西郊民俗談話会  本文へジャンプ
投稿 1   2009年11月号

全国の藤森稲荷

伏見稲荷の異称を名のる地方の稲荷と社名由来伝承

榎本直樹

 
所沢市北野南の藤森稲荷
 「森」と名のつく稲荷は、全国に数多くある。稲荷の名に冠される「森」は、森、鳥森、椙森、柳森、稲荷森、十日森、東關森、東貫森、朝日森、嬉しの森、榎森、扇森、岡の森、亀森、櫛森、竹ノ森、杉の森、二つ森、常森、楠ノ森、雉ノ森、楠森、紅葉森、夜森など、枚挙に暇がない。
 そうした中で、「藤森」を冠する稲荷=「藤森稲荷」は、相当な数が見られる。そして、これらの藤森稲荷のいくつかは、境内の藤の木や藤の森にちなんで、そう呼ばれたと伝えている。
 しかし、それは本当なのだろうか? あるいはそんなに単純なことなのだろうか?

 後に一覧を掲げているが、各地の藤森稲荷の一部では、次のようなことがいわれている。
 ○鶴岡市 藤の繁った社が殿様の狩猟の休息所となり、藤森の社と呼んだ。
 ○会津若松市 藤の大樹があったため、藤森の名が冠せられた。
 ○所沢市 境内に大きな藤の木が2本、藤棚が設けられている。社名はそれに基づく。
 ○新宿区 社名は森の中に大きな藤の大木があったからだと伝えられている。
 ○江東区 社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く季期に祭礼が行われ、藤の木魂を祀る藤森神社と称された
 ○藤沢市 「藤」の群生地だったことからそう呼ばれた。
 人手の加わらない森には藤も生い茂ったであろうし、わざわざ境内に藤を植えた場合もあったであろう。ただ、「藤」にちなむのであれば、単に「藤稲荷」でもいい。藤稲荷を称するものは、上記の新宿区下落合(藤森稲荷・東山稲荷の別称あり)のほか、、秋田市金足高岡、藤沢市藤沢などの例があるが、藤森稲荷の数には遠く及ばない。そこには、木の数が多い森のほうがいい、単に「藤」より「藤森」のほうが「それらしい」ということもあるかもしれない。しかし、どうしても「藤森」でなければならない理由が、そこにはあったのである。

 「藤森稲荷」は、伏見稲荷の古い呼称でもある。
 「伏見稲荷大社」という社名が正式に用いられたのは昭和21年。意外にも極めて新しい。江戸時代、伏見稲荷は、「稲荷宮」「稲荷本宮」「惣本宮」「山城国稲荷社」「稲荷社」、あるいは「藤森(ふじのもり)稲荷」「藤森の稲荷」(1)さらには「三峰稲荷」「三之峰稲荷」(2)「深草の稲荷」(3)と呼ばれた。その存在の大きさゆえに、単に「稲荷」といえば伏見稲荷を示していたのであり、他の稲荷と区別するための個性的で統一的な名称はなかったのである。伏見稲荷という名称が浸透する前は、一見なんとも不自由であったと見える。
 それでも、これらの多くの名称の中で「藤森稲荷」は、少なくとも江戸時代には、伏見稲荷の名称として、関東を中心に広く用いられたものであった。しかし、明治以降には、それが伏見稲荷を示すものであることは忘れられてしまった。そのため、各地の稲荷の中には、かつて藤森つまり伏見稲荷とかかわりがあったのに、そのことが忘れ去られてしまったものがあるのである。結果的には、本社の名称変更ないしは名称統一に、末社の側が置いていかれたのである

