西郊民俗談話会 

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連載 江戸東京歳時記をたずねて  11
   2022年3月号
長沢 利明
府中高安寺の涅槃会
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(1)府中宿の高安寺

府中市の高安寺(府中市片町2-4-1)は曹洞宗の名刹で、山号を龍門山と称する。府中宿の旧甲州街道沿いにある寺院で、藤原秀郷の創建した市川山見性寺という古刹を、足利尊氏が室町時代に大徹心悟禅師を開山として招き、再興したと伝えられる。秀郷や源義経・弁慶ゆかりの寺ともされ、広い境内地内には「秀郷稲荷」・「弁慶硯の井戸」などの古跡が残されている。そして、寺地は多摩川の河岸段丘の崖上にあり、要害の地であったため、南北朝〜室町時代にはたびたび諸将の陣所となり、戦火を浴びて荒廃していたのを慶長年間(1596〜1615)に、ようやく再興したのだと諸書には述べられているのだが[遠藤,1985:pp.59-61・平野,2002:p.26]、本当にそうだったのだろうか。
『新編武蔵風土記稿』には、それらの秀郷・義経・弁慶伝説について「いふかしきこと多し」と述べられているし、鎌倉公方足利氏や上杉氏らの軍勢がこの寺に在陣したり、諸将がそこで自害して果てたりしたとの寺伝には、実は一次史料の裏付けがまったくなく、伝承の範囲を超えるものではないのだという[白川,2021:pp.5-6]。とはいえ、民俗学上の重要な伝説地としての高安寺の評価は揺るがないし、東京都選定の歴史的建造物に指定されている本堂・山門・鐘楼などの豪壮な建物群は素晴らしいものなので、府中宿の歴史探訪におとずれる人々にはぜひ一度、立ち寄ってもらいたい重要スポットといえるだろう。
この高安寺では、春の秀郷稲荷の初午祭や夏の施餓鬼法要など、興味深い仏教行事や祭事がいろいろおこなわれていて、それらもまた一見の価値がある。今回は毎年2月15日になされる涅槃会(ねはんえ)を取り上げてみるが、一般にはあまり知られていない行事なので、見学者もほとんどいないのは、まことに惜しい。この日、本堂に掲げられる仏涅槃図(涅槃像)は実に壮麗で見事なもので、偉大なる仏祖の入滅と、それを悼む諸仏と諸弟子と衆生、すべての生きとし生ける者たちが悲嘆に暮れるさまが、生き生きとそこに描かれている。これもまた、多くの人々に一度はぜひ拝観してもらいたいものだと、筆者は願っている。

(2)保育園と涅槃会

2月15日の朝、高安寺を訪れると、本堂入口の下駄箱の前には子供の靴がたくさん脱いであり、ずらりと並べられていて、多くの子供たちが朝から本堂内に集まっていることがわかる。それは高安寺の付属保育園の園児たちで、本日の涅槃会行事に参加するために、隣接の園舎からここまで、保育士たちに引率されてきているのだ。入口の障子を開けて本堂内に入ってみると、園児らが年少組から年長組まで計100人ぐらい、本堂左余間に架けられた涅槃図の前に集まってすわっている。保育士らは10人ほどおり、園児の保護者らも数人、来ておられた。
午前9時半頃から涅槃会の行事が始まるが、園児らは園長先生や保育士らの話をおとなしく聞いている。僧侶による法要などはなされないが、保育士らが釈尊の一代記やその教えなどを、わかりやすく子供らに話して聞かせ、涅槃図を指さしながら、それを絵解きか紙芝居のように活用しつつ、仏祖の最期の時の様子を、見事に解説してみせる。子供らも真剣に耳を傾け、うんうんとうなずきながら話に聞き入っている。本堂内左余間は割と広い部屋で、約100名もの園児たちが密集して全員すわれるほどだ。園児らは保育士の指示にしたがい、みな行儀よく正座しているのは殊勝なことで、躾ができている。高安寺保育園では子供らの日常の生活態度や行儀作法、挨拶や礼儀といったことに重点を置いた教育をおこなっており、部屋の敷居を踏まない、人の前を通らない、物をもらったら礼を言う、といったことがきちんとできるように、日頃の指導をおこなっているとのことだった。
涅槃図が壁に架けられた周辺は、そこだけ煌煌と灯に照らされて、荘厳な雰囲気をかもし出している(写真1〜2)。

 
写真1 涅槃会と子供たち

 
写真2 高安寺の涅槃図
 だだっ広い本堂は豪壮な造りで須弥壇も大きく、金色に輝く天蓋や蟠などで荘厳されて、実に立派だ。堂内の片隅には夏の施餓鬼会に用いられる移動式の大きな祭壇、春の降誕会の花御堂などが置かれているが、それら以外に余計なものは何も置かれることなく、実にさっぱりとした開放的な大広間となっている。涅槃図の前には灯明や焼香具のほか、小さな供物膳が置かれているが、それは釈尊にささげられた特別な食膳だ(写真3)。料理は、ドーム型に盛られた白飯、豆腐とワカメの味噌汁、大根・人参・油揚げの煮物、瓜と赤カブの香の物、キュウリとイチゴの酢の物といったメニューだった。午前10時頃からは子供らの拝礼がおこなわれるが(写真4)、年少組から順番に2人ずつ涅槃図に手を合わせるのだが、横たわる釈尊の姿を間近にじっと見つめながら、子供たちは何をそこから感じ取っているのだろう。
 
