侯の屋敷内にあったと記されているが、稲葉侯とは小田原藩主稲葉丹後守のことで、築地にあったこの大名の中屋敷内に、もともとそれは祀られていたのである。弘福寺にそれが移されたのは明治維新後のことで、廃藩によって中屋敷が消滅した後、稲葉侯の菩提寺であった向島の弘福寺へそれが移されたわけなのであった。
 重宝記の記述にはまた、老婆像のことばかり書かれていて、老翁像のことは一言も触れられていないことからも知れるように、咳止め祈願は主として老婆像に対してなされていたのであって、中屋敷内の別の場所に祀られていた老翁像の方は、影の薄い存在であった。あらゆる近世地誌にも老婆像のことばかりが記されていて、たとえば『江戸砂子補正』にある「老婆石」も、「木挽町築地稲葉丹後守正甫中屋敷にあり。高さ二尺五寸計の自然石なり。老女の形なり。いり豆・煎茶を以て咳の願をかくる」とある。文政6年(1823)の『江戸塵拾』巻一ではこれを「咳の老女」とし、「築地稲葉丹後守中屋敷に有り。高サ二尺余の自然石にして老女の形なり。咳の願をかくるに早速平癒する神石なり。諸人豆入・せんじ茶を捧ぐ。此石いつの頃より有といふ事をしらず」と、ほぼ同じことを述べている。
 大名屋敷内に祀られた民間信仰対象を一般庶民にも開放し、門番に頼んで中に入らせてもらい、拝礼が許されていたという例は有馬家の水天宮の例をあげるまでもなく、しばしば見られたことであった。そのあたりの事情については、次の『十方庵遊歴雑記』の記述にくわしく、「稲葉家咳の願爺媼の石碑」の項に次のように解説されている。
武城築地稲葉対馬守中やしきは、西本願寺の川向にあり。当やしきにもろ人の咳の病を救ふ爺媼の石像ありて、一切の咳に悩む者、彼の石像に頓首し咳を治し呉候へとたのみ、て後、米と豆ととの三つを合せし煎物を願ほどきに供ずる事なり。人の信にもよるべけれども、詣て願かけ頼し人癒らずといふ事なしといひ伝ふ。則ち川側の辻番処際の通用門より入也。門番のものへ咳の願懸たく、爺様婆さまへ罷通るといへば、能所をおしゆ。則ち門を入左の方川岸蔵に添、東の方壱町ばかり左側に稲荷の小社あり。東向にして大さ四間、別当体の者宮にそひて住居すと見ゆ。社内八九間四方もあらん。此社内練塀を後にし小高き処に南面しての石像あり。顔少し左の方へ曲てし様也。但し、綿帽子様のものを深くかふり、両手を袖の内にして膝の上に置し形と見ゆれど、いかにも石古く藩中の児輩常に手して撫るにや、つやつやとして衣類と覚しき筋のみ見ゆ。顔面口元も柔和に眉毛なく耳はかふりものの内に隠れし様也。恰達摩の柔和なるものにて丈弐尺ばかり、石の宝殿の如きものの中に入たり。此媼の石像爺と中あしく睦じからねば、一処に居ずして別れ別れに成て住と巷談す。実も此稲荷より壱町ばかり東南の方観音堂の境内に爺の石像あり。則ち左側に南面して丈三尺ばかり、なく四角の石の上にたり。媼と同じく物して立膝して両手を袖の内に蔵して膝の上に置蹲踞たる様也。顔面は優からず口をむすび皺面作りて、媼の石像より一倍大きく、石の性は同物にて古く手摺て見ゆ。年代いつ頃何人の作、何のために最初作りしといふ事を知るものなく、又いつの頃より此爺媼の像をたのみて咳の煩ひの癒といふ事をいひ初めしやらん。伝えいふ、最初媼の像へ頓首して咳の病ひ癒呉候へとたのみて、直に爺の像へて口上申すべきは、媼どのへ咳の煩ひ癒し呉給へとたのみ候へども、媼殿の手際覚束なし、何卒咳止候やうにひとへに頼むと願かける事也。かくの如すれば日あらずして癒也。是爺婆中悪きの證なりと巷談す。則治して後願ほどきの礼参として、双方の石像へ煎ものを供ずるとなん(後略)。