 ところで、全国の稲荷の多くが藤森・伏見の分社であれば、「藤森稲荷」「伏見稲荷」を称するものがもっと多くあるはずなのに、なぜそうなっていないのだろうか。
 稲荷勧請すなわち藤森・伏見稲荷を分社する行為は、「正一位稲荷大明神」という藤森・伏見の稲荷の神格を、地方稲荷社に迎え祀る行為である。ここには、藤森・伏見の分霊を授けられるという面と、「正一位」という神階を授けられるという面の2面があった。つまり、地方稲荷社がそのまま「正一位稲荷大明神」である藤森・伏見の分社・写しになるという面と、地方稲荷社が藤森・伏見から「正一位」という位を受けるという2つの面である。そして、各地の稲荷に求められたのは、伏見・藤森の分霊=写しになる(本社と同一のものになる)ということよりも、それぞれに個性をもったまま(「太郎」「北向」など固有の名称と性格をそのままにして)「正一位」の位を得るということにあった。端的に言えば、「うちの稲荷さんは、伏見から分けた伏見稲荷さん」というよりも、「うちの太郎稲荷さんは、京都の伏見から正一位の位をもらった」というとらえ方だということである。
 これが、各地の稲荷において、伏見稲荷・藤森稲荷を称するものが少ない理由の一つと考えられる。
 しかし、中には本社の伏見・藤森の分霊であることに重きを置くものがあって当然である。むしろ勧請という意味からすれば、それこそが本来なのである。
 新宿区下落合の藤森稲荷は、藤稲荷、東山稲荷の名でも知られ、近世の『十方庵遊歴雑記』に藤森稲荷の分社であることが明確に記されているとともに、近代ではむしろ藤の古木があったことから藤森稲荷と称するというようなことがいわれている。
 明確な例があるわけではないが、本社の名にちなんで「藤森稲荷」を称するとともに、藤の森を境内地とし、あるいは境内の樹木に藤を選んで藤の社叢を育て、藤棚を作る稲荷分社があっても不思議ではない。むしろそれは自然なことである。
 そして、やがて本社が藤森稲荷すなわち伏見稲荷であるということが忘れられ、藤森稲荷の名称と境内の藤だけが関係づけられることで、各地の藤森稲荷の現在の由来が成り立ったと考えられるのである。

 @藤森稲荷が伏見稲荷の呼称であることは定説であると考えられる(2)が、まだ一般には知られておらず、文字通りの「通説」とはなっていない(4)
 A以前に報告した後、10年を経てインターネット環境が普及した現在、ネット上で意外にも多くの「藤森稲荷」が見受けられ(5)、これらに上記の可能性が皆無ではないと思われてきた

ということから、ここで指摘しておくこととした。
 ただ、新しい情報の大半はインターネット上のもので、きちんと分析するだけの用意もない。そのため、やはりネット上で、その存在を紹介するにとどめておく。


1 榎本直樹「伏見稲荷と『藤森』」『正一位稲荷大明神 ―稲荷の神階と狐の官位―』岩田書院、1997年

2 丹 和浩「深草周辺の地名を扱った江戸の草双紙について」『朱』48号、伏見稲荷大社、2005年

3 菊池誠一「寛政期神祇管領長上吉田家江戸役所の活動の一端」『社寺史料研究』3号、社寺史料研究会、2000年

4 榎本直樹「江戸庶民の『お稲荷さん』」中村陽監修『イチから知りたい日本の神さま2稲荷大神』戎光祥出版、2009年
  一般書で、少しでも藤森稲荷に触れた(まさに触れただけではあるが)のは、おそらくこの短文が初めてである。

5 ネット上で藤森稲荷をさがすきっかけは、2001年に次のサイトを見たことである。
  「藤森神社を探そう」 http://www.geocities.jp/mfujimori/japan/fujimori/fujimori.htm
  これは「藤森神社」「藤森稲荷」の両方を対象としている。