写真3 涅槃図への供物

 
写真4 子供たちの拝礼
高安寺の涅槃図を、私たちもまたじっくりと拝観してみよう(写真5)。図の中央に描かれているのは、頭を左に向けて横たわる釈尊の最期の姿で(写真6)、それを取り囲む諸仏・諸尊、弟子たちの嘆き悲しむ様子、群れ集まったさまざまな動物たちの姿は、典型的な涅槃図の画像構成を示している。動物群像には象・牛・馬・イノシシ・鹿・犬・竜・テン・蛇・ヒョウ・猿・ネズミ・獅子(ライオン)などのほか、クジャク・キジ・カモ・ツバメ・鶏・小鳥などの鳥類、さらにはトンボや蝶などの昆虫類やカタツムリまで描かれており、あたかも生物図鑑のようだ。
 
写真5 高安寺の涅槃図
 
写真6 横たわる釈尊
 人畜の群像の背景には森が描かれ、沙羅双樹には白い花が満開に咲いており、夜空には月が輝いている。釈尊の入滅日は2月15日とされているので、月は必ず満月となる。その満月の右手には、雲に乗って天上から来臨する一群の人々が描かれているが、中央に立つ女性はいうまでもなく釈尊の母親である摩耶夫人(まやぶにん)だ。わが子の臨終に立ち会うため、あるいは死の淵に立つわが子を何としても救うべく、あの世から母が雲に乗って駆けつけたというわけで、いわばこれはアジア版のピエタの画像といってもよいかも知れない。摩耶夫人らの一行を先導する一人の男性は、釈迦十大弟子の一人である阿那律(あぬるっだ)尊者だ。摩耶夫人とともに阿那律尊者が描かれた涅槃図は東京都内ではとても珍しいので、貴重な存在といえるだろう。

(3)涅槃会と団子と子供
さて、園児たちの拝礼が終わると、今度は保育士や父兄らが順番に涅槃図を拝んでいき、最後に全員で記念写真を撮って、行事は終了となる。子供たちや出席者の全員に、寺から供物のお裾分けが配られるが、それは五個ずつパック詰めされた小粒の団子だった(写真7)。
 
 写真7 供物の団子
 筆者があとでそれを食べてみてわかったことだが、実はそれは団子ではなくて和菓子の「すあま」を団子のように丸めたもので、上新粉と砂糖を混ぜて練り、団子にして蒸し上げ、粉をまぶしてあり、府中市内の老舗和菓子屋、「青木屋」の特製だという。かつては涅槃図の前で子供らにそれを食べさせていたとのことだった。
そのように高安寺では昔から涅槃会の日に、参拝者らに団子を配ることになっていて、それが古くからのならわしなのだったという。かつての涅槃会の供物と儀礼食の伝統が、今も守られているわけで、大変興味深いことだろう。中部地方や関西では、涅槃会の日に団子を作って食べる習俗が広く見られるが、特に有名なのは福井県遠敷郡上中町の涅槃団子だ。同町内の久栄寺ではこの日、団子まきをおこなって参拝者に拾わせるほか、家々でもさかんに団子を作って食べる。涅槃団子は釈尊の骨をあらわすともいい、食べるだけではなく、1個ずつ袋に入れて身につければ虫除け・マムシ除け・交通安全守りになるともされていた。
高安寺の涅槃会が子供の行事となっていることもまた、なかなかに興味深い問題といえよう。もちろんそれは保育園の行事で、仏教系の保育園・幼稚園であれば、どこでもやっていることだろう。それが仏教教育の一環としてなされている新しい行事であることはもちろんなのだが、もともと涅槃会と子供との関係には深いものがあった。関西では「子供涅槃」といって、涅槃会の日に子供らが家々を回って米や銭をもらい集めたり、宿に集まって飲食をしたり、子供組への加入式をおこなったりする例が広く見られ、京都府・兵庫県・奈良県などでは、重要な春の子供行事とされてきた[岩井,1963:pp.37-41]。高安寺のそれは、いわばその現代版・東京版ともいえることだろう。

謝辞
調査にあたっては、高安寺保育園園長の小澤 宏氏から多大なご協力とをいただいた。心からの謝意をここに表しておく。

引用文献
遠藤吉次,1985『わが町の歴史・府中』,文一総合出版.
平野 勝,2000『多摩の古社寺305』,けやき出版.
岩井宏実,1963「大和東山中の子供涅槃について」『日本民俗学会報』No.31,日本民俗学会.
白川宗源,2021「中世の高安寺について」『武蔵府中を考える』No.3,府中市史編集委員会.
 
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