 まことに興味深いことに、中屋敷内には老翁像と老婆像とが離れた所に別々に祀られていたということで、婆様の方は屋敷内東方の稲荷社の近くにあり、石造の宝殿の中に安置され、多くの参拝者に撫でられて石の表面がテカテカになっていたとある。一方、爺様の方はそこから一町も東南に離れた観音堂のそばに祀られていたといい、こちらはむき出しの雨ざらしであったとあるが、「媼の石像より一倍大きく」とあるのは何とも解せない。現況はまったく逆で、老婆像の方がずっと大きく、老翁像は小さくて目立たないのである。祈願者はまず老婆像を、次に老翁像を拝礼したとあるが、婆様だけでは何か頼りないので、爺様の方も拝むことになっていたという。爺と婆とは互いに仲が悪かったので、離ればなれに祀られているのだろうと諸人は噂した、というのもおもしろことではあったろう。願掛けの成就の後には、米・豆・アラレの三つを合せて煎ったものを供えたとあるのは、この資料のみに記されたことであった。
 実をいえば、この爺婆像は最初から稲葉侯の屋敷内にあったわけではない。遠い昔にはそれは、小田原から箱根へと向う道中の風祭という地の路傍にあったといい、御利益絶大ということで領主の目にとまり、江戸の藩邸へとそれが移し祀られたというのである。相州の山中にそれを最初に祀ったのは風外という奇僧で、彼は風祭の地に庵を結び、しばらくそこに住んでいた時に、これらの石像を祀ったと伝えられる。後に彼はそこを出て行ったが、石像だけはそこに残されて、庶民信仰を集めるようになっていったらしい。そのあたりの事情については、天保10年代(1839〜1849)に三浦義方によって記された『相州集志』にくわしく述べられているので、これも引用してみよう。
一風祭村宝泉寺境内ニ風外禅師ノ石墓所アリ。里俗アヤマリテ蛇墓と云。風外玄秋禅定門、貞享元甲子七月十日。。(中略)稲葉侯ノ始祖小田原ニアリシ時、其辺ノ里ヲ巡検セラレシニ、トアル深山ニ至ルニ、一ツノ草庵三人ノ老僧ノ住ルアリ。其号ヲ風外ト云。後是ヲ城中ニ請セントスル事屡也。故ニ其後一度城ニ入事、城主ニ見ユルト言トモアヘテ悦ヒトセス。受ル所ノ種々ハ其家臣田崎(田辺カ)某カ許ニ置テ出去、終ニ行方ヲシラスト也。其住タル所ノ庵ノ件ノ石像ヲ残シテ有シヲ、後此地ニウツサレケルトナリ。サレト共ニ何人成ル事ヲシラストソ。伝云ク、此耆嫗ノ石像ヲ一双並ヘ置時ハ、カナラス耆ノ石像倒ルル事アリト。ソニ依テ耆ノ石像ハ稲葉侯累代牌堂ニ迂シ、嫗ノ石像ハ稲荷社前ニ置ト也。又耆ノ石像ハ口中ニ病アルモノノ寄願シ、嫗ノ石像ハ咳ヲ悩モノ寄願スルニ必ス霊験有リト云リ。或人ノ曰ク、石像ノ二体ハ風外カ父母也ト云。其時ノ風外ノ住シ庵ヲ法泉寺ト云。又風(外)常ニ曽我田嶋ノ辺ノ山中洞ニ住居ス。其跡今ニ残リアリ。風外達摩トテ世上ニ用画アリ、殊ニ茶室ニ掛ルト云。
 ここでの記事の多くは、『江戸名所図会』の記述とも共通しているが、奇僧風外の没年月日が貞享元年(1684)7月10日であること、その墓は風祭村の宝(法)泉寺にあって「蛇墓」などと呼ばれていたこと、などなどがここに判明する。彼が祀った二体の石像は江戸屋敷へ移された後、爺の方は口中病の、婆の方は咳の祈願に霊験があるとされたものの、二体を並べて祀っておくと必ず爺の方が倒されていたので、両者を互いに離して祀っておいたとあるのも、先の爺婆不仲説を裏付けている。時には山中の洞窟に暮らしていたという風外を、面壁九年の達摩大師にたとえて「風外達摩」と称し、その画像が茶室に飾られたなどとあるのも、興味深いことであった。