  なお、「藤森神社」と「藤森稲荷」との関係については、重要な問題があるが、この報告では触れないでおく。


各地の藤森稲荷一覧


 文献で見つけたものに、ネット上の情報を加えたところ、いっきに事例が増えた。
 地域の鎮守・氏神レベルのもの、有名神社の境内社などが見られる。ほかの社祠も、ネット上にあるものは、他者のまったく関わらない屋敷神のレベルではなく、一定の規模をもつものと推測できる。
 2009年12月現在


名称 所在地 本社 藤の有無(―は、なしor不明) 備考/出典の順で記載
(本社を「藤森」とするものは、それが伏見と認識されていない可能性が高い)
藤ヶ森稲荷神社 八戸市類家1丁目 京の藤ケ森稲荷 ― 義経は、海尊が京都の藤ヶ森稲荷の社から持参した一握りの土を類家の北の州先に埋め、小さな祠を作った。「藤ヶ森稲荷神社(類家稲荷大明神)」がそれである。縁起には、京都も賑やかなのは藤ヶ森の西方一帯である。よって、自ら建立した社の西に開けた野原は、後々必ず家も建ち人里になると、「京ヶ原」と名付けた。/義経北行伝説の足跡を追う!(青森県編)http://homepage1.nifty.com/maholobaland/yositune/hujigamoriinarijinjya.htm

藤森稲荷神社 山形市緑町4丁目 ― ― 所在情報のみ/yahoo地図

藤森稲荷神社 鶴岡市文園町6−3 ― 藤あり 元和8年酒井公が荘内に就封、その一家老が石の祠を造って稲荷を祀った。弘化2年木造に改築、藤の繁った社が殿様の狩猟の休息所となり藤森の社と呼んだという。/山形県神社誌、山形県神社庁。平成12年

藤森稲荷神社 会津若松市新横町 ― 藤あり 記録に明治11年6月5日俸遷宮藤森大神宮とある。藤の大樹があったため、藤森の名が冠せられ開花の季節には、まことに美景であったという。/会津若松市お日市マップhttp://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/index_php/map_ohiichi/show_map.php?cate=c1300&data_id=b45da88c64f134d3bb9944a65253d7bd

藤森稲荷 いわき市常磐湯本町三凾158 松柏館 ― ― 屋敷神。かつて本陣を務め、現在は旅館となっている家の屋敷神/じゃらん松柏館http://www.jalan.net/uw/uwp3000/uww3001.do?yadNo=347399&rootCd=03&afCd=31&vos=njalvccp99000

藤森稲荷神社 石岡市府中2丁目 ― ― 所在情報のみ/yahoo地図

藤森稲荷神社 石岡市高浜 ― ― 所在情報/yahoo地図
マッピング霞ヶ浦* - 分類目次 http://www.kasumigaura.net/mapping/page/971130a-18b.html

藤森稲荷 行方市麻生か? ― ― どんぐり山の西側/どんぐり山くらぶhttp://home.g00.itscom.net/c623/donguri-fujimoriinari.htm

藤森稲荷 宇都宮市大曽2丁目 ― ― 所在情報のみ/yahoo地図

藤森稲荷神社 栃木県芳賀郡益子町小宅1369-1 益子亀岡八幡宮 ― ― 境内社。所在情報のみ/益子亀岡八幡宮(栃木県益子町) 関東の神社めぐり プチ神楽殿kaguraden.blog11.fc2.com/blog-entry-16.html

藤森稲荷神社 佐野市 ― ― 所在情報のみ/SANOVIEW.NET 佐野市の風景 藤森稲荷神社http://www.sanoview.net/photo/tanuma/010.htm

藤森稲荷 正一位藤森稲荷大明神 高崎市大橋町 ― ― かつて大橋町にあり、上小塙の烏子稲荷神社に合祀されたともいわれるが、実際には明治43年に高崎神社に合祀された旨の石碑が同神社にある。/隠居の思ひつ記「追跡!藤森稲荷」 http://inkyo.gunmablog.net/e70626.html

藤森稲荷 小川町下里 ― ― 所在情報のみ/yahoo地図

藤森稲荷 三芳町竹間沢 伏見 ― 竹間沢には6つの稲荷社があり、それぞれの氏子が2月11日に稲荷講を行う。藤森稲荷は文化年間に伏見稲荷から勧請したと伝えられる。/三芳町史民俗編

藤森稲荷神社 所沢市北野南2−28 伏見 藤あり 文政7年(1824)2月に当地の小暮孫兵衛という者が、伏見稲荷から分霊を受けて祀るようになった。境内には大きな藤の木が2本、藤棚が設けられている。社名はそれに基づく。/埼玉県神社庁神社調査団編『埼玉の神社 入間・北埼玉・秩父』

藤森稲荷神社 所沢市坂之下 ― ― 所在情報のみ/yahoo地図

富士森稲荷 埼玉県秩父郡皆野町 ― ― 所在情報のみ 森の妖精を求めての秩父ハイキング@親鼻〜美の山頂上まで http://4travel.jp/traveler/tsuneta63/album/10232158/

藤森稲荷 松戸市 徳蔵院 ― ― 境内社。本堂に並んだ祠があり、その一つに「藤森稲荷」がある。「藤森」ではない可能性あり/http://kotatujo.cool.ne.jp/hyo/tawagoto/2004/tawagoto-09.htm#b

藤森稲荷 新宿区下落合 藤森稲荷 藤あり 別名は藤稲荷 東山稲荷。藤稲荷または藤森稲荷という名称は、森の中に大きな藤の大木があったからだと伝えられている。現在も境内には、小さいながら藤棚がある。/http://www006.upp.so-net.ne.jp/jsc/wakayama/bokusui.htm

藤森稲荷神社 江東区猿江2-2-17 猿江神社 移転前は毛利2-13 ― 藤あり 境内社。江戸時代初期には本所(墨田区)横網町の江戸幕府御用材木蔵に祀られていた、享保19年御用材木蔵と共に猿江(現在の猿江恩賜公園)に遷座、明治以降は宮内省所管となった。社殿が藤の木で囲まれ、毎年花の咲く季期に祭礼が行われていた事から、いつしか藤の木魂を祀る、藤森神社と称された。昭和52年春、都の都市計画による江貯木場の移転に伴い現潮見駅前に遷座されるが、平成13年猿江神社の境内に安宮鎮座される、木材の守護神として商売繁盛、工事作業安全のご利益があるとされる。/http://pochipress.blog20.fc2.com/blog-date-200812.html

藤森稲荷社 大田区南久が原2-30付近 ― ― 元は南久が原一丁目25番地の岡上にあったが、2007年に「ぬめり坂」への途中左側に移ったらしい。元位置は六郷用水南北引き分けを見下ろす岡の上であった。/『馬込と大田区の歴史を保存する会』ホームページhttp://www.photo-make.co.jp/hm_2/numerisaka.html

藤森稲荷神社 川ア市川崎区大師駅前2−13−16 若宮八幡宮 ― ― 境内社。昭和の始めまで大師本町の明長寺に近くに祀られていたが、再開発計画により若宮神社境内に移された。商売繁盛の神様。地元の商人たちの信仰も篤く、奉納鳥居がたくさん並ぶ。例祭は3月「旧二午祭」/若宮八幡宮http://www.tomuraya.co.jp/wakamiya-5.htm

藤森稲荷大明神 川崎市川崎区宮本町7-7 稲毛神社 ― ― 境内社。所在情報のみ/町で出遭ったゆかいな仲間たちhttp://www.c-player.com/ac45872/thread/1100030608294

藤森稲荷神社 藤沢市本鵠沼5丁目 ― 藤あり 藤沢駅の西1500メートルほどの線路脇の森にある。元弘3年、新田義貞が鎌倉の北条高時を討つ途中、この森に馬を止め、近くの湧水を飲んだことから、その武名を慕って本社を建立したといわれている。当時は「藤」の群生地だったことから藤森稲荷様と呼ばれ、鵠沼では最古の稲荷様という。/ジョージのつれづれぐさhttp://blog.goo.ne.jp/george_31/e/2bb7055c445df1ac0955599ce5ff1354