 咳の爺婆像が今ある向島の弘福寺の境内には、この風外の顕彰碑があって、昭和9年(1934)に当寺第三十三世義角和尚が建てたものであるが、そこには風外の事跡に関するもう少しくわしい解説が刻まれている[菅原・二見(編),1967:pp.2-4]。それによると彼は出家後に方々を放浪し、相州の成願寺に数年滞在したが、その後は曽我山中の洞窟に隠れ住み、さらに真鶴の草庵に移り住んで乞食同然の暮らしを続け、晩年は遠州の金指へ旅して、そこで没したとのことである。親孝行の人であったので、真鶴にいた時に父母の石像を自ら刻み、朝夕香華を供えていたともいう。風祭の草庵跡に残されたその石像が封内巡視中の稲葉侯の目にとまり、江戸藩邸へと移されたというわけなのであった。
二体の石像が彼の父母像であったとしたならば、草庵跡にそれをそのまま残したまま、風外がそこを去っていくわけはないので、やはりそれはもともと道の神の二つ石であったのだろうと、柳田国男は述べているが[柳田,1964:p.140]、一人の老僧が持ち運べるほどそれは小さなものではないのであるし、それがそこに残し置かれたのは自然なことではなかったかと、筆者には感じられる。とはいえ柳田が推察したように、それが峠道や橋のたもとなどによく祀られてきた男女一対の石像や道祖神にあたるものであろうこともまた、疑いのないところである。
 柳田はまた、二体の石像はもともと自然石であったが、いつしかそこに彫刻が加えられて、爺婆像になったのであろうとしており[柳田,1964:p.137]、それもまたうなづけることではあった。先の『江戸砂子補正』や『江戸塵拾』には、稲葉侯の屋敷内にある両像は爺婆の形をした自然石であったと述べられていたが、それらに先立つ『十方庵遊歴雑記』の時代にはすでに、彫刻が施されていたことが明らかなので、それらが江戸へ運ばれた時にはもう立派な爺婆像になっていたのであろう。それを刻んだのはおそらく風外自身で、もともとそこにあった爺婆型の自然石に多少のレリーフを彫りくわえ、爺婆像としたものと思われる。両像を今見ても、全体の体型は自然石のフォルムをそのまま残し、そこに顔面の表情や衣服の形状を線刻して人物像としており、いかにも素人造りの石像であって、きわめて特異な様相を示した石造物となっているのは、そのためなのであったろう。
江戸の築地へ移された後の爺婆像が「咳の爺婆」と呼ばれるようになり、小児の風邪や百日咳を治す神となっていった理由のひとつとして、それを最初に祀った奇僧の「風外」というその名前、さらにはその旧所在地であった「風祭」という土地の名前が連想を誘い、風邪治しの神とされるようになった、という可能性なども一応は考慮しておいてよいものと思われる。そして、さらにそれが向島の地へと移された明治時代以降には、さらにまた新たな御利益もそこに付与されていくこととなった。山中共古の旧蔵書であった『鶏鳴旧跡志』は現在、その写本が成城大学の柳田国男文庫に収められているが、『諸国叢書』の中のその影印本を見ると、築地時代の老婆像のことを「咳ノ老母」と称し、以下のように解説している。
築地稲葉丹後守中ヤシキニアリ、高サ二尺五寸ノ自然石ニテ老婆ノカタチ也。是レニ咳ノ願ヲカクレバ早速平癒ス。神石ナリ。諸人豆イリセンシ茶ヲ備フ。此石イツレノ頃ヨリアル事ヲ知ラス。