藤森稲荷神社 熱海市咲見町6−7 ― ― 所在情報のみ/神社仏閣マップ藤森稲荷神社http://shrine-temple.jp/30240102

藤森稲荷神社 犬山市大字犬山 ― ― 所在情報のみ/http://kumandata.web.fc2.com/kotobuki.pdf#search='藤森稲荷'

藤森稲荷 富士森稲荷社 山梨県吉田口五合目 ― ― 〔富士森稲荷社〕富士山五合目の中宮改小屋跡の近くにある。『富士山道知留辺』では、この稲荷は「藤森稲荷」と記されている。/上吉田の民俗

藤森稲荷大明神 長野市大字山田中 ― ― 所在情報のみ/yahoo地図

藤森稲荷神社 茅野市湖東 ― ― 所在情報のみ/yahoo地図

藤之森稲荷社 上田市中央西1丁目 ― ― 所在情報のみ/yahoo地図

藤の森稲荷 川西市小花 ― ― 狭い路地裏にある/Photo Gallery 9246 http://www.kunishiro.sakura.ne.jp/ph/street/kawa/street02/st201.htm

藤森稲荷社 京都市伏見区深草鳥居崎町609 藤森神社 ― ― 境内社。藤森神社境内に藤森稲荷神社がある。/藤森神社http://www.fujinomorijinjya.or.jp/keidaizu.html

藤森稲荷神社 山口市古熊1−10−3 古熊神社 ― ― 境内社。境内社に藤森稲荷神社がある。/古熊神社http://www.geocities.jp/furukumasann/fujimori.html

藤の森稲荷 久留米市城南町 日吉神社 ―― 境内社/http://members.jcom.home.ne.jp/1614661501/jinja/tanboo/kurume1/hiyoshi1.htm

藤森稲荷 諫早市 伏見 ― 諫早家十五代武春公の祈願により、御舘山稲荷、藤森稲荷、鶴森稲荷の三稲荷が、伏見稲荷から分霊拝受して諫早に祀られた。藤の森稲荷神社は、諫早藩主十五代・武春公の代に祭祀され、現在は御舘山稲荷と合祀された。御舘山稲荷は、諫早藩主八代・茂行公の代、佐賀綾部八幡の御神託により、京都伏見稲荷を勧請し、正林の大乗院に建立し祭祀されたものであるが、明治五年に御館山に移された。/マイタウンいさはやhttp://www.1388.ne.jp/鶴森稲荷神社 http://www.fwd-net.com/jin2/turu.html"

藤森稲荷神社 筑後市大字水田62番地の1 水田天満宮 ― ― 境内社。境内社に藤森稲荷神社がある。/水田天満宮http://www.mizuta-koinoki.jp/mizuta/


藤森稲荷の分霊 本社が伏見稲荷とは認識されていないもの

名称 所在 本社とされる神社 備考 出典 の順で記載した

日比谷稲荷 東京都港区新橋4丁目13-9 藤森稲荷

下谷神社 台東区東上野3丁目29番8号 藤森稲荷 天平2年(730年)僧行基が京都の藤森稲荷を勧請して上野忍ヶ岡に創建されたといわれる。その後、上野山下,稲荷町広徳寺門前へと移転し,昭和3年(19298年)に現在地に移った。/ "www.asahi-net.or.jp/~DZ3Y-TYD/jinjya/shitaya/shitaya.html
www.portaltokyo.com/guide_23/contents/c06063shitaya.htm"