 そこには山中共古自身の手による書き込みも残されていて、「咳ノ老婆老人夫婦ノ石像ハ明治年代本所牛島ノ福寺境内ヘ稲葉家ヨリ移セリ。今ハ咳ヨリモ下部ノ疾病ヲ平癒利益アリトテ履物ヲ納メル者多シ。風外禅師ノ父母ノ像トイフ説ハ古クヨリアリタレド定カナラス。共古記」と述べられている。向島に移された後の明治時代、爺婆の石像は咳よりも下半身の病の平癒に御利益があるとされるようになったというのである。このことについては、山中共古の『土俗談語』にさらにくわしく述べられていて、昭和3年(1928)の記事であるが、次の通りであった。
本所牛島弘福寺に老人夫婦の石像あり。此の像元来稲葉侯の築地邸内に在りて咳の願掛に利益ありと云はれたるものなりしが、維新後弘福寺は稲葉家の寺なれば、此所へ移せしなり。近年此の老人夫婦の石像へ下駄履物を納め腰以下の祈願を致す者多く、門番の老婦の話に三四年前のことなりしが、或る朝早く一人の女来りていふには、私は腰の病にて立歩き出来ず居りたるが、一夜夢に老婆顕れ、私のはき物を買ふて呉れお前の病をなおしてやらんと告ありしゆへ、御約束致したるに、直に腰立たれば、かく早朝下駄を納めに御礼参りに来りしと。これより誰いふとなくはきものを納め、祈願するもの多しと話せり。維新以前は咳の願掛にかなひ、今は腰以下の祈願を受ると成り下りたることにぞある[山中,1985:p.33]。
 弘福寺の爺婆像は、咳止めの神から下半身の病を癒す神へと転身していったというのであるが、そのきっかけを作ったのは、腰痛に悩む一人の婦人の存在であったらしい。彼女の見た霊夢に老婆があらわれ、我に履物を買ってくれたならば、汝の病を治してやろうとのお告げを垂れたという。病の癒えた彼女はさっそく下駄を奉納し、多くの人々がそれにならったということである。こうしたことは実際、よくあったに違いないし、一人の信者の個人的経験から新たな信仰が生み出されたり、既存の信仰が変節を遂げたりすることは、おおいにありうることであったろう。
 けれども、何百年も続けられてきた伝統的で基本的な信仰のあり方は、そうはやすやすと転換を受け入れるものでもなかったと見えて、弘福寺の爺婆像に対する咳止め祈願はなおも根強く続いていく。明治31年(1898)編さんの『新撰東京名所図会』には、向島の弘福寺への移転直後の爺婆像について、「爺媼の石像あり。小児の咳病に霊験ありとて、詣客常に絶へず」とあるほか、以下のような解説も載せている。
境内ののあり。元開基稲葉侯小田原の領守たりし時、其に於てすと云ふ。??記の傳ふる所に據れば夢に君公にする所ありと。其守地を山城淀に轉せらるるに際して、此をにさる。爾来小兒の咳病に霊驗ありとして詣する者甚た多し。
 目を引くのは、そこに載せられた境内図のスケッチであろう(図14)。


 図14 咳の爺婆の堂宇(『新撰東京名所図会』)
 そこには、山門をくぐって本堂へと向う参道左手に爺婆像を祀る堂宇が描かれていて、今見るように右手にそれがあるのではなかったことがよくわかる。しかもその堂内には、二体の石像が仲良く並んで安置されており、築地時代とはまったく異なっていて、不仲の間柄とされた爺婆は、ここでようやく仲直りを果たしたということになる。また、婆の像を右側に、爺の像を左側に配しているのも現状とは正反対で、まことに興味深い。伊藤晴雨の『江戸と東京風俗野史』に載せられたそのスケッチもまた同様で(図15)、
 
図15  咳の爺婆の堂宇(『江戸と東京風俗野史』)