(正法院) 豊島区西巣鴨4丁目 藤森稲荷 天平二年 (730) 行基によって、上野下谷が岡に、京都藤森稲荷を勧請し(のちに下谷稲荷と呼ばれる)合わせ開創された。江戸時代、大火の度に周辺は焼けたが、寺は免れたため、「火伏観音」とあがめ篤く拝まれた。/ "www.tokyo-rekisi.com/toshimaku/nishisugamo/nishisugamo.html
"
烏子稲荷神社 群馬県高崎市上小塙 藤森 延暦年間に山城国の「藤森」から分霊を受けてきたという。社のそばにある古墳の横穴はオモロ(お室)といい、「藤森」に続いているという。/上小塙町の民俗

稲荷神社 埼玉県秩父郡荒川村小野原 藤森家 小野原・鷺ノ巣・芝原という三つの大字の氏子数50戸の神社。宝暦七年(1757)修験玉宝院に依頼して「藤森家」から「正一位稲荷大明神」の称号を受けた。/埼玉の神社

岡稲荷大明神 熊本県菊池市泗水町田島 藤森稲荷 天狐に乗った神様の像が祭られている神社。この神社の由来は江戸時代の書物に、雅人治部という人が夢のお告げにより、山城の国の藤森稲荷を勧請したという。 http://www.a8.ws001.squarestart.ne.jp/sekaiisan_kumamoto_hokubu2.htm


狐が集う森「藤森」のイメージ

 前に書いた報告(1)と重複するが、「藤森」のイメージを確認しておきたい。
 文化年間(1804〜18)に成立した根岸鎮衛の『耳袋』には、「勢州高田門跡の狐」が、「京都藤の森へ官に登る」ため、その途上で、ある村の者に憑いて一宿を乞う話(巻の二「福を授かる、福を植えるという事」)、あるいは、大坂の真田山のある老人のもとを、用事のため遠国へ参るのでしばしの暇ごいにと訪れた者があり、それが人ではなく実は「藤の森」の狐であったという話(巻の四「化獣の衣類など不分明の事」)が記されている。
さらに、巻の二「小堀家稲荷の事」には、「藤の森」について、次のような記述がある。

 京都に住む上方御郡代小堀数馬祖父の時、ある日玄関へ三千石以上の供廻り訪ねて来た者がおり、取次が出てみると、「数年懇意厚情に預りましたが、出世して他国へまかり越します。これによりお暇乞いに参りました」と申し置いて帰った。取次も不思議に思いながら数馬へ伝え、数馬もそういう人に心当たりがなく不審に思っていたが、ある夜の夢に屋敷の鎮守の白狐が現れ、「年久しく屋敷の内に居たりしがこのたび藤の森のさしずにて他国へ昇進せし ゆえ、疑わしくも思わんがこのほど暇乞いに来れり」云々とある。
屋敷神・稲荷の本体である狐が、「藤の森さしずにて」昇進するということから、「藤の森」には、狐の集う山であり、狐を統御し指図する者の存在がうかがわれる。

 続いて、巻の四「人間に交わる狐」は、次のような話である。
丹波の国の富家の百姓の家に出入りする翁は、山に穴居して、衣食は人間の通り、久しく百姓家に仕えて農事家事を手伝い、家の老少ともこれを重宝して怪しみ恐れる者はなかった。あるとき、家長にむかって、「官途のことで上京する」のでと、別れを告げた。引きとめもかなわなかったが、翁が別れを告げる際、「もし恋しくも思い給わば、上京の節、藤の森にて、おじいと呼び給うべし。必ず出でて対面せん」といったため、初めて狐であることを知った。その後、藤の森に至って、うらの山へ行って「おじい」と呼んだら、その翁は忽然と出てきた。

 ちなみにこの説話は、『山城名勝志』などにも載っている有名な話で、こちらでは「門太夫」という百姓の家のこととされている。以下は、東随舎『古今雑談思出草紙』の記事である。