 「本図は震災前の写生。現今は像の位置左右相違せり」との一文が添えられているので[伊藤,1967:p.262]、関東大震災による被災の後、両像は今見るように爺と婆との位置が入れ替わって、堂もまた参道右手の現在地に移されたということになる。そして、そのような変遷はあったものの、小田原の山中から江戸築地へ、さらには向島の地へと居場所を変えつつ、この爺婆にもようやく安住の地が与えられて、一時は下半身の病の守り神となったりはしたものの、本来の咳止め・疫病除けの神としての責務を果たしながら、近年ではコロナ退散の神として、おおいなる再評価をも受け入れてきたことは、注目すべきことでもあったろう。
 ここ最近では、2000年にインフルエンザが大流行したことがあったが、その翌年春には弘福寺の爺婆像へ参拝者が殺到することがあった。それを報じる『朝日新聞』の記事を、以下に引用してみよう。
昨今は猛威を振るったインフルエンザは、今年はまだ流行していない。都立衛生研究所(新宿区)に報告された患者数はピーク時の五分の一ほどだ。だが、「油断は禁物」。今年の冬も、受験を控えた学生やマスク姿のお年寄りが訪れ、石像の前で一心に祈る姿が見られた。ぜんそくの完治を願い、浜松や長野、仙台などから定期的に訪れる人もいるという。「古くから庶民の信仰を集めてきた石像です。お参りして下さい」と、奥田雅博住職(52)は話している[小泉,2001:p.37]。
 このように今日では、風邪・喘息・インフルエンザ除けの祈願がもっぱらそこに寄せられているのであって、冬になると参拝者が多く訪れる傾向がある。2011年における『読売新聞』の記事も、ついでに紹介しておくことにしよう。
お参りすれば風邪をひかないと言い伝えられている石像「咳の爺婆尊」が奉納されている墨田区向島5の弘福寺には、今年も「風邪よけ」を祈願する参拝客が相次いでいる。(中略)同寺では、咳止めのアメと風邪よけのお守りも売られている。16日夕、熱心に手を合わせていた荒川区南千住の会社員、沢井哲也さん(42)は「先週、遠方にいる知人の風邪が結構ひどい、と聞いたのでお参りしたところ、よくなった、という連絡があった。今日はそのお礼に来ました」と話していた。隅田川七福神の布袋尊も奉られている同寺には、近くで東京スカイツリーの建設が進む最近は、参拝客も増えているようだという[読売新聞社(編),2011]。
 重宝記に収録されている計31件の願掛け神仏のうち、今なおその信仰が維持されているものは半数ほどしかないが、それらの中でも弘福寺の「咳の爺婆」はもっとも人気の高いもののひとつであって、200年間の信仰史がそこに守られてきたのは、まことに稀有なことであったといえるであろう。
引用文献
伊藤晴雨,1967『江戸と東京風俗野史』,有光書房.
小泉信一,2001「風邪に『ご利益』、石像2体に人気―仙台・長野からの参拝も―」『朝日新聞』3月5日号朝刊東京版,朝日新聞社.
長沢利明,2021『江戸東京ご利益事典』,笠間書院.
大島建彦,2016『災厄と信仰』,三弥井書店.
菅原 茂・二見堅太郎(編),1967『弘福寺と石碑―隅田川流域に残存する石碑の調査と研究報告書―』,法政大学史跡研究会.
山中共古,1985「土俗談話」『山中共古全集』Vol.2,青裳堂書店.
柳田国男,1964「日本の伝説」『定本柳田国男集』Vol.26,筑摩書房.
読売新聞社(編),2011「『咳の爺婆尊』、風邪よけ祈願」『読売新聞』1月17日号朝刊都民版,読売新聞社.
 
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