丹波の国に門太夫といふ百姓あり。渠が家より毎年禁裏へ玄猪の餅を献ず。〔割註〕山城名勝志などに其由来書のせたるによつて文略す。」誠に名高き家なり。其門太夫が方に狐の人に化したるが、先祖より屋敷裏の山の尾崎、岩くつの中に住り。此きつね、惣髪にして齢ひ五十歳程に見ゆ。常には膏薬を製して、近在洛中に売あるき、其あたひの利分を以て、四季の衣類を門太夫が方を頼み仕立て着し、日の中は家内もありて、諸用を手伝ひつゝ助けとなり、夜に入れば岩穴にいりて臥し、明れば出て家内にあり。立居言語にいたるまで、人間に露たがふ事なし。都て人情に馴ざる事におどろき恐れ、馴ては物に心を留ば驚かざるものにて、門太夫が家内はいふもさらなり、其名をおぢいと呼て、誰しらぬものなし。至極調宝なる事は、境論なぞ有時は、此おぢいに尋ねとふに、前々誰が旧地にて、其後に誰人ゆづりたり。其頃が斯の境ひなりしが、何年以前の洪水に境ひあらたまりしなど、三百年程前の事を、今見る如く物語るにより、年古き事の判らざる事は、渠にとふて改たまりし事多くあり。村中の助けとて、皆々悦びけるとかや。或とき、右のきつねは、門太夫が前に出て落涙していはく、是まで御先祖より数代、御世話に預りぬ高恩たとへんかたなし。然るにこのたび計らずも、京都藤の森より使来つて官に登り、彼地に住居すべきよし申来るに依て、御名残もおしくは御座候へども、永く此地に戻り難し。是迄の大恩申上るに言葉なしとて、恩を謝し瑕を告げるにぞ。門太夫が家内も名残をおしみ止めけれども、狐はとゞまらずして申けるは、此末御家内に、火災、凶事、賊難はべらば、告しらすべしとの誓ひを立て別れさる。跡にて村中の者も大きにおしみ合り。夫から此方、門太夫が内に事ある時は、夜分にきつねのなく事一度、又悦びの事ある時はなく事三度なり。今に於て違はずとなり。此狐の立去しは、享保初年の事なるとぞ言伝ふ。是其村の人の先のとし、咄し侍りしなり。

筋書きはかなり異なるが、門太夫のおじいの話は、 「まんが日本昔ばなし」で、「伏見へ行ったおじいキツネ」として、製作・放映されている。http://www.youtube.com/watch?v=-XxOHZXVKZU

 以上の説話に再三登場する「藤の森」とは、藤森神社ではなく、伏見稲荷なり、その鎮座する土地である藤森の地名として用いられたものである。「藤の森に到り、うらの山へ行きて」とある「山」とは、伏見稲荷の背後にある稲荷山に相違ない。そして、この話に表れる「藤の森」には、諸国から集った狐の棲む森というイメージが内包されていたのである。
 『耳袋』に見るかぎり、文化年間当時、「藤森」が独自のイメージを形成しており、それは伏見稲荷への庶民の信仰を象徴するものでもあったと見られる。説話にしばしば登場する「官」「官位」は、狐が伏見から授けられるものとされている。
 このような「藤森」のイメージ」が、各地の藤森稲荷の森にも、込められていたのではないだろうか。
 群馬県高崎市上小塙の烏子稲荷神社は、延暦年間に山城国の「藤森」から分霊を受けてきたといい、社のそばにある古墳の横穴=オモロ(お室)は、「藤森」に続いていると伝えている。このように地域の稲荷の穴が伏見につながっているという話は、ほかでもときどき聞くことができる。 「藤森」は、狐=各地の稲荷を統御する神霊の森であり、「狐の本所」というべき特別な意味をもっていたのである。
 各地の「藤森稲荷」の名に、単に植物の藤ではなく、本社である伏見稲荷とのつながりが込められていてしかるべきだと、考える根拠である。
 